12 見知らぬ自分


 ヘザーの仕事は日を追うごとに増えていく。

 二日目には客のオーダーを取り、各テーブルへの配膳も迷うことなく行えるようになった。三日目の今日はフロアの仕事だけでなく、仕入れた酒の確認と受け取りのサインまで任された。


「ありがとう、ジェイデン。問題なく、すべて揃ってる」


 サインをしたヘザーは酒を運んできたジェイデンに受取書とキャルムから預かっていたお金を渡す。


「確認ありがとう、アニャシア。キャルムさんたちにもよろしく伝えておいて」

「うん」


 ジェイデンはヘザーから受け取ったものをすべて鞄にしまい、唇の端を柔らかに持ち上げた。


「アニャシアが手伝いを始めたって聞いて少し驚いた。どう? もう慣れた?」

「まだそこまででもないの。少しずつ仕事を覚えていくのは楽しいけれど」

「酒場の皆はどう? 変な奴に絡まれたりしてない? 酔っぱらいは面倒だからな。困った奴がいたら言って。俺から叱っておくからさ」

「ふふ。大丈夫。そんな心配はないわ」


 ジェイデンの得意気な顔が微笑ましく思え、ヘザーは控えめにクスリと笑う。

 客たちは皆気のいい人たちだ。それに、挨拶は交わしても、自分たちの時間に夢中になってヘザーに構う者の方が少ない。彼女が常に気配を消しているから当然なのかもしれないが。昨日、一昨日と、特に不快な思いをすることなどなかった。


 どちらかと言えば、自分の方が失礼なことをした記憶がある。

 ヘザーは一昨日に見た薄緑色の瞳を思い出して心を痛めた。

 彼から逃げるようにして裏に引っ込んでしまったことをずっと気にしていたのだ。

 自分に負い目があるせいで、彼に不愉快な思いをさせてしまったはず。だがどうしても、他人の視線から逃げたくなる衝動には抗えない。


「そう? ならいいけど。でももし言いづらいってだけだったら、俺には気を遣わなくてもいいから」

「本当に大丈夫。皆、歓迎してくれていい人たちね」

「まぁそれが、ラタアウルムのいいところかもしれないな。来るもの拒まず、去る者惜しむ。色んな国にお邪魔したけど、やっぱり故郷には敵わないって、贔屓目に見ちゃうし」

「それは悪いことではないと思う」


 正直にそんなことが言える彼のことが少し羨ましく感じ、ヘザーは僅かに自らの故郷を思う。母国のことはもちろん好きだ。けれど、もう戻れないのだと思うと懐かしむことすら寂しい気持ちになる。彼のように、大事な想いには素直でいたいのに。罪悪感が同居するなんて少し悲しい。

 ヘザーが哀愁を滲ませた笑みを見せたので、ジェイデンは微かに首を傾けた。


「ねぇ、ジェイデンはお店に来ないの? まだ不慣れで、働いているところを見られるのは恥ずかしいけれど、知っている人がいるとやっぱり嬉しい気持ちになると思うの」


 彼の微細な表情の変化に気づいたヘザーは話題を変える。するとジェイデンはヘザーの言葉に表情を明るくさせながらも肩をすくめた。


「俺も行きたいんだけどね。今日の午後からはまた隣国へ行くんだ。今度はしばらく滞在する予定でさ」

「取引のこと?」

「うん。それもあるんだけど、隣国には俺の母さんも住んでるから。たまに会いに行って、親子の時間を過ごしてるんだよ」

「まぁ、それは素敵。仕事も大事だけど、ゆっくり楽しんできて」

「ああ。そうさせてもらおうかな」


 ジェイデンは宿屋のロビーに掲げられた時計を見上げてすぐにアニャシアに視線を戻す。


「じゃあ俺はそろそろ行くね。親父は残ってるから、不在の間、何かあったらちゃんと報告するように」


 やけにはきはきとした語調で言うので、まるで父親が言っているのかと錯覚する。


「ええ。ジェイデンも、気を付けて行ってきてね」


 宿屋を出ていくジェイデンを見送り、ヘザーは仕入れた酒を運ぼうと木箱に手を伸ばす。箱はいくつかある。キャルムとマクシーンは昼の営業に向けた仕込みを始めているはずだ。余計な手を煩わせたくはない。だからヘザーは一人で順番に運んでいこうと考えていた。

 まずは一つ。

 慣れない力仕事に気合いを入れ、箱を掴んだ両手にぐっと力を入れたその時、ジェイデンが去ったはずの扉が再び開く。


「ジェイデン?」


 忘れ物でもしたのかと、ヘザーは扉の方に顔を向ける。


「あ」


 しかし扉を開けたのはジェイデンではなく、見覚えのある青年だった。薄緑色の双眼がこちらを向き、真っ直ぐにヘザーのことを捉えている。

 彼はヘザーを見るなり声をこぼす。その顔にはぱぁっと笑顔が広がっていく。


「アニャシア、また会えて良かった」

「あ。えと……」


 明るく、耳当たりの良い爽やかな声で彼は嬉しそうに笑う。彼とはほとんど初対面。だが、まったくそうは感じさせない親愛の情が彼の言葉には滲んでいた。


「覚えてる? ノア・レオーネ。前に酒場でグラスを下げてくれたよね? あの時は騒いじゃってごめん。お店に迷惑かけちゃったかな」


 彼の瞳ははっきりと自分を映している。あの晩にこみ上げた感傷が胸に沸き上がり、ヘザーは思わず一歩後ろに下がった。そんなつもりはない。彼を避ける理由などないのに。強大な怪物に背中を引っ張られているかの如く、身体が言うことを聞かず、怯えがすべての感情を支配していくようだった。


 立ち向かいたい想いと逃げ隠れたい感情が入り混じり、ヘザーは彼と目を合わせたまま何も言えなくなってしまう。戸惑う様子のヘザーに対し、ノアは彼女に近づこうとしていた足を止める。

 一定の距離を保ったまま、ノアは愛嬌満点の微笑みをヘザーに向けた。彼の顔には一点の曇りも不快感も潜んでいない。ただヘザーと話がしたい。単純な庶幾だけがそこにはある。


「いえ、迷惑だなんて、マクシーンさんもキャルムさんも思っていません。二人とも、とても楽しそうでした。私も、賑やかな声は、聞いていて、楽しかったです」


 恐る恐る、ヘザーは言葉を口にしてみる。ちゃんと後頭部の布は結ばれているだろうか。不安にも思ったが、手で触って確かめるのも不自然だ。


「よかった。二人には世話になってるし、迷惑に思われてたら申し訳ないなって思ってさ。アニャシアにも不快な思いをさせちゃっただろうって」


 ヘザーに声をかけたことを詫びるように、ノアはうっすらと寂しそうな顔をする。


「いいえ。それも、不快になんて、思っていません」


 ただ自分がみっともなかっただけ。

 心の中でそう加え、ヘザーは静かに首を横に振る。


「……ジェイデンに、少しだけ事情は聞いたんだ」


 ヘザーが気まずそうに俯くと、ノアは声色を変えて落ち着いた様子で口を開く。慎重に、繊細なものを大事に包み込んでいく声だった。

 落ち葉の絨毯に隠れた木の実を決して潰すことなく、ゆっくりと地面を踏みしめるかのように柔らかな彼の語調に、ヘザーは微かに瞳を上げる。


「気にすることはないと思う。君のこと、疎ましく思う奴なんていないはずだから」


 澱みのない瞳と目が合い、ヘザーの心臓が小さく跳ねた。同時に、ぎゅう、と真綿に握りしめられていく感覚を覚える。

 ノアがこの布の下に隠した情のことを言っているのは明確だった。彼の一言に、ヘザーの心境は緊張と期待でいっぱいになる。


「…………人の心は、読めません。だからこそ、一番簡単なものだけを、ただ一つの真実だと自分に言い聞かせてしまうものです」


 頭を剃り、髪のない若い女など珍しい。見慣れないものを直接目にした時、人の心はきっと嫌悪を優先する。その方が単純で、心の負荷にもならずに済む。

 平常から逸脱したものはまず排除したがる。すべての異質さに向き合うよりも、ありふれた感情を丸呑みした方が楽に決まっているのだ。ある種の自己防衛反応とも言えるかもしれない。

 ヘザーはそう考え、布を取った自分を見た人の反応を予測してきた。


 オークリー親子やキャルム、マクシーンは稀な方だ。多くのパターンに期待するよりも、たった一つの反応のみしか想定はしてこなかった。

 悍ましい。得体が知れず、どこか卑しい。後ろめたいことがあるに違いない。

 彼らの心には一瞬にして暗幕が下り、以降、距離を取られるに決まっている。

 今、まさにノアが数歩離れたところに立っているように。

 ジェイデンから事情を聞いていると言う彼。優しく声をかけてはくれるけれど、その心は、見かけほど優しくはないかもしれない。


 それでも。もしかしたら。

 彼は建前ではなく本心で、自分のことを励ましてくれているのだろうか。

 疑心に塗れたヘザーが不安に揺れる瞳を瞬かせると、ノアが一歩近くに寄る。


「答えが一つだってこともあるけど。色んな可能性があるときに、一つに絞るのは惜しいって、俺は思うよ。結論は急ぐ必要ない。じっくり見極めればいい」


 もう一度瞬きをすれば、ノアの足がまた一歩前に進む。左足を動かす時に幾らか重そうに引きずっているのはどうやら見間違いではないようだ。

 一昨日見た彼の足取りを思い出し、ヘザーは少しずつ目を開いていく。


「でも、君が気にしてしまう気持ちもわかるし、それもまた責められることではないと思う。だけど、やっぱり君には苦しそうな顔は似合わないと思うから」


 もうノアの靴先は近くにあった。手を伸ばせばすぐにでも彼の腕に届く。ぽかんとするヘザーに、ノアは持っていた袋から取り出した物を見せる。


「それは……?」


 毛の塊のようなものが見え、ヘザーは思わずノアに訊ねた。


「ウィッグ。知り合いの職人がくれてさ。昔、この国に貴族がいた時に彼らのお世話をしていたお爺さんだよ。彼はやっぱり手を動かすことが好きみたいで、色んなものを作ってる。そのうちの一つ」


 ノアは手に持ったウィッグがちゃんと髪の毛に見えるように持ち直す。右手を顔に見立てて披露されたウィッグはブルネットの髪色で造られている。

 全貌をよく見ると、前髪は若干重めに量がとられ、後ろ髪は肩下五センチくらいの長さまで伸びていた。下の方でカールが巻かれた跡があり、愛らしい癖がついている。


「ウィッグって、前は貴族の間で流行ってたらしくて。お爺さんの一族もかなりの腕前だったんだってさ。先祖の技術を受け継いでるんだ、って、これを貰う時にすかさず自慢されちゃったよ」


 ノアは話に出てきた彼のことを敬うように微笑む。


「これ、私に……?」


 ヘザーもウィッグの存在は知っていた。かつて貴族の間で流行ったことも、貧しい女性たちの髪が犠牲となり、庶民の反感を買っていたことも。

 今や華美なものは薄れ、社交界でも目立たない造りのものを目にするだけで、ヘザー自身もウィッグを使ったことはない。


 多くの女性たちの恨みを買うことになった経緯を知ってからというもの、ウィッグという存在そのものに抵抗感があったからだ。

 ノアにウィッグを見せられるまで、そんなことはすっかり忘れてしまっていたが。

 ヘザーがウィッグに見惚れていると、ノアはこくりと頷いた。


「もしよければ。もちろん使わなくても全然いい。君が決めることだから。でも、選択肢はいくつかあった方が面白いだろ?」


 ノアの手からウィッグをそっと受け取り、ヘザーは改めてブルネットの髪をまじまじと見る。確かに、今までの自分の髪とも違う。これをつけたらどうなるのか、興味がないと言えば嘘になる。


「あ。そうそう。お爺さんがこれも持ってけって」


 ノアは続けて袋からカチューシャを取り出した。


「技術には自信があるけど、これで固定した方がもっといいかもしれないって言ってて。なんか、たくさん貰ってきちゃったよ」


 三つほどカチューシャを手に持ったノアは、袋の中を覗きながら困ったように笑う。結局すべてを取り出すのは諦め、袋ごとヘザーに渡す。

 袋の中に詰められたカチューシャを見たヘザーは、久しぶりに心がときめくのを感じた。何を身につけてハドリーに会いに行くか、考えるだけでも楽しかった日々が脳裏を駆け抜けていく。


「……ノア」


 袋をぎゅっと握りしめたヘザーは、ウィッグを見つめたまま声をこぼす。ノアの軽やかな相槌が続いた。


「私、これ、つけてもいい……のかな?」


 ヘザーの自信がなさそうな問いにノアはにっこりと笑い返す。


「これは全部、君のものだよ」

「うん……」


 じんわりと胸の奥に色が宿っていくような気分だった。赤、青、桃、緑、黄、紫……袋から覗く数えきれないほどの彩が、彼女の気分を少しずつ上へと押し上げていく。


「ちょっとだけ、待っていてもらえますか?」

「もちろん」


 ヘザーはノアをロビーに残し、急いで三階の部屋へ戻る。鏡の前に立ち、剥いだ布の代わりに受け取ったばかりのウィッグを頭に乗せてみた。


「うわぁ」


 まだ適当に乗せただけなので、頭には馴染まずに不自然なところはある。それでも、ただブルネットの前髪が眉の上に被さっただけで、知らない人間と対面しているような気分になった。

 袋の中から紺色のカチューシャを取り出し、丁寧に整えながらウィッグの上に重ねてみる。すると先ほどよりもずっと自然な髪に見えてきた。


「……不思議」


 これまでも頭に飾りをつけたことはある。けれど今の高揚感は、その時とは比べ物にならないほど心地の良いものだった。

 クルクルと鏡の前で身体を回してみる。

 自分の動きに合わせて、鏡の中のブルネットの髪がゆらゆら揺れた。これは紛れもなく自分自身。見知らぬ人間などではない。


「ノア」


 階段を下りたヘザーは、まだ慣れない頭の重みにそわそわしていた。胸がくすぐったくて、それを誤魔化したくて無意識のうちに笑みがこぼれる。


「アニャシア、よく似合ってるよ」


 彼女の笑顔を見たノアが嬉しそうに微笑んだ。


「なんだかまだ変な気分なの」

「すぐに慣れるはず」


 布を被っている時とは違い、隙間風が入ることはもうなかった。ウィッグも完璧ではないから、いつか外れてしまうかも、という懸念がなくなったわけではない。が、布一枚よりは安定感がある。

 ヘザーが木箱の隣にいるノアに近づくと、彼は箱の一つを手に取った。


「運ぶの手伝うよ。その方が早いだろうし」

「ありがとう。とても嬉しい。でも……」


 ヘザーの視線がノアの足元に向かう。ノアは彼女が足を気にしていることを察し、トントン、と靴先で床を叩いてみせた。


「大丈夫。もう治りかけなんだ」

「無理はしないでください」


 頑なに断るのも悪いと思い、ヘザーはそれ以上は言及せずに自分も箱を一つ持つ。

 二人で並んで歩き、目指すのは酒場の裏口だった。心なしかヘザーの足取りは昨日より軽い。


「それにしても。一瞬にして色んな髪型になれたり、色が変えられたり。すごく面白い文化だったのに、時代とともに見方は変化していくものなんだね」


 ウィッグが貴族社会で隆盛から影を潜めるまでに至った歴史を思ったのか、ノアが好奇心を隠さずにヘザーに語りかける。ヘザーは彼の見解に関心を向けた。


「今、俺たちにとっても普通だった風習が、いずれは珍しいものになっていくのかもしれないんだ。未来の人は、今に何を思うんだろ」

「ふふふ。ノアは、難しいことを考えているのね」

「よく、つまらないことを考えるなよって言われる」

「全然つまらなくはないと思う。過去がなければ、未来もないもの」


 ヘザーが柔らかに頬を弛ませると、ノアはまったく同意だ、と言わんばかりの勢いで頷く。


「ああ。だから、知りたくなるんだよ」

「ふふ。もしかして、ノアって考古学とか、そういうものも好き?」


 彼の瞳が輝いていることに気づいたヘザーは、目を細めて微笑む。


「俺の趣味と言っても過言ではない、かな。……俺、分かりやすい?」

「ええ、とっても」


 もちろん悪い意味ではない。

 わざわざ補足しなくとも、ヘザーの朗らかな笑い声だけで、彼女の本意はしっかりとノアに伝わっていた。

 裏口が近づくと、マクシーンの後ろ姿がちらりと視界に入ってくる。

 ウィッグをつけた姿を見たら、彼女はどんな反応をするのだろう。

 こちらを向いたときの彼女の表情が楽しみになったヘザーは、久しぶりに大きな声を出して彼女の名を呼んだ。


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