8 宿屋
ジェイデンの言った通り、ラタアウルムに着いたのは真夜中を過ぎた頃だった。
「アニャシア、着いたよ。起きれる?」
柔らかに肩を揺さぶられ、ヘザーはぼんやりと目を開けていく。
「さっき親父が話して、泊まってもいいって返事も貰ったよ」
まだ重たい身体をゆっくり起こすヘザーにジェイデンは朗らかに声をかけた。
「本当に、いいの?」
「キャルムさんに二言はないよ。奥さんも部屋を用意するって張り切ってる」
心配そうに口角を下げたヘザーの不安を断ち切るように、ジェイデンは自信をもって答える。
「俺たちの家は宿のすぐ隣にある。歩いても五分くらいで着ける場所だ。必要なものはキャルムさんたちが用意してくれると思うけど、もし足りないものがあればうちに来てくれればいいよ。他の人よりもうちは物が多いから」
先に荷台を降りたジェイデンは手を伸ばしてヘザーが来るのを待つ。ヘザーが御者席を見やれば、そこにもう口髭の男の姿はなかった。
ヘザーは着たままになっていた外套を整え、頭に被った布がずれないように後頭部の下で結び目を作る。ぬくぬくした毛布から外に出たヘザーは、ジェイデンの手を取って地面に足を下ろす。
石畳と周りの木々のせいか、空気がひんやりとした。低い温度が彼女の目を覚ましていく。
「この宿は、キャルムさんが夫婦で経営してる。古い貴族が所有していた家を改装してね。どうも避暑地に使っていたらしい。今は、新しいアイディアが欲しいとかでまた改装してるところなんだけど。だから今は宿屋というよりも酒場としての方が客は多いんじゃないかな」
「酒場?」
「ロビー階の奥の部屋で酒場も経営してるんだ。結構いい酒が飲める。オークリー商会から卸してるものだけどさ」
「それって、ジェイデンたちの?」
「そう!」
誇らしげに笑うジェイデンを見やれば、自然とヘザーの緊張も和らいでいった。幌馬車が停まった場所はちょうど宿屋の庭の入り口だった。ぐるりと円形を描く馬車用の道を歩き、ヘザーはジェイデンから少し遅れながら宿を目指す。
かつては貴族が所有していたとのことだが、見えてきたのはそこまで華美な建物ではなかった。ジェイデンの話を聞いてヘザーが想像したよりも小さな屋敷で、外壁の下部はレンガ、上部は木組みで造られている。
独特の風合いを彩るかのように、外壁は自生した葉と花に覆われていた。周りは木々が整備され、それだけでも涼しそうではあるが、壁に這う緑のおかげで直射日光からの暑さも防いでくれそうだった。なるほど暑い時期の避暑地にはちょうどいい。
煙突が三つ伸びているのが確認でき、その一つからはもくもくとした煙が出ている。どうやら暖炉を使っているらしい。
玄関の上にはガーゴイルのレリーフが飾られ、まるで来客たちを吟味しているようにも見える。
「こんばんは」
ガーゴイルに怯むこともなく、ジェイデンは迷いなく扉を開けて陽気な声を出す。
「いらっしゃいジェイデン。オークリー氏から話は聞いた。彼女がアニャシアさんかい?」
扉を開けてすぐ正面にあるカウンターの奥から返事をしたのは色素の薄い髪色の男だった。オークリー氏よりも明らかに年上で、初老の雰囲気を纏った男だ。カウンターには、レセプション、と書いてある。
彼は丸縁の眼鏡をかけており、レンズの向こうにあるグレーの瞳でヘザーに微笑みかけた。
「こ、こんばんは……」
見知らぬ人間とのまともな対面に、反射的にびくりと心臓が跳ねてしまった。ヘザーは控えめに一歩後ろに下がって肩をすぼめる。彼の瞳が自分の憐れな姿を映していることがどうにも後ろめたかった。
おまけに今は真夜中。宿屋を営んでるとはいえ、こんな時間に来訪してしまったことが申し訳なくなってしまう。とりわけ自分が正規の宿泊者とは言えないせいだろうか。
「長旅で疲れただろう。マックスが今部屋を用意してるから、少しだけ待っていてくれるかな? 疲れているのに申し訳ないね」
「いえっ。こちらこそ……っ」
キャルムが困ったようにそんなことを言うので、ヘザーは首と手を同時に横に振った。
「酒場も今日はもう閉めてるの?」
ヘザーを建物の中に入れたジェイデンが扉を閉めながらキャルムに訊ねる。ヘザーはどうしていいか分からず固まったまま彼の斜め後ろに立つ。
「酒が切れてしまってね。ジェイデンたちが戻ってきてくれてよかったよ。また新しいものを仕入れさせてくれ。今、オークリー氏にうちの貯蔵室を確認してもらってるんだ」
「喜んでそうさせてもらうよ」
カウンターの裏から出てきたキャルムは暖炉の傍のソファに並べたクッションを整え始める。さながら紳士クラブを思わせるシックな空間が暖炉の前には広がっていた。
ジェイデンはヘザーに視線を向けて、暖炉の方へ行こう、と瞳を動かす。彼に続いてソファに腰をかければ疲労感がどっと押し寄せてきた。さっきまで休んでいたというのに。
ヘザーは隣でぴんぴんした顔で笑っているジェイデンにうっすらと罪悪感を抱く。彼はきっと、自分よりもまともに休めていないはずだ。
情けなくて、また自分のことを責めてしまいたくなった。ヘザーが被り物の下に表情を隠しかけたその時、背後からこれまた快活な声が聞こえてくる。
「あらぁ! 待たせてごめんなさい。今、部屋の準備ができたわよ」
「マクシーンさん!」
元気な高い声に振り返ったジェイデンがにこやかに名前を呼ぶ。ヘザーも彼が見ている方向を振り返る。見てみれば、キャルムがいたレセプションのすぐ裏に配置された階段を下りたところに、先ほどまではいなかった女の姿があった。
彼女が着ている生成り色のブラウスの長袖は肩回りがふんわりと膨らんでいて、両手を腰に当てているせいかやけに輪郭が広がって見えた。
低い位置に団子状にまとめた黒髪の毛量は多そうだが、しっかりと留められているからかそこまで気にならない。恰幅のいい彼女は、ふくよかな頬を優しく綻ばせる。
「その子がアニャシアだね。さぁ、いらっしゃい。ジェイデン、あんたはちょっとそこで待ってて」
「はーい。アニャシア、彼女はキャルムさんのパートナーのマクシーンさんだよ。明るい人だから、ちょっとうるさいこともあるかもしれないけど、いい人だ」
ジェイデンはヘザーに囁くようにして補足する。しかし。
「ジェイデン、全部聞こえてるからね」
彼女はとても耳がいいらしい。二人からは少し離れたところにいたマクシーンは、いたずらっ子を諭すような語調でジェイデンにそう言い渡す。
くすくす笑うジェイデンを横目に、ヘザーはマクシーンのもとへ向かう。途中、レセプションに戻ったキャルムと目が合い、ヘザーは会釈をする。彼も同じ仕草を返してくれた。
「ほら、いらっしゃい。あら、随分と寒そうな格好だ。服もクローゼットに用意してあるから、好きなのを選んで着てね。今日はもう遅いから寝るだけだと思うけど、明日の朝食は部屋まで持っていくから。わたしは顔を見ないと気が済まないからさ、ちょっとだけ、朝だけは失礼させて。でも、その後は無理しなくていいからね。気が向いたら外に出てくるといいし、出なくてもいい。何か必要なものがあればわたしかキャルムに言ってくれれば用意する。男どもに言いづらいことだってあるだろ? そういう時は、わたしがいるから。ああ、そうそう。何も遠慮しなくていいからね? わたし、こういう仕事をしているから、人の世話をするのが好きで──」
傍に寄ったヘザーの肩に腕を回し、マクシーンは忙しなく口を動かしながら階段を上がる。ロビーが見えなくなる間際、ヘザーは二人を見送っていたジェイデンと目が合った。
ほら、言った通りだろ? 彼の笑った目元がそう言っているようだった。
ヘザーは隣のマクシーンをちらりと見やり、ほんの少しだけ頬を緩める。
確かに彼の言う通り、彼女はお喋りが好きなようだ。
キャルムとマクシーンが用意してくれたのは三階の一室だった。客が少ないとは何度も聞いてはいたが、まだ改装中の部屋がいくつも途中にあり、ヘザーはその事実を肌感で納得する。
内装は外観と同じく落ち着いた色調で統一されており、ところどころに飾られたアートや花々がおとぎ話を連想させる。
ヘザーの部屋は既に改装が終わっているそうで、中はとても綺麗に整えられていた。過度に煌びやかなところもあった母国の屋敷とはだいぶ違う雰囲気だが、自然素材に囲まれた空間は足を踏み入れた瞬間に居心地の良さを予感させる。
素朴な木の香りが肺を満たし、何度でも深呼吸したくなった。
マクシーンが部屋を出ると、ヘザーはまず外套を脱いだ。部屋の中に暖炉はないが、十分に暖かかったからだ。
丁寧に外套の皺を伸ばし、クローゼットに吊るす。クローゼットの中に並んだ数着の服は、どれも町でよく見る形のワンピースやブラウス、スカートだ。ヘザーが母国で着ていたようなドレスはない。ヘザーはそのうちの一つ、ナイトガウンらしきものを手に取った。
クローゼットの横には鏡がある。が、ヘザーはその前に立つことを躊躇する。まだ、牢獄を出てからの自分の姿を真正面から見たことがない。目には映らなくとも、大体の予想はできる。醜く、汚らしいはずだ。
ナイトガウンを握りしめ、ヘザーは一歩も動けずに唇を噛みしめた。
いずれは直面する真実。ずっと逃げられるはずはない。分かってはいても、なかなか行動に移すことは難しかった。
鏡の一歩手前で立ち止まったまま数分が経つ。静寂の夜を蹄が駆けて行く音が窓の外から微かに聞こえてきた。恐らく、ジェイデンたちが帰ったのだろう。
眠りに落ちる間際に見たジェイデンの笑顔を思い出し、ヘザーはごくりと息をのみ込む。彼が見ていた自分はどんな姿をしていたのか。向き合わないのは、嫌な顔一つせず自分を助けてくれた彼にも悪い気がしてしまう。何よりも、自分が自分を否定すべきではないのに。
どき、どき、と、鼓動が激しい音を打つ。瞼を閉じ、ヘザーは深呼吸をした。
今の自分を受け入れなければ、前に進むことなど出来ない。
瞼を開け、ヘザーは決心して鏡の前に立つ。
泥だらけの顔に、痛々しい頭。思った通り。むしろ、それよりも惨めだった。
ヘザーは鏡に背を向けてナイトガウンに着替え始める。
分かっている。分かっていたことだった。
けれど、いつだって、嘆きは初対面のふりをして感情を搔き乱していく。
ナイトガウンに着替えたヘザーは考えることを止め、ベッドに倒れ込むようにして突っ伏す。
薄暗い部屋の中、癒えることのない痛みを抱いたまま、ヘザーは再びの暗闇を求めた。
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