13 あまのじゃくなこころ

 ヘザーがラタアウルムに来てから今日で十二日。酒場の手伝いを始めてからの日々はあっという間で、ヘザーは飽きのない毎日を送っていた。

 ノアからウィッグを貰ったことで、人前に出ることにも徐々に抵抗感が薄れていった。今では常連客と会話を交わすことも少なくない。


 ヘザーはキャルムとマクシーンが営む宿屋に身を置く旅人として常連客の間で話題を呼び、彼女に会うことを目当てに酒場を訪れる客も現れるほどだった。

 アニャシアの名で親しまれるようになったヘザーだが、宿屋に来るに至った経緯については真実を語ることは出来なかった。


 旅の途中、盗賊に襲われすべてを奪われたところでオークリー親子に助けてもらったと語れば、皆、恐ろしい目にあった彼女を気遣ってか深入りはしてこない。偽りを口にするのは心苦しかった。けれど、ヒューバートに追放された過去を告げるよりは幾らか心の負担は軽い。本当のことが知れたら、きっとここにはいられないのだから。

 素性を秘密にしたまま、ヘザーはアニャシアとして生きていく覚悟を決めていたのだ。


 酒場の常連の一人にノアもいる。彼はたくさんの知り合いがいるようで、来る度に違うグループの輪に入っていた。彼が酒場に顔を出せば、すぐに誰かが手を挙げて彼のことを呼ぶのでそれも仕方のないことなのかもしれないが。

 商人の仕事のために留守になることも多く、今も隣国に行ったままのジェイデンとは違い、彼はそこまで忙しくもないようだ。とはいえ、酒場で人に酒を奢ることもあるくらい金銭には余裕があるらしい。


 酒に強い彼はあまり酔っぱらった姿を見せない。いつも来た時と同じ爽やかな顔で店を後にしていた。そのせいで、呂律が回らなくなった客の世話をすることもよくある。調子が悪そうな顔をしている客のところにヘザーが駆け寄れば、いつも彼が代わりを申し出てくれた。


「ノア、あなたはお客様なのだから、そんなに気を遣わなくてもいいの」


 今日もまた、真っ赤な顔をして幸福そうな顔で倒れた客の介抱にノアは名乗り出た。ここのところ連日だ。流石に申し訳なくなったヘザーは赤い顔の男の様子を観察しているノアに声をかける。

 ヘザーが濡れたタオルで男の額に滲む汗を拭くと、ひんやりしたようで男の頬がぐにゃりと緩んだ。


「何もしない方が苦手でさ」


 男を挟んで向かい側にしゃがみこんでいるノアが気恥ずかしそうに笑う。

 もう片方の手に持っていたコップに入った水を男に飲ませ、ヘザーは彼の背中を壁にそっと預ける。呼吸は問題なさそうだ。


「ノアは親切なのね。私にしてくれたのと同じ」


 彼が自分にウィッグをくれたのも、恐らく動機は同じなのだろう。そう思うと、ヘザーは彼の善意に対抗する言葉が見つからなくなってしまった。

 あくまで彼は客なのだから、あまり迷惑をかけたくはないのだが。


「アニャシア。連れが迎えに来たみたいだ。ここはいいから、先に休んでていいよ。ノア、あんたもそろそろ帰りな」


 ノアがヘザーの呟きに視線を向けたところで、人の気配が消えたフロアをマクシーンが歩いてくる。用意していた今日の分の材料が尽き、店の営業は三十分前に終わっていた。本来ならヘザーも仕事を終えている。が、酔っぱらったこの男の兄が彼を迎えに来るまでの間、ヘザーとノアで面倒を見ていたのだ。


「ありがとうございます。ノアをお見送りして参ります」


 マクシーンに言われ、ヘザーは立ち上がってお辞儀する。ノアも遅れて立ち上がり、彼女の所作をじっと見やった。


「ノア」


 ヘザーを興味深そうに見つめるノアに対し、マクシーンが彼の目を覚まさせるかのように指を鳴らす。


「ほら、お行き」


 ノアの顔がマクシーンに向くと、彼女はそのまま親指をロビーの方面に向ける。

 マクシーンの表情は明らかにノアを急かしていた。


「ご馳走様でした、マクシーンさん。おやすみなさい」


 早くヘザーを休ませたいのかもしれない。ノアは彼女の意図を読み取り、目元を緩めて涼やかな挨拶をする。


「アニャシア、行こうか」

「はい」


 自分が動かなければヘザーも動きづらいことを知っている彼は、流れる動作で彼女をロビーに向かわせる。ヘザーが見送るはずが、反対に彼にエスコートされる形になってしまった。

 ロビーに出ると、ちょうど酒場で寝ている男の兄が宿屋の扉を開けたところだった。彼がいる場所を指し示し、ヘザーは開かれた扉を手で押さえる。


「ノア、今日もありがとう。ノアの家はここから近いの?」

「そんなに遠くない。ちょうど夜風が涼しいから散歩しながら帰ろうかな。誰もいないだろうから、心地が良さそう」

「寄り道はだめ。もう遅いのだから、気を付けて帰って」

「アニャシアにそう言われたら、従うしかないなぁ」

「まぁ。それではまるで、私が暴君みたいじゃない」

「随分と人想いの暴君だね」


 ヘザーがくすくすと笑い声をこぼせば、ノアは軽やかに声を弾ませた。扉を持たせたままなのが悪いと思ったのか、ノアは外に出て彼女を振り返る。


「じゃあ、また」


 片手を上げて陽気な笑みを浮かべたノアが満天の星空の下を歩いていく。


「待って、ノア」


 思わず呼び止めてしまったのは、彼の姿が夜に溶けて見えなくなってしまうのが名残惜しかったからだろうか。再びこちらを振り向く彼の瞳に、ヘザーはごくりと息をのみ込む。


「ウィッグ、本当にありがとう。すごく、嬉しかったの」


 まだ言えてなかった感謝の言葉。声に乗りきらない切なる感情が瞳にまで溢れ、澄んだ青色を輝かせた。


「また、遊びに来てね」

「ああ。今度は酔っ払いのいない、昼にでもお邪魔しようかな」

「ふふ。いつでも歓迎するわ」


 冗談交じりの彼の言葉にこくりと頷き、ヘザーは得意気に微笑んでみせる。

 手を振って見送れば、彼の笑顔が遠のいていく。彼が去ると、一気に辺りが静かになったような気がした。静寂の音に耳を澄ませば、今日一日の疲れが瞬く間に癒されていく。扉を閉めたヘザーは、夜の余韻に浸りながら暖炉の前のソファに腰を掛ける。しばらくして、背後を数人の足音が通っていくのに気づいた。

 恐らく、酔っぱらった男と彼の兄が帰ったのだ。顔だけで振り返れば、マクシーンとキャルムが二人を見送って扉を閉めたところだった。


「ああ、そこにいたのかい。今日もお疲れ様、アニャシア」


 ヘザーと目が合ったマクシーンはにこりと笑ってこちらに近づいてくる。


「アニャシアさんが来てから酒場はますます賑やかになった。君はもう、うちの看板娘だね」


 キャルムも後に続き、ヘザーが座っているソファの斜め前に置かれた椅子にゆっくりと座る。マクシーンはヘザーの隣に腰を掛けた。


「ほんとほんと。アニャシアの評判おかげか、また売り上げの記録が更新できそうだ。もっと仕入れを多くした方がいいのかねぇ」


 マクシーンは興奮しているのか息を荒くする。


「うち、宿の方は客が来なくて閑古鳥が鳴いてるからさ。もう飲食一本でやった方がいいんじゃないかと思っているところなんだよね」

「宿は、今、改装中だから、落ち着いているのではないでしょうか?」


 マクシーンの発言にヘザーがきょとんと首を傾げる。ジェイデンもそう言っていた。確か新しいアイディアを求めて改装を進めていると。


「いやぁ。それもさ、前から客が全然来ないから始めたことなんだ。改装して、心機一転すれば客も来るようになるかもってね。旅人は皆、周りの安宿に行っちまうし。でも全然アイディアも浮かばなくて。結局堂々巡りだよ。改装したって同じような部屋が出来るだけ。それじゃ客も興味を持たない」


 マクシーンはブンブンと大袈裟に手を顔の前で振ってみせた。キャルムも同意なのか、彼女の言葉に物静かに頷いている。


「だからいっそのこと、宿は閉めて酒場の方に力を入れようかと」


 マクシーンはそう言いながらも少し寂しそうな顔をした。ヘザーは彼女の憂いが浮かぶ表情が気になり、目を瞬かせる。


「マクシーンさんは、人の世話をするのが好きって仰ってました。宿の仕事は、とても向いていると思います」

「確かにそうだけどねぇ。宿を経営してると、かえって金銭的には苦しくなるからねぇ……」


 ヘザーの純朴な意見にマクシーンは苦い顔で眉根を寄せる。


「はじめ、宿を始めたいと言ったのはマックスなんだ。彼女の幼い頃からの夢だと聞いてね、どうにか続けたいとは思うが……なかなかに、手強いものだ」


 二人の話を聞いていたキャルムが悔しさを滲ませながら微笑んだ。

 マクシーンは彼の情に満ちた声に胸を抑え、何度も首を縦に振る。彼の自分を想う気持ちが染みたのか、その表情は今にも泣いてしまいそうだ。


「だからきっと、アニャシアさんが最後の客だ。大いにもてなしたいんだよ。……結局、働かせてしまっているけどね」


 キャルムが申し訳なさそうに眉尻を下げる。ヘザーは二人の顔を交互に見やった。酒場の経営が順調なことは、まだ日の浅いヘザーにも十分に納得できた。反対に、二人の言う通り、改装中とはいえ宿の客を目にしたことはない。

 事実だけを見れば、宿を閉め、酒場に注力する判断は正しいと言えるのかもしれない。けれどそれは同時にマクシーンの夢を閉じることと同じ。ヘザーの胸の底がきゅっと痛みを覚えた。

 夢を諦めなければならない状況がどんなに苦しく、耐えがたいか。ヘザーはよく知っている。当然、他人事などと思えるはずがない。


「私が最後の客では、勿体ないと思います」


 しんみりとした眼差しで見つめ合っていたキャルムとマクシーンの瞳が同時にこちらを向く。ヘザーは二人の驚いた丸い目に負けぬよう、背筋にしっかりと芯を入れる。


「私、ここにきて、とても気持ちが休まりました。旅を始める前も、旅の間も、私はずっと逃げたくてたまりませんでした。目の前の現実から、とにかく離れていたかったのです。でも、どこにも行き先はなくて、自分を見つめ直す心の余裕すら持てなかった。ずっと何かを守ろうと、自分の弱いところにしがみついたまま。もう、ぼろぼろで、自分が惨めで、どうしようもなく嫌でした」


 ヘザーは叶わぬ想いを殺し続けてきた日々を思い返し、情けなく頬を崩す。つい、睫は下を向く。


「けれどここに来て、二人の美味しいご飯を毎日食べて、お客様と会話をしていると、少しずつ、自分を許せるようになりました。もう少し。まだ、自分を諦めなくてもいいんだよ、って、元気が湧いてくるんです」


 本人は気づいているのかいないのか。彼女の表情は話すうちに明るく、朗らかな色に染まっていく。きら、きら、と、朝日が細かな光で花々を照らすように。彼女の笑顔もまた、同じ輝きに満ちていく。


「ここはとても空気が美味しいし、お庭も綺麗。ご飯は注意していないと、美味しすぎてみっともない顔になってしまうくらいに一流。まるで違う世界に来てるみたいでした。実際に、ラタアウルムに来たのは初めてですが……そうではなく。この宿は、現実を忘れられる素敵な場所だって、思うのです」


 二人の反応を見ることもなく想いを語ったヘザー。言わないと後悔すると思ったのだ。二人には言葉では言い表せないくらいの感謝をしている。だからこそ、ここは偽りのない素直な言葉を伝えたかった。

 気持ちを言い切って落ち着いたところで、ヘザーはハッとして顔を上げた。思った通り、二人の目は真っ直ぐにこちらを向いたまま固定されている。


「あ……えと、その……。宿を閉めるかもしれないと聞いて、少し感情的になってしまって。こんなこと言われても、困りますよね」


 ヘザーは肩をすくめて恐縮する。隣に座るマクシーンが何も言わないのが怖い。最早、瞬きすらしていないように見える。


「……………………それだ」

「え?」


 聞き間違いか。マクシーンの口から声が洩れたような気がしたが、定かではなかった。ヘザーが彼女の方を見やると、マクシーンは天の巡り合わせを受けたかの如く放心した表情で口を丸く開けていた。


「アニャシア、それだよ。わたしたちがやるべきなのは……!」

「え? えと……」

「キャルム! そうは思わないかい?」


 マクシーンの声にはやたらとハリがあった。意見を求める彼女に、キャルムは嬉しそうに頷く。


「ああ。まさしくそうだ。アニャシアさん、ありがとう」


 今、この場で状況を理解できていないのはヘザーだけのようだ。置いてけぼりを食らったヘザーは困惑したまま二人の顔を忙しなく交互に見やる。


「宿って言えば、ラタアウルムに来た旅人たちのために開かれるものだと思い込んでたよ。でも、アニャシアの言った通り、宿に求められている役は旅の寝床だけじゃない」

「……と、言うと?」


 マクシーンに訊ねれば、彼女は得意気に笑い、ヘザーの鼻先をちょんっと指でつついた。


「宿に滞在することを目的にしてもらえばいいんだ。非日常を過ごしてもらう場所としてね。滞在するだけで特別な気分になって、楽しんでもらう。心身を癒して、また日常に戻る英気を養うんだ。宿はついでに泊まる場所じゃない。地元の人間も泊まりたいと思うような憩いの場を提供するんだ」

「ああ、いいね。日々の生活を忘れられる場所、そんな体験ができる空間を、私たちが作っていきたいね」


 マクシーンの前のめりな発言にキャルムが穏やかに微笑んで同意する。


「アニャシア、あんたのおかげだよ。もうわたしたちだけだとどん詰まりだったんだ。宿を畳むか、赤字で悲鳴を上げ続けるか、どっちかしか選択肢はなかった。でも、アニャシアがもう一つの可能性を教えてくれた。ありがとう。本当に、あんたはわたしたちの恩人だよ。救世主だ」

「アニャシアさん、本当にありがとう。なんだか、今度は上手くいくような気がするよ。また挑戦する心に火をつけてくれた」

「ああ。こうしちゃいられない。さっそく案を考えていかなきゃ。滞ってた改装も、さっさと進めていかなきゃね」


 マクシーンは素早く口を動かしながらも待ちきれずに立ち上がって自室へと戻っていく。もう頭の中にはいくつかのアイディアが浮かんでいるのかもしれない。あまり周りの様子を気にする素振りも見せず、自身の思考に集中したままスタスタとロビーを去って行った。


「マックスは思いついたら居ても立っても居られない性質でね。ああなったらもう、彼女が描く世界を楽しみに待つしかないんだ」


 呆気にとられて口が塞がらなくなったヘザーにキャルムが優しく声をかける。


「あの、私、余計なこと、言いましたか……?」

「とんでもない。感謝してるよ。君がここに来てくれて嬉しい。私たちにとっては神様からの恵みだ。ありがとうアニャシアさん、私たちに出会ってくれて」

「そんな。私。私こそ、お世話になってばかりで」

「それが私たちにとっての喜びなんだよ。アニャシアさん、明日もまた早い。これから忙しくなりそうだ。今日は、もうゆっくり休みなさい」

「……はい」


 キャルムの柔らかな語り口に、暖かな温度が部屋中に広がっていくようだった。

 ヘザーは立ち上がるキャルムの動きに合わせて視線を上げる。

 彼もマクシーンの後を追って自室へ足を運ぶ。ロビーに一人残ったヘザーは、火が消えた暖炉を見つめて今起きたことを反芻する。

 自分が言った言葉が、悩んでいた二人の助けになったのならそれは喜ばしいことだ。こんなに感謝されたのはいつぶりか。


 けれど同時に不安も覚える。

 ここまで人に褒められた記憶はこれまでの人生を振り返っても思い当たるところがない。敢えて言えば、ハドリーに偽装婚約を申し出た時くらいだ。


 どきりと、全身に釘を打ち込まれたような緊張が走る。

 二人が喜んでいることも、二人に自分の言葉が受け入れられたこともとても嬉しい。純粋にそう思っていたいのに。

 過去、感謝の後にどのような経緯を辿ったのかを想えば、賞賛の言葉が少し怖いというのがヘザーの本音だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る