15 まにまに

 スイングドアが軋む音がして、入り口に目を向ければ背の高い青年の笑顔が開く。


「ノア、本当に来てくれたのね」


 彼が昼間の時間に店に姿を現すのは珍しい。窓から差し込む陽のもとで彼を見たのは彼がウィッグを届けてくれた時が最初で最後だ。いつも酒場が人で溢れてきた頃に来店することもあってか、人山越しでない彼の登場がヘザーには真新しく感じた。

 彼が見えた途端、店内に差し込む光が柔らかく揺らぐ感覚に包まれる。仕事の最中、単に彼の笑顔に気持ちが和らいだからだろうか。


「夜とはまた、全然違った雰囲気になるんだな」


 このフロアに明るい時間に足を踏み入れるのはノアにとっても新鮮だったようだ。興味津々に辺りを見回し、近寄ってきたヘザーにおどけた表情をしてみせる。


「ええ。まるでカフェみたいでしょう?」

「ああ。なんだか自分が場違いに感じるよ」

「そんなことない。誰だって歓迎だもの」


 ノアを暖炉近くの席に誘導し、ヘザーは消えかけている火を元気づけようと用意していた薪を手に取った。


「少し待っていてね」


 このところは昼間でも寒い日が増えてきた。店内が十分に暖められていない状況に申し訳なくなり、ヘザーは急いで火をおこし直そうとする。仕事に慣れたとはいえ、いくつもの作業に同時に神経を尖らせることはまだ難しい。


「大丈夫。十分温まるから」


 背後から聞こえるノアの声の方が気温よりも温かく感じた。彼を振り返り、ヘザーは彼の悪戯な笑みにはにかむ。


「昼は昼で、騒がしくないしのんびりできて悪くないな」

「ゆっくりしていって。今、飲み物を持ってくるから」


 暖炉に火が蘇ったのを確認し、ヘザーはよいしょ、と立ち上がる。ジェイデンが前に置いていった茶葉がまだ残っているはず。酒好きのノアの口に合うかは分からないが、一体彼がどんな反応をするのかが見たくなったヘザーは日頃の感謝の気持ちを込めて渾身の茶を振舞おうと思ったのだ。


 ノアは厨房に立ち去ろうとするヘザーにひらひらと胸の前で手を振る。彼の何気ない仕草を見ていると、なんだかすっかり心を許した友人同士のように錯覚してしまう。初対面の時もそうだった。酒場での振る舞いを見ても分かる。彼は誰に対しても等しく友好的な性分らしい。その影響なのか、不思議と心が絆されていく。ヘザーも例外ではなく、彼の分け隔てのない眼差しには救われる思いだった。


 オークリー親子、キャルム、マクシーンといい、ラタアウルムで出会う人々は器量の大きい人間ばかりだ。国が豊かだと、心にも余裕が生まれるのかもしれない。

 母国を出た経験のないヘザーは、知ることのなかった外の世界に身を置き、自分の視野が広がっていくのを実感する。

 ただ見聞きするだけとは大違いだ。追放の過去を呑みこみきることはまだ出来ないが、すべてが悪い方向へ転がったわけではない。


 温めたお湯をポットに注ぎ、ヘザーは色付いていく透明な液体をぼうっと見やった。

 そうだ。悪いことばかりではない。一歩後ろに下がってみれば、見落としている何かが見えてくるのかもしれない。

 トレイにポットとカップを乗せたヘザーがフロアに戻ると、ちょうど新たな客が席についたところだった。


「いらっしゃいませ」


 キャルムとマクシーンが裏にいる今、店員として挨拶できるのは自分だけ。ヘザーは少しだけ張り切った声を出してみた。すると。


「あ! えーっと……アニャシアさん!」


 席についたばかりの亜麻色の髪の娘がヘザーを見つけて嬉しそうに身体を弾ませる。確か彼女は、前に三人で来店した娘の一人だったはず。


「レイニー、さん?」


 靴職人を目指しているという仕立て屋の娘、レイニーだ。彼女たちと交わした一方的な会話の記憶がワッと湧き上がり、ヘザーは気恥ずかしさで頭が真っ白になった。


「そうです。覚えていてくれたんですね!」


 しかしレイニーはくらくらと眩暈を覚えたヘザーの気まずさなど知らないようで、勢いのままに両手を机について立ち上がる。今にも飛びかかろうとする猫の如く前のめりだ。瞳はきらきら、頬を持ち上げ、興奮気味に笑っている。


「良かった! わたし、アニャシアさんにお礼が言いたくて」

「お礼……?」


 彼女の興奮が処理しきれずに立ち往生するヘザーは、トレイを持ったままレイニーの言葉をオウム返しすることしかできなかった。


「そうです。前に、洗顔のコツを教えてくれましたよね。あれ、すごく効果的で。まだ肌が綺麗になったってわけではないんですけど、それでもだんだん良くなってきて。出来物の数も減っていったんです」


 レイニーはコクコクと何度も頭を縦に振りながら喜びを伝える。


「髪も、助言頂いた通りピンで留めてみたんです。ほら、これ、自分で作ってみたりして」


 ふわふわの綿菓子に似た髪を指差し、レイニーはこめかみよりも上の位置で左右対称に留めたピンをヘザーに見せる。


「出来物が気になっちゃってしょうがない時も、極力触らないように……作業に集中して、出来物のことは忘れるようにしたんです。そうしたら、治りも早くなって。すごく感謝してるんです。アニャシアさんの助言に従って良かったなって。もっと早く知りたかった!」


 息継ぎする間もなく言葉にするさまは、彼女の包み隠さない素直な気持ちそのままだった。レイニーはぺこりと頭を下げ、晴れやかな表情で顔を上げる。


「アニャシアさんありがとうございます。また、何か良い情報があったら、教えてくださいねっ」


 両手を合わせてほのぼのと頬を綻ばせるレイニー。ヘザーは瞼をぱちりと開閉し、呆気にとられたままこくりと頷く。


「お役に立てたようで、光栄です。ピン、とてもかわいいです」

「本当ですかっ? ありがとうございます」


 嬉しそうにぴょこっと身体を弾ませるレイニーに、驚きに満ちたヘザーの心も次第に安寧を覚える。

 太陽光を浴びる彼女の肌は以前見た時よりも健やかな印象を抱く。彼女が実感した通り、確かに効果は少しずつ出ているようだ。

 何よりも、コンプレックスを乗り越えようとする彼女の笑顔が素敵に思えた。肌が輝いて見えるのも、彼女のその心を映した表情が活き活きしているからかもしれない。


「また、いらしてくださいね」

「はいっ。もちろん! アニャシアさんもお時間がある時にうちの店に来てくださいね」


 快活な語調でちゃっかりと自身の店の宣伝を挟むところもなんだか微笑ましかった。ヘザーは改めてレイニーに会釈をし、手にしたトレイをノアのもとへ運ぶ。


「随分と喜んでたな」


 ポットとカップを机に並べるヘザーにノアがうずうずとした様子で訊ねる。


「レイニー、何かいいことでもあったのか?」

「前に、少し。お節介かと思ったけれど、役に立てたようでほっとした」


 お茶をカップに注ぎながら、ヘザーは小声で控えめに事情を告げた。どこかそわそわとした落ち着きのない口調に違和感を覚えたのか、ノアは斜め上にあるヘザーの顔を上目で見やる。


「レイニーは少し照れ屋なんだ。そんな彼女があんなに感情を露わにするなんて、よっぽど嬉しいことだろう」


 役に立てた、と言葉だけは前向きなものの、胸の内では複雑な模様を描いていそうなヘザーの不自然な表情に気づき、ノアはヘザーに自信を持たせるようなことを言う。が、ヘザーの瞳に滲む不安は薄れなかった。


「……なんだか、人に感謝をされることに罪悪感を覚えるの。恥ずかしいのか、本当にお礼を言われるようなことをできたのか分からない不安なのか、どちらとも言えるのだけれど……逆に、申し訳なくなってしまうわ」


 ポットを机に置いたヘザーは本音を吐露して情けなく笑う。ノアの前では注ぎたてのお茶の香りを含んだ湯気がささやかに揺れていた。


「それに、美容の助言を話したって、髪がぼろぼろの今、私に説得力なんてないでしょう?」


 自分を卑下してクスリと笑うヘザーの瞳は寂しそうだった。ノアと少しの間目を合わせる。自分でも、彼にこんな話をしていることが不思議だった。だが何故かしら、彼には躊躇うことなく話せてしまう。やはり彼の天性の人たらしの才は厄介だ。薄緑色の瞳を見つめ、ヘザーは恨めしそうに唇の端を緩める。

 彼女の本心を黙って聞いていたノアは、ヘザーの話を聞いて微かに頭を傾けた。


「そんなの関係ある? 俺は美容のこととか詳しくはないけど、大事なのは、その人に合っているかどうか、だろ。誰に言われたか、だけが重要じゃない」


 目元を弛ませ、ノアは何の疑問も持たずにさらりと言う。


「古代の発掘物を研究していてもさ、昔の人は、自分たちの環境に合ったものを選択し、より良い道を見つけてきた。場所によって気候も何もかも違うし、どこにでも適合する完璧な方法なんてあり得ない。それって、人間個人で捉えても同じだ。自分に合った手入れを取捨選択する。それが結果的に、自分を魅力的に見せてくれる。レイニーには、アニャシアの助言がすごく合ってたんだ。なら、素直に感謝を受け取っても罰は当たらないだろう」


 ノアの見解にヘザーの青色の瞳が一回り広がっていく。まったく新たな捉え方で、ヘザーには思いつきもしなかった考えだ。


「誰に言われたか、が重要なことだってある。でも今回は、それだけじゃなかったはず。アニャシア、もっと自分を褒めてあげなくちゃ。君は、レイニーの悩みを一つ解決したんだから」


 ノアの邪気のない笑い声が微かに続く。深く考えすぎているヘザーのことを憐れんでいるわけではない。ただ、彼にとってはヘザーの感謝の受け止め方が斬新だっただけなのだろう。未知の思考に、彼の好奇心が興味を示したようだ。


「あのね、ノア」

「ん?」


 ノアはお茶がなみなみと注がれたカップを手に持ち、唇に運んでいく。まだ熱そうだが、彼は猫舌ではないらしい。一口飲み込み、ヘザーの声に視線を向ける。


「髪のこと、なくてもいいことがあるって、最近気づいたの」

「うん?」

「前はね、毎晩整えてから寝るのが窮屈だったの。でもそうしないと翌朝が大変だからって、我慢して習慣づけてたの。でもね、今はそこまで気に掛けなくていいの。それって、すごく楽で、なんだかぐっすり眠れている気がするの」


 囁くように、ヘザーははにかみながら誰にも言わなかった本心を打ち明ける。不本意な展開で髪を削がれてしまったことはずっと彼女の心に錘となってのしかかっていた。しかし、絶望的なことだけではない。ある日、寝る前にふとそんなことを思った夜があった。習慣という自分に課した呪いにも縛られず、気ままにベッドに入っていくと、少しだけ身体が軽く感じたのだ。

 眠っている間も、寝癖に怯えることもなく睡眠に集中できる。当たり前のようで当たり前ではなかった感覚は、不気味な錘を僅かながら持ち上げてくれた。


「安眠は大事だよね」


 ヘザーの話にノアは楽し気に笑う。さっきよりも少し幼く見える彼の笑顔に、ヘザーも頬を柔らかく崩して頷いた。

 見方を変えれば。視野を少し広げれば。

 案外、物事は思うよりも違う方向へ進んでいるのかもしれない。

 トレイを抱えたヘザーは、ほのかに熱を帯びた微笑みを浮かべる。憑き物が落ちたように心が晴れていくのだ。


「お茶、味はどうですか?」

「初めて飲む味だ。少し甘いけど。ほっとしたい時には、ちょうどいい味」

「ふふ。良かった」


 彼女の嬉しそうな声にノアは大袈裟にカップを掲げてみせた。まるで彼女に乾杯しているようで、それがまたヘザーには可笑しかった。ヘザーは右手を丸めてカップを持つふりをして彼のカップと空中で乾杯する。

 心なしか、人に感謝されることを消極的に捉える凝り固まっていた気持ちが和らいでいくようだった。


 ノアはその後、フロアに戻ってきたマクシーンにお勧めされるがままに試作のサンドイッチを食べてから店を後にした。

 彼が食べた後片付けをしていると、スイングドアの向こうに久しぶりに見る顔が近づいてくる。


「ジェイデン! お帰りなさい」


 店内に入る前にヘザーの出迎えの言葉を受けたジェイデンは、照れくさそうに片手を上げた。


「ただいま。母さんのところに随分長居しちゃったかな」


 バーカウンターにいるキャルムにも目配せをしたジェイデンは、ドアを押してフロアに入る。彼がまず注目したのはヘザーのウィッグだった。思えば、彼と最後に会った時にはまだ布を被っていた。彼にしてみれば長旅から帰還した気分になるのは自然なことだ。


「ノアに頂いたの」

「あ、ノアね。さっき外でちょっとすれ違った。昼間にここに来るなんて、あいつも珍しいことをする。だから余計に、違う世界に来たみたいに思うんだな。うん、そうだ」


 ジェイデンは自分に言い聞かせて頷いてみせる。


「さっきマクシーンさんに会ったらさ、アニャシアは店を手伝っているっていうし、改装のための資材が余ってないかって頼まれたし。ほんと、時空を越えたような気分」


 しみじみと自分が不在の間に起きた変化を振り返るジェイデンは眉尻を垂らしつつもニヤリと笑う。


「宿の改装方針が変わったって本当? 塗装を変えるだけじゃ物足りなくなったのかな」

「ええ。そうなの。私も、出来ることは手伝いたくて。この宿、もうすっかり大好きだから」

「その言葉は俺としても嬉しいな。あっ。そうだそうだ。さっきそのウィッグをノアに貰ったって言ったよね? あいつ、さっきはそんなこと一言も言わなかったくせに」


 ここにいないノアに恨み節を呟くジェイデン。彼の口ぶりから二人の親しさが伝わってきたヘザーは前から気になっていたことを訪ねてみる。


「そういえば、まだ本人には訊けていないのだけれど、ノアは学者なの?」


 いつも店を出入りする彼の姿を振り返ってみても、恐らく一定の自由が確保された職業についているはずだ。考古学を趣味同然と言った発言を思えば、学者である説が有力だとヘザーは考えていた。けれど自分から話さない話題に踏み込むのも悪いと、本人には直接訊けていなかったのだ。自分も、今はそうされたくないと思うからだ。


「ノアから話を聞いた? ほんとああいうの好きだよね、あいつ。えっとね、ノアは」


 ジェイデンは感心しているのか呆れているのか分からない笑い声を洩らし、ノアの話を続けようとした。が、彼の声はそこで遮られてしまう。


「ジェイデン! ちょっとこっちに来ておくれよ。これ、一体何だい?」


 マクシーンの威勢の良い声がロビーの向こうから響いたからだ。彼女が放った風船が弾けたような大きな声に、ヘザーとジェイデンはびくりと肩を上下させた。


「あー。多分、冷凍肉だな」


 ジェイデンは声がした方向を見やり、力なく笑いながらちらりとヘザーに視線を向ける。


「いいの。マクシーンさんを手伝いましょう」


 話を途中で止めることを迷う彼の眼差しを受け、ヘザーはジェイデンの身体を彼女のもとへ行くようにくるりと回す。

 結局、その日は酒場の営業時間までジェイデンが運び込んできた大量の搬入物の処理に追われることとなった。仕事が終わった頃にはもうくたくたに疲れてしまい、ヘザーはジェイデンの話の続きを訊くことをすっかり忘れてしまった。

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