11 酒戦

 昼の営業の間、ヘザーはキャルムに言われた通りに店内の清掃に励んだ。昼は夜の営業よりも比較的客足が落ち着いているらしい。おかげで、ヘザーもあまり環境に惑わされずに順調に仕事を覚えることができた。

 最初は机を拭き、机と椅子を整えるだけだったヘザーの役割も、空になった食器を下げるところまで幅が広がっていった。


 来客たちは宿屋に新たな宿泊者が来ていたことをなんとなく知っていたようで、ヘザーを見ると笑顔で挨拶してくれた。ラタアウルムにようこそ、と歓迎の言葉で。

 彼らの声は聞こえていたが、仕事を始めたばかりで余裕のなかったヘザーは遠く離れたところから会釈をすることしかできなかった。けれど、そのことに嫌な顔をする者は誰もいなかった。


 夜の営業時間が近づくにつれ、ヘザーの動きにも余裕が出てきた。同じくして、次第に客足も増えていく。

 昼間の客は、ちょっとした休憩や友人たちとの雑談のために立ち寄ったような人ばかりで、皆そこまで長居することはなかった。どちらかと言えば穏やかで、静かな時間が流れていたといえる。仕事を覚えることに精一杯だったヘザーもあまり彼らと向き合う機会もなかった。


 しかし、酒を求めてきたであろう客の数が多くなってくると、店内の様子も少しずづ変化していく。

 老いも若きも男も女も関係なく、多様な顔が見えてくる。

 一人で来る者もいれば誰かとともに来る者もいる。店に入るまでは他人だったような人たちが、中に入れば不思議と長年連れ添った友人のように話し始めるのだ。

 いつもは三階の部屋で聞いていた賑わいが、今はすぐそこにある。

 繁盛していることもあってか、フロアを動き回るヘザーを気にする者もいない。それよりも目の前の会話を楽しんでいるのだ。

 ヘザーは空になったグラスを下げながら半ば夢心地になっていた。


 多くの人間が一堂に会して食事をする場には、ヘザーも何度か参加したことはある。

 けれど母国にいた時に覚えがあるのは、お洒落をした男女が颯爽と集まり、音楽を背景に互いの誇りを披露しあう上流階級のパーティーだけ。

 誰かと示し合わせるわけでもなく、マナーも気にすることなく自由に振舞える今の周りの状況は、彼女にとっては新鮮そのものだった。かつて、こんな取り留めもない集いを想像したことがある。想像と現実は違うもの。だが、皆が楽しそうな顔をしてグラスを掲げていることには変わりない。

 両手に持ったグラスを裏に下げたヘザーは、客のために絶えず料理を続けているマクシーンに声をかける。


「みなさん、たくさん飲むのですね」


 ヘザーの率直な感想にマクシーンは困ったような笑みを返す。


「ほんと、参っちゃうよね」


 迷惑そうな語調とは違い、彼女の顔は嬉しそうだ。


「キャルムさんもずっと忙しそうで」


 バーカウンターでいくつもの酒を出していたキャルムを思い出し、ヘザーはもどかしそうに呟いた。


「あれはキャルムの趣味みたいなもんでもあるからね。楽しんでやってるから、忙しいとすら思ってないだろうよ」


 マクシーンが呆れ半分にため息を吐く。そういうものなのだろうか。確かに、彼の表情はにこやかだったが。マクシーンの言葉に興味を抱いたヘザーが口を開こうとした瞬間、フロアで一際大きな笑い声が沸き上がった。

 どっと大波に寄せられたかのような陽気な気配に、ヘザーは扉の向こうを見やる。店内で何かが起きたようだ。


「ああ。あれはきっと、酒戦だね。誰が一番酒が飲めるかを競い合ってるんだよ。この酒場には大酒飲みたちも多くてね、たまに、ああやって盛り上がってるんだ」


 マクシーンは噴き出た笑いに不思議そうな顔をしているヘザーに説明する。


「まったく、もっと酒は味わって飲めってのに。ヘザー、たぶんグラスがたくさん出てるだろうから、下げてきてくれるかい?」

「はい。行ってまいります」


 マクシーンに言われ、ヘザーは両膝を軽く曲げて簡単なお辞儀をした。


「ほんと、丁寧な子だね」


 急いでフロアに戻るヘザーの背中を視線で追い、マクシーンは眉尻を下げてクスリと笑う。


 酒戦をしているグループは、フロアに出ればすぐに判断できた。

 暖炉の近くの机を囲み、五、六人の男たちがグラスを手にして大いに盛り上がっていたからだ。よく見れば、そのうちの二人は机に突っ伏してへらへらと笑っている。もうだめだ、降参、降参。手を挙げて、楽しそうにそんなことを言っていた。


 他の客たちもこの対決に注目していたようで、皆の視線はそのグループに注がれている。まるでお祭りのような明朗な雰囲気に、ヘザーは一度躊躇しそうになる。

 バーカウンターにいるキャルムと目が合えば、彼は朗らかな表情で微かに頷いた。邪魔になんてならないから、構わないよ。そんな意図が見て取れた。


「あの、失礼します。グラス、下げますね」


 注目を浴びる彼らの間に割り込むのは忍びなかった。これまでも誰にも気にされない幽霊のようにフロアを行き来していたのだ。ヘザーは目立たないことを意識しながら空いたグラスに手を伸ばす。

 男たちはヘザーが現れようとあまり気にする素振りも見せず、既に降参してしまった仲間を励ましたり、次は何を飲むかなどを口々に話していた。


 この方が気が楽だ。ヘザーは内心ほっとしながら空になったグラスを自分の前に集めていく。どれくらいまとめて持っていけるか、ヘザーは脳内でシミュレーションする。三つ、いや、四つ、五つくらいはいけるかもしれない。取っ手付きなのが幸いか。大きいグラスを指に絡ませながら、ヘザーは効率の良い運び方を計算した。

 彼女が完全に思考に気を取られていたその時だった。


「あれ? もしかして……」


 ヘザーの隣にいた男が不意に彼女を見て目を開く。彼の神妙な声が耳に届き、ヘザーは思わずびくりと肩を上げる。もしや、自分の正体がバレたのか。酒場には色々な人がいるから、あり得なくもない。一瞬にして嫌な汗が額に滲む。


「君が最近宿屋に泊まってるっていう人かな? 確か、えっと……」


 恐る恐る隣を見上げれば、赤の混じった茶髪の彼はヘザーを見ながら何かを思い出そうと眉根を寄せている。ダウンバングが印象的な髪型に、髪質が柔らかなのかクセ毛がナチュラルな雰囲気を醸し出していた。

 彼もまた酒戦の参加者らしい。涼しい顔をしていて、あまり色が変わっているようには見えないが。


「そうだ。アニャシアだ!」


 ヘザーが戸惑っている間にも、彼は人差し指を立てて正解に辿り着いたかのように表情を輝かせる。


「……あれ? 違った?」


 嬉しそうな彼とは違い、ヘザーの瞳には警戒が宿っていた。そのことに気づいた彼は、申し訳なさそうに首を傾ける。


「いいえ。違いません。私がアニャシアです」


 彼の薄緑色の瞳がサーッと色を失いそうになっていたので、ヘザーは彼から目を逸らして自分の名を言う。


「良かった。別の人に言っちゃったのかと思った」


 ヘザーが布の下に表情を隠すと、彼は安堵したように胸を撫でおろす。


「やっと会えた。俺はノア。君の話を聞いてから、ずっと会ってみたいなぁって思ってたんだ」

「そんな、期待させるような人間ではないです……」


 ノアの弾む声にぽつりと言葉を返し、ヘザーはせっせとグラスをかき集めた。彼の純真な瞳が頭から離れない。別に、彼は布の下を透視して見ることができるわけではないのに。

 やっと会えた。

 その言葉がヘザーにはどうにも重く聞こえてしまったのだ。彼にしてみれば、キャルムたちから聞いた旅人の顔が見てみたい、単純にそれだけの意味だったのかもしれないけれど。

 五つのグラスを手に持ち、ヘザーは頭を下げて一歩下がった。


「あっ。待って」


 そそくさとその場を去ろうとするヘザーをノアの声が追いかける。


「ノア、どこ行くんだよ。まだ勝負は終わってねーぞ?」

「悪い。俺は離脱するわ。今日はもう負けでいいよ」

「なんだよそれ。不戦勝じゃ意味ないだろ」

「ごめんな。健闘を祈る」


 仲間たちに呼び止められても、ノアはわざとらしい精悍な笑みを送って酒戦場を後にした。


「アニャシア。ねぇ、待って。会いたかったって、変な意味ではなく。ごめん、もしかしたら不快にさせちゃったかも」


 ノアの声は客の間をよく通る。騒がしいはずのフロアにいても、はっきりと彼の真摯な表明が聞き取れた。

 それでもヘザーが足を止めることはなかった。ちらりと彼を振り返ってみると、自分より背が高く、脚が長いはずなのにそこまで距離は縮まっていない。


 人と人の隙間に見えた彼の足元が若干重たそうに見える。違和感を覚えたヘザーだったが、ちゃんとは見ていられなかった。自分の手元も、そろそろ限界を迎えそうなのだ。グラス五個を一気に持つと、思ったよりも負荷がかかる。丈夫そうなガラスで造られている影響もありそうだ。


「アニャシアさん、手伝おうか?」

「いえっ。これくらい大丈夫ですっ」


 バーカウンターの前を通った時に声をかけてくれたキャルムに強がりの笑みを見せ、裏に続く戸をヘザーは身体で押す。


「アニャシア──」


 戸が閉まれば、ノアの声も周りの喧騒に塗れていった。


「……アニャシア? 大丈夫かい?」


 グラスを置き、流し台に手をついたまま息を切らすヘザーにマクシーンが心配そうに訊ねる。


「はい、大丈夫です」


 本当は違う。ヘザーは本心を隠したまま声だけ元気に返事をした。

 布の結び目が心なしか緩んでしまったような気がする。ヘザーは後頭部に手を回し、力の限りぎゅっと結びを固く縛った。あまり変化はない。どうやら特段緩んでいたわけではないらしい。


 視界の右端に揺れる木の板が見える。ついさっき、自分が押して入ってきた戸だ。

 ゆら、ゆら、ゆら、ゆら。

 落ち着きのない動き。まるで自分の心音と同期しているように思えた。

 呼吸を整えようと、ヘザーは深呼吸をしてみせる。どうしてこんなに動揺しているのか自分でもよく理解できなかった。

 ノアと名乗る青年の瞳に映る自分を見た時から、どうにも気分が落ち着かないのだ。


「やっぱり……」


 布越しに自分の頭に触れてみる。

 前よりマシになったとは思っていた。だが内に秘めた窮愁と羞恥は嘘をつけない。

 誰かと対面すると、もしものことばかりが頭をよぎってしまう。

 ヘザーの手が力なく床を向く。

 仕事をし、一歩前に進んだとしても。布の下に隠した後ろめたさを克服するには、まだ少しの時間がかかりそうだ。


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