10 ほんの一歩
朝食を終えたヘザーは剃刀を片手に鏡の前に立つ。
昨夜ジェイデンに言われた言葉を思い出しながら、鏡に映る自分と向き合う。青い瞳が自分を見てる。剃刀を持つ手に力が入った。
自分が酒場に行っても構わないか。そう訊ねたヘザーに、ジェイデンは一度瞬きをした後で表情を輝かせて言った。
もちろん、大歓迎に決まってるだろ。
お世辞だとしても良かった。夕食を終えてベッドにもぐりこんだその時、心は確かにふわりと弾んだのだから。
手に持った剃刀をそっと頭に運ぶ。老婆に髪を剃られてからというもの放置したまま、特にこの場所を整えることはなかった。今の状態だと頭皮が丸見えな所もあれば中途半端に毛が見えている箇所もある。微妙な差異が傷痕を強調するせいで目立ってしまう。ひどく粗鬆で、いかにも事件か事故にあいました、と主張しているようなものだ。
酒場へ行けば、多くの人と顔を合わせることになるかもしれない。ならばこのままにしているわけにはいかない。
ヘザーはこれまで自分で髪を切ったことすらなかった。いつもお抱えの専門家に任せっきりにしていたから、それも当然だ。
剃刀の刃を頭に当ててみる。緊張感に包まれ、ヘザーは息をのみ込んだ。
慎重に滑らせてみれば、刃の進む動きに合わせて短い毛が切り取られていく。
ゆっくり、ゆっくりと。
最初はおぼつかなかったヘザーの手元。しかし整えていくうちにヘザーも剃刀を扱う感覚に慣れてきたようだ。
気づけば鏡に前のめりになり、自分の姿をしっかりと瞳に入れながら作業に夢中になっていた。
王国を出てから自分の姿をこんなにも真剣に見つめたのは初めてだった。
はじめ、この部屋に着いた時に同じ鏡を通して見た時には数秒も耐えられなかったというのに。今はどんなに自分を直視しても惨めに感じることはなかった。
ある程度整えたところでヘザーは剃刀を下ろす。
不揃いで貧相に見えていた頭も、思い切って歪な部分を剃っただけで随分まともになった。
「私の方が、上手いじゃない」
老婆の顔を思い出し、ヘザーは恨めしげに呟いた。
この坊主姿ならまだ人前に立つことも出来るだろう。見た人がそれに何を思うのかまでは想像したくないが、今朝起きた時よりもずっといい。
剃刀を置いたヘザーは改めて鏡に映る自分を見た。
もちろん、好んで髪を切ったわけではないのでそこに何もないのは寂しい。
髪のない若い女を見た時の周りの反応は、さっきの姿とそう大差ないかもしれない。やはり、後ろめたさは隠せないし、気にはなってしまう。
椅子の背に掛けていた布を手に取り、すっきりした頭を丁寧に収めていく。隠してしまえば綺麗に整えた頭も見えなくなる。どの道、鏡に映るのは昨日と変わらない自分だった。
髪が伸びるのを待つしかないのは仕方のないこと。そう思わなければ、きっとこの先もやっていけない。
王国を追放され、屋敷に戻ることは出来なくなったのだ。
どうにか折り合いをつけ、新たな生活に馴染むことに注力しよう。
ヘザーは空になった皿が乗るトレイを持ち上げ、部屋の扉を開ける。
自分で食器を片付けに部屋を出るのはこれが初めて。
そろそろ、自分の足で歩いていかなければ。
階段を下りれば、ロビーには来客の姿は見えない。レセプションにも誰も立っておらず、ヘザーはトレイを持ったままきょろきょろと辺りを見回してみる。
レセプションの横に目を向けると、関係者専用、と書かれたプレートが掲げられた扉が見えた。叩いてみても何の反応も返ってこない。
「失礼します」
誰にも聞こえていないかもしれないが、念のために断りを入れてから扉を開ける。顔を覗かせると、中にはベッドやクローゼット、鏡台などが置いてあるのが見えた。どうやらここはマクシーンたちが使っている部屋のようだ。クローゼットの前に吊るされた見覚えのあるブラウスを見やり、ヘザーはそう推測する。
ヘザーが泊まっている部屋よりも若干狭い。キャルムのものらしき服も見える。二人はこの宿とは別に家を持っているわけではなく、恐らくここで生活をしているのだ。が、部屋の中に二人がいた形跡はあるものの、肝心の二人の姿はない。
ヘザーは部屋の扉を閉め、改めて二人のことを探す。
そういえば階段を下りた時、向かって左側にも別の空間が広がっていそうだった。
まだこの建物のことをあまり把握していないヘザーはくるりと踵を返し、急ぎ足で階段の入り口に戻っていく。
「あら、アニャシア、わざわざ持ってきてくれたのかい」
ヘザーが階段の下に戻ると、そこでばったりマクシーンに出くわした。
気配もなく急に現れるもので、驚いたヘザーはトレイを落としてしまいそうになる。辛うじて惨事は免れたが、平静を保つトレイとは裏腹に心臓はまだどきどきと余韻を残していた。
「ごちそうさまでした。とても、美味しかったです」
両手が塞がっているヘザーは片足を斜めに引き、もう片方の足の膝を軽く曲げて挨拶をしてみせる。彼女の慣れた仕草を見たマクシーンは目をぱちくりさせた。
「あ、あの……」
マクシーンが何も言わずきょとんとしているので、ヘザーは余計なことをしてしまっただろうかと不安になる。しかしヘザーの心配を他所にマクシーンはすぐに軽快な笑い声を沸かす。
「まぁ、随分とお行儀の良いこと。ここの連中にも見習ってほしいものだね」
「え……」
「ありがとうねぇ、持ってきてくれて」
ころころと変わる彼女の表情についていけないまま、ヘザーの手からトレイが離れていった。マクシーンが受け取ったのだ。
「昨日ジェイデンが訪ねて行っただろ。あの子、失礼なことはしなかったかい? なーんか下に戻って来た時、妙にニヤけてたからさ」
「いいえっ。全然。とても美味しい紅茶を、持ってきてくれました」
「そうかい?」
マクシーンは笑みを浮かべて冗談めいた声を出す。
トレイを持ったマクシーンは、そのまま彼女の背後に広がる別の部屋へと歩いていく。ヘザーもその後に続いた。階段を挟んでロビーよりも奥にある空間の入り口に扉はなく、腰の位置に当たる小さなスイングドアが設置されているだけだった。
「ここではちょっとした飲食をやってるんだ。夜は酒場、昼は軽食を食べられるようにね。宿が開店休業状態の今、頼みの綱はこれだけだよ」
スイングドアを体当たりで押し、マクシーンが入っていくのは机や椅子が並んだ場所だった。入ってすぐに目に入るのは左側に設けられたバーカウンターだ。恐らく、そこで客の要望に応えて酒などを作っているのだろう。カウンターの向こうにはたくさんの酒瓶が並んでいた。
部屋の向かって奥には暖炉もある。今はまだ開店前なのか客は誰もいないが、店内はぎゅうぎゅうになれば五十人くらいは入れそうだ。
「おお、アニャシアさん、来てくれたのか」
ヘザーが店内の様子を見回していると、バーカウンターの傍にある扉からキャルムが出てきた。ヘザーは彼にお辞儀して挨拶する。
「おはようございます。ずっと部屋にこもっていてすみません。早く、挨拶すべきなのに」
「いやいや、気にしなくていい。アニャシアさんの様子はマックスからも聞いていたしね。でも、また顔が見れて嬉しいよ」
キャルムは柔らかに笑いながら二人のもとへ歩いてくる。マックスはマクシーンの愛称だ。当のマクシーンは机にトレイを置き、片手を腰に当ててヘザーのことを温かな目で見つめた。
「金のことも気にしなくていいからね。オークリー氏には恩がある。酒場が評判なのも、彼らが調達してきてくれる酒のおかげだし。アニャシアも気が済むまでここでのんびりしていていいよ」
マクシーンは得意気にウィンクをしてみせる。
「でも、そんなの悪いです。何か、私にもお手伝いさせてください」
彼女の親切な言葉に、これまでの数日間彼らの真っ直ぐな厚意を享受しっぱなしだったヘザーは罪悪感を抱く。とてもありがたい申し出で、あまりにも嬉しい。けれど、ただでさえ身分を隠し、あたかも自分が何らかの事件に巻き込まれた被害者であるかのような顔をしてこの場にいることがヘザーには心苦しかった。
このまま手放しで彼らの恩情に甘え続けるのは気が引ける。せめて何か恩返しをしたい。そう思い、手伝いを申し出てはみたものの、すぐにヘザーの顔は青ざめていく。
自分に出来ることがないか、ヘザーはどうにか考えてみた。だがこれまでの人生、人に何かをしてもらうことばかりで単純な生活力すら自信がない。
彼らの仕事を手伝えれば一番いいのだが、逆に迷惑ばかりをかけてしまうかもしれない。
「私、何も、できない……?」
果てには声に出していた。ヘザーの顔色が悪くなっていくさまを見ていたキャルムとマクシーンが目を見合わせる。瞬きをし合い、二人はくすくすと軽やかに笑いだす。
「ありがとうアニャシアさん。とてもありがたい申し出だ。今は従業員の数も減らしていてね。手伝いをしてくれると、すごく助かるよ」
キャルムが頬を緩ませて小さく拍手する。
「そうそう。なんだかお客様に働かせてしまう気になって申し訳ないけど、そう言ってくれるなら、少し任せちゃおうかな」
マクシーンも彼に続いてニヤリと笑う。
「いいんですか……?」
自分から申し出ておいて訊き直すのもおかしなことだった。分かっていてもつい確認してしまう。ヘザーが二人を見ると、彼らは同時に頷いてみせた。二人の瞳を見ていると、今の自分には出来ることが少ないということを忘れ、なんでもできるような気になってくる。魔法のように、すぐに万能になれるわけではないけれど。
「ああ、是非とも。じゃあ、そうだな。まずは、昼の営業が始まる前に机を拭いてもらえると嬉しいな」
「はい……! 任せてください……!」
ヘザーは両手を胸の前で握りしめてぺこりと頭を下げる。顔を上げれば、ほんの僅かに世界が明るくなっているように思えた。心が軽い。二人に受け入れられたことがつい嬉しくなっただけで、まだ自分に出来ることが限られていることに変わりない。
だがそんなことは関係なかった。ようやく一歩前に足を出せた。ただその事実が、たまらなく胸を躍らせたのだ。
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