9 ひだまりのゆらめき

 下の酒場から、賑やかな声が聞こえてきた。

 三度目の夜が近づいていることをヘザーは彼らの笑い声で知る。

 宿屋に着いてから三日、ヘザーはずっと部屋にこもりっぱなしだ。

 誰かと会話をするのも、親切なマクシーンが食事を届けに部屋に入る時だけ。


 酒場が賑わい始めたということは、そろそろ夕食が運ばれてくる頃合いだ。

 ベッドに横になっていたヘザーはおもむろに立ち上がり、サイドテーブルに置いてある布を手に取る。

 彼女が来る前にこの頭を隠しておかなければ。マクシーンが頭の傷にあえて触れることはしないと分かってはいるが、彼女にこれ以上の気を遣わせるのは本望ではない。ヘザーは鏡の前に立って布を頭に当てる。


 ようやく傷痕の色が落ち着きを見せ、生々しさが引いてきたところだ。

 慣れた手つきで布を頭に巻き、ヘザーは薄くなってきた目の下の隈に触れた。

 キャルムもマクシーンも親切な人だ。親切すぎて、自分が正体を隠していることが嫌になるくらい。

 ジェイデンにアニャシアと名乗ったのは、もしかしたら母国で起きた追放劇の噂が外国にまで広がっているのではないかと危惧したからだ。


 自分が偽装婚約の末に大事な人を危険に晒し、国外追放された女だと明るみになることが怖かった。そうだと分かれば、彼らの見る目が変わってしまう可能性もある。あの時、自分にそこまでの仕打ちに耐えられる気力は残っていなかった。


 ラタアウルムに来てまだ日は浅いが、マクシーンが食事と一緒に運んでくれる新聞には、母国での出来事について書かれたものはなかった。ヒューバートのことだから、息子の破談話が世に広まることを望まず、騒動のことは内々に留めているのかもしれない。


 だがいずれ、すべての話が公になることだってある。秘密は隠し通せやしない。

 ヒューバートの激昂した顔を思い出し、ヘザーは目を伏せる。すると、ヘザーの部屋の扉を手の甲で叩く音が二度繰り返された。


「アニャシアー? 調子はどう?」


 これはきっとジェイデンだ。聞き覚えのある声に、ヘザーは急いで扉を開ける。


「あっ。アニャシア。うん、結構顔色もよくなってきたね」


 ヘザーの顔を見るなり、扉が開くのを待っていたジェイデンが一安心した様子で笑う。彼の顔もまた、三日前に見た時と同じく元気そうだ。彼の手は夕食が乗ったトレイを持っていた。


「マクシーンさんとキャルムさんのおかげ。ジェイデン、ここへ連れてきてくれて、本当にありがとう」


 ジェイデンを部屋に招き入れ、ヘザーは後ろ手に扉を閉める。

 ジェイデンはトレイを机に置き、部屋を見回す。


「本当はもっと早く様子を見に来たかったんだけど。隣国でどうしても逃せない取引があってさ」

「来てくれて嬉しい。取引は、うまくいった?」

「うん。期待通りの結果だよ。もう一押しってところ」


 ジェイデンはベッドに腰を掛け、指でマルを作った。


「それ、マクシーンさんの代わりに持ってきた。ちゃんと食べてる?」


 彼が机を指差すので、ヘザーはこくりと頷く。


「どれもすごく美味しいの。今は、食事の時間が一番の楽しみよ」

「二人の作るご飯は絶品だからね。そのおかげか、改装中でも酒場は大繁盛だ。常連客が続出で」

「ふふ。そうなのね」


 階下の楽しそうな様子はヘザーも認識している。彼らの声が消えていくと、どうにも寂しい気分になるくらいに。


「アニャシアも遊びに行くといい」


 ジェイデンの言葉に素直に頷けず、ヘザーはぎこちないはにかみを返す。


「にしても、いい感じに改装進んでるな」


 感心したように視線をあちこちに向けるジェイデン。ヘザーは机の椅子を引き、夕食の前にそっと座る。この宿の食事は本当に美味しい。けれど最近で一番に思い出す味と言えば、ジェイデンに分けてもらったスコッチエッグだった。絶望の最中に口にした未知の味が、時折恋しくなってくるのだ。


「ジェイデン、訊きたいことがあるの」


 同時に、ずっと消化できない疑問があった。ヘザーが呟くと、ジェイデンは彼女に顔を向ける。


「どうして、道にいた私のことを助けてくれたの?」


 ヘザーも真っ直ぐにジェイデンを見やる。彼らは旅の達人だ。たくさんの危険を熟知しているのに、身分も明かさない怪しい人間を助ける義理などないはず。

 ヘザーの問いにジェイデンはきょとんと瞬きをした。


「どうしてかって訊かれたら、旅は助け合いだから、が、正答なのかな」


 なんでもないような顔でジェイデンは答える。が、ヘザーにしてみれば彼の答えは知らない文化を目の当たりにしたようなもので、すぐには理解できない。


「私、旅をしたことがないの。旅って、そういうものなの?」

「他の皆の流儀までは分からないんだけど、俺はそうかもしれないなぁ」


 ジェイデンは顎に手を当てて考える素振りを見せる。


「前に、親父が盗賊に襲われかけたって話したの覚えてる?」

「もちろん覚えてる」

「その話なんだけど、襲われかけた、ってのは、あと少しで盗賊に心臓を刺される、ってところで別の旅人に助けられたからなんだよね。騒ぎが聞こえた別の国の商人が、盗賊を追い払ってくれた。その人たちは人数も多くて、圧倒された盗賊たちはあっという間に退散したって」


 ジェイデンの話を聞いたヘザーは当時の状況を想像し、青ざめた。盗賊に出くわした時の恐怖が心の底に蘇ってくる。彼女が口を抑えれば、ジェイデンは慌てて笑みを取り繕う。


「大丈夫大丈夫! ほら、親父は今、無事に生きてるだろ? 確かに大変な目にあったけど、幸運な人だよ、親父は」


 彼女を安心させようとしているのか、ジェイデンは冗談交じりに話す。


「親父にそういうことがあったから、俺も親父を助けてくれた商人のようになりたいと思ってる。だから助けた理由って言われたら、俺の信念、ってところかな。あ、アニャシアを最初に見つけたのは親父だけど、親父も同じ理由だと思うよ。なにせ当事者だからな。困ってる人を見捨てるようなことはできない」


 ジェイデンはベッドから立ち上がり、トレイに乗ったパンを一切れ手に取り、口に運ぶ。


「やっぱここのパンは美味いよな」


 まるで自分が作ったかのように得意気に笑うジェイデン。ヘザーが彼を見上げると、目が合った彼は何かを思い出したのか目を見開く。


「あっ。そうだそうだ」

「どうかしたの?」


 ヘザーが訊ねれば、ジェイデンはトレイの上に乗せていたティーポットを手に取った。


「この前入手した紅茶を淹れてみたんだ。一度試してみたんだけど、これがまた良い香りなんだよ。酒場の連中は紅茶には興味ないみたいで共感してもらえなくて。アニャシアにも飲んでもらいたいなと思ってさ」


 カップに薄い琥珀色の紅茶が注がれていく。ヘザーは両手を膝に置いたまま、湯気とともに沸き上がってくる芳醇な香りを吸い込む。妙に胸をくすぐる香りだった。艶やかな水面にも思わず見惚れてしまう。


「どうぞ召し上がれ」

「いただきます」


 ティーポットを机に置いたジェイデンに軽く頭を下げ、ヘザーはカップを持ち上げる。


「……! おいしい……」


 花の香りの中に苦みの混じった上品な味にヘザーは目を丸くして声を洩らす。

 彼女の感嘆の声が聞こえたジェイデンは「やった」と小声で呟く。


「ジェイデン、あなたもきっと、お父様と同じで目利きがいいのね」

「俺は味覚専門かも」


 椅子を引き、ヘザーの向かいに座ったジェイデンは頬杖をついてはにかんだ。

 彼の淹れた紅茶は知らない味だった。けれど、飲み進めていくたびに朗らかな日差しが部屋の中に差し込んでくるような気がしてくる。もう外は夜を迎えていて、そんなことがあるはずはないのに。それでも彼女の瞳は陽日を浮かべていた。


 ヘザーの脳裏に蘇ったのは、ガゼボでお茶を嗜む大好きな時間だった。

 たまにハドリーが不意に現れ、ともにお茶を楽しむこともあった。

 ガゼボでの特別な時間は、彼女が求めた"自由"そのものに触れられているような気がして、世界から乖離された無二の幸福感を与えてくれた。

 何があろうと、この空間での思い出が背中を押してくれる。あの時に吸い込んだ空気を覚えている限り、自分は大丈夫。いつしか、そう思うようになっていたのだ。

 ヘザーも意識しないうちに、彼女の表情は弛み、微笑みを浮かべていた。


「ねぇ、ジェイデン」

「うん。なに?」


 初めて見た彼女の無防備な笑顔に頬が緩んだことが気づかれぬよう、ジェイデンは頬杖をついたまま返事をする。が、嬉しそうな声色は隠しきれていなかった。


「私も、下へ行ってもいいのかな」


 ヘザーの胸に小さな希望が吹いた。いつも聞くだけだった酒場の陽気な声たち。

 きっとそこは、彼らにとってヘザーのガゼボと同じ空間なのだ。

 一体どんな景色が広がっているのだろう。

 ヘザーはジェイデンと目を合わせ、少し不安の混じった瞳を期待で輝かせる。


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