16 力をあわせて
その日の宿は、日常にも増した活気に満ちていた。
「アニャシア、ジェイデンが順番に残りの材料を持ってくるから、気にせずこのまま進めて構わないよ。力仕事はあいつの得意分野だ」
腕を捲ったマクシーンが気合いを入れてエプロンの紐を結び直す。
「はい」
ヘザーは手に持った小石を壁に埋め込み、返事をする。彼女の指先はすっかり汚れてしまっていた。ヘザーだけではない。今日は朝から店の営業も止め、常連客らとともにずっと作業を続けているのだ。
「ノア、これで合っている?」
後ろを振り返り、ヘザーは少しだけ身体を斜めに傾ける。彼にしっかりと進捗を見てもらうためだ。キャルムとデザイン画を覗き込んでいたノアは、ヘザーに呼ばれて顔を上げ、凛々しく唇の端を持ち上げた。
「ばっちりだよ、アニャシア。でもそこまで、デザインに寸分違わず仕上げなくても問題はない。少し変わってしまってもそれがまた味になるだろうし。だから、あまり気負わなくても大丈夫」
緊張が滲むヘザーの眼差しに笑いかけ、ノアは砕けた語調で彼女の肩の荷を下ろそうとする。彼の言葉が効果的だったのか、ヘザーの瞳からふっと力が抜けていく。
「ノアの言う通りだ。アニャシアさん、自由に並べてくれていいからね。ノアだって、デザインの専門家ってわけではないのだし」
ノアの隣でデザイン画を持つキャルムは目を細めて朗らかに笑う。
「ただ、私たちの知る中ではこういった知識は彼が一番物知りだからね。ノア、引き受けてくれて感謝するよ」
「いえいえ。こちらこそ。楽しませてもらいました。ここは宿に入る人が一番最初に寛ぐ場所だ。そんな大役を任せられて、光栄ですよ」
ノアは目の前に広がる壁一面に顔を向ける。暖炉の背後に構える壁の三分の二は殺風景で、素材そのものが剥き出しになったまま。対照的に、残りの三分の一はカラフルな小石やガラスの欠片で埋め尽くされている。ヘザーが中心となり、何の変哲もない壁にそれらの粒を並べ、絵を描いているのだ。
マクシーンたちが宿の改装のための資材を集めたところ、捨てるには惜しいガラスの破片や小石たちがたくさん溜まっていた。寄せ集められるものはなんでも、見境なく引き取っていたのだ。その使い道を思案していたヘザーだったが、先日、モザイクアートに利用することを思いついた。
宿の内装は最初に改築した時のまま、これといった特徴もなく、厳しく言えば地味なものだった。そこに、ぼうっと眺めるだけでも楽しめる遊び心を加えてみてはどうかと考えたのだ。
早速マクシーンとキャルムに提案すると、二人もヘザーの考えに同意した。そこで、ロビーの壁の一部に直接素材を埋め込み、モザイクアートを作成することになった。
とはいえ、三人ともアートの作成経験は希薄。どんな景色を描けばいいのか三人で話し合っていた時に、キャルムがひらめいたようにある一人の人物の名をあげた。
そうだ、ノアに相談してみるといい。
それから、酒場に来たノアにモザイクアートの計画を打ち明け、彼が快く引き受けたのちに今に至る。
ノアは相談を受けてすぐにデザインを作成し、彼に相談した三日後には作業ができる状態になっていた。
宿のロビーにモザイクアートを作るという噂を聞きつけた常連客は、手が空いている者は皆手伝いに来てくれた。彼らのおかげで作業は順調に進んでいる。ジェイデンも当然のように協力してくれ、彼は倉庫に詰め込んでいた材料を運ぶために倉庫とロビーを何度も行き来していた。
「アニャシアさん知っているかい? ノアはこう見えて、自分のアトリエを持っているんだよ。昼間あまり顔を見せなかったのも、そっちの作業に夢中で外に出ることを忘れてしまうからなんだ」
手にした黒い石をどこに埋めるべきか悩む男に声をかけられたノアを横目に、キャルムはヘザーにこっそりと内緒話をする。
「アトリエ、ですか? ノアはもとから芸術家なの?」
初めて聞く情報に目をぱちくりさせ、ヘザーは丸い目をキャルムに向けた。
「芸術家というよりも追及者と言った方が近いかもしれない」
キャルムは男に丁寧に指示を与えるノアを見やり、柔らかに呟いた。
「キャルムさん、それは大袈裟です」
彼の声が聞こえていたのか、男と話し終えたノアが照れた様子で眉尻を垂らす。が、表情は少しだけ嬉しそうだった。
「過去の遺産を見ていても、すべてを知ることは出来ない。けど、彼らの未来人として見ていくと、先人たちがやってきたことに想いを馳せるのは面白い。彼らが何を考え、何を目指していたのか。考えに飽きが来ないんだ。だから俺も、後の人たちに遺せるものは遺したい。伝えたいんだ、今の時代が、どのようなものだったのか」
まだ未完成のモザイクアートを感慨深い目で眺め、ノアは大切そうに言葉を紡いでいく。
「後の人たちに驚いてもらいたくて。結構、過去も凄いことをしていたんだなって。失われいくものもたくさんある。だからこそ、偉大な発明は守りたい。少しでも多く、その痕跡を追っていたいんだ」
「やはり、ノアの話は興味深いね。まるで深海の底から果てしない光を眺めているようだ。深く深く、未来への希望を見据えている。希望が見えないのなら、希望を作ればいい。ノアはいつも、そう言っているね」
キャルムが感心を潜めた反応を示すと、マクシーンがデザイン画を見たいと彼のことを呼ぶ。二人から離れて行くキャルムをヘザーは視線で追う。キャルムはマクシーンに合流し、作業の具合を確認し始めた。次にヘザーはモザイクアートを眺めて嬉しそうに頬を綻ばせているノアに目を向ける。すると、視線に気づいたノアと目が合った。
「アトリエで、何を作っているの?」
不意に視線が絡み合い、ヘザーの指先がぽうっと熱を帯びた。何か話さなくてはと、ヘザーはアトリエの話題に触れる。
「今は、骨灰磁器の製作をしてる。この焼き物の発明は画期的だったからさ。でも作る人が限られてて」
「発明を守るのね」
「はは。そういうこと。最近、他の国でも出土品や伝世品の紛失とかも多くて。なんか、悲しいなって思っちゃって」
ヘザーが納得したように頷くと、ノアはくすぐったそうに笑って恥じらいを隠そうとした。図星だからこそ、直球で言われると照れてしまうのだろう。
「過去の建築物とかでもさ、もう今では手に入れることが不可能な素材が使われていたりするんだ。過去の時代に使い尽くされてしまって、自然から葬られてしまった資源もいくつかある。そういうものはもう再現の出来ない幻のようなものだ。素晴らしいものなのに、なくなってしまう儚さも嫌いじゃない。でも、やっぱり寂しいから」
ノアは小さく咳払いをし、気を取り直して真摯な表情を見せる。
「この宿と同じ。時代はずっと、変化していく。逆らえないことばかりだ。だからこそ、変化の中でも自分が出来ることはやっておきたくてさ。せめてもの抗いなのかな。自分の意志は、確かにそこにあったっていう」
「……ええ。すべては変化していくものね」
ヘザーはノアの考えに同調した。彼女が重ねていたのは自分の過去だ。突如として激流が襲い、何もかもが変わってしまった。彼の言う微かな反抗の真意も、今は身に染みて分かる。
自分一人の力は脆くて、ひどく弱い。けれど、だからといってすべてを諦める潔さもない。今が上手くやれているかなんて自分では判断ができない。
が、ただされるがままでいるのは後悔しか残さない。それだけは嫌なのだと、今でははっきりと言い切れる。ヘザーにとっては大きな進歩だった。
瞼を伏せ、ノアの言葉を噛みしめるように手の平に閉じ込める。
彼女の神妙な面持ちが、ノアの興味を惹きつけ続けた。ノアが鼻先に息を吸い込んだ時、二人の背後にジェイデンが寄ってくる。
「よし。アニャシア、残りの材料も持ってきたよ。ここからは俺も石並べを手伝うよ」
ようやく資材運びに一区切りがついたようで、ジェイデンは達成感の滲む笑みを浮かべていた。
「ノア、どこを手伝えばいい?」
「ああ。そうだな──」
ジェイデンはノアの肩に腕を回して僅かな休息を取り、彼の指示を仰ぐ。ノアはモザイクアートの全景を見渡し、作業が進んでいない向かって左側の空白を指差す。
「デザインは頭に叩き込んだ。よし、やるか」
皆と作業できることが嬉しいのか、ジェイデンは荷物運びの疲れを一切見せずに手を叩いて気合いを入れる。
「私も、作業に戻らないと……。ノア、ジェイデンを手伝ってくれる?」
「ああ。あいつ、多分そこまで完成形のこと覚えてないだろうしな」
ノアはジェイデンの性質をよく分かっているようだ。彼がそう呟いた直後、ジェイデンはガラスの欠片を手に固まってしまう。手に持ったはいいものの、それをどこに並べるのかうっかり忘れてしまったらしい。
考え込むジェイデンをノアは微笑ましそうに見やる。
「じゃあアニャシア、こっちは頼む」
「はい。完成が楽しみですね」
雑談を止め、ヘザーも再び作業に集中する。
壁一面だけとはいえ、大量の粒を並べて絵を描いていくのは大仕事だ。マクシーンたちは今日中に終わらせることを目標にしている。そのために、ここからしばらくは余計なことを考えている暇はないだろう。
反対側からはノアとジェイデンの愉快な会話が聞こえてくる。彼らの子どものような無邪気な笑い声を耳に残し、ヘザーは目の前のアートに神経のすべてを注いだ。
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