7 差し伸べられた手
荷台に乗ったヘザーは、荷物の少ない前方のスペースに誘われた。小さな絨毯が敷かれたようなその場所には毛布が数枚無造作に広がっている。幌馬車の荷台にほかならないのに、いかにもここはどこかの小屋だと錯覚してしまいそうだった。
ジェイデンはヘザーの手首に結ばれた縄を解いた後でランプを手に取り、空いた空間にヘザーを座らせた。
箱の位置を少しずらし、ジェイデンは彼女に向かい合いようにして座り込む。
蝋燭の光が荷台の中を朗らかに照らし、揺らめくオレンジが天井となる幌に広がる。まるで暖炉を思わせる幻想的な温もりだ。
ジェイデンが口髭の男に合図をすると、彼はゆっくりと馬車を動かし始める。ぐらりと身体が大きく揺れた後も、ヘザーは膝を抱えたまま俯いて顔を上げない。明るい場所になり、少し気になったのか彼女の頭はまた布を被っていた。馬車が少し進んだところでジェイデンは大きな鞄から水筒を取り出し、数回振ってみせた。
「これ、飲む?」
液体がシャッフルされる音に反応したヘザーが微かに顔を上げると、ジェイデンはそう言って水筒を彼女に差し出す。
「あ。そうそう」
彼女の感情が消えた瞳を見たジェイデンは、ハッと何かに気づいたように人差し指を立てる。口髭の男がしていたのとほとんど同じ仕草だ。
ヘザーがもう少し顔を上げたところで、ジェイデンは水筒を開け、自分の口に一口分の水分を流し込んだ。
「毒は入ってないから遠慮しないでいいよ」
にこりと笑い、ジェイデンは再びヘザーに水筒を差し出した。ヘザーがそれを受け取ると、ジェイデンはほっとしたように積まれた箱に背を預ける。
久しぶりに、何の匂いもしない水が喉を伝っていく。ヘザーは透明な味に夢中になって水筒を傾ける。干乾びた細胞が膨らんでいくようだった。
「あと、これも食べるといいよ。親父が作ったやつだけどさ」
続けてジェイデンは楕円の形をした茶色の食べ物を包んでいた布から取り出す。
表面はパン粉で覆われ、どうやら揚げてあるらしい。
初めて見る食べ物にヘザーは恐る恐る手を伸ばす。
「それも毒は入ってない。入ってたら俺、もう死んでるから」
興味深く衣を見ているヘザーにジェイデンは陽気に笑いかけた。確かに水筒にも毒は入っていなかった。多分、彼は嘘をついていない。もしかしたら水筒は安心させるための前振りで、食べ物が本命という手もあるが。
あまり回らなくなった思考でヘザーはもしもの可能性を僅かに思い浮かべた。が、手にした楕円の食べ物の丸みを見つめていると、どうしても目が離せなくなる。ほんの少し、香ばしい薫りが鼻に届いてくるのだ。
劇薬か、妙薬か。空腹に囚われたままではまともな判断など下せるはずがない。気づけば、ヘザーはジェイデンから渡された見慣れぬそれを口に運んでいた。
一口かじりつくと、肉の味が鼻を抜けて口内に広がっていった。遅れて、ゆで卵の味もついてくる。甘い。パン粉のせいか、一番に感じるのは甘味だった。
「スコッチエッグって言うんだ。結構美味いだろ」
ネズミが少しずつチーズを頬張っていくように、ヘザーも止まることなくスコッチエッグをかじり続けていく。ジェイデンはそんな彼女のことをじっと見つめながら、片足を立てて膝に腕を乗せた。
「言葉がないってことは、美味いってことだな」
ただ食べることにしか集中できなくなったヘザー。ジェイデンはその様子に納得したようにこくこくと頷く。
スコッチエッグを半分食べ進めたところで、ヘザーはお腹が張っていく感覚を覚えた。急に固形物を腹に入れたせいか、内臓もびっくりしているのだろう。ヘザーはこれ以上身体の内部を刺激しないようにと食べる速度を落とし始める。
ちらりとジェイデンの顔を上目で見やれば、彼はニッと歯を見せて笑い返す。
まだ出会って間もないが、彼らは悪人ではないことがはっきりと分かった。少しでも疑ったことが後ろめたくなり、ヘザーは再び目を伏せ、スコッチエッグをゆっくり頬張っていく。
しばらくの間、蹄がしなやかに地面を蹴る音だけが辺りに響いた。
「俺はジェイデン・オークリー。親父と一緒にラタアウルムで商人をしてる。親父の目利きは冴えてるからさ、親子で商会も経営してるんだ」
ヘザーがスコッチエッグを食べ終えたタイミングで、ジェイデンが改めましてと言わんばかりに自己紹介をする。
「今回も、直接仕入れの交渉をするためにちょっと旅に出てたんだ。今はその帰り。親父がたくさん寄り道するもんだから、予定よりすっかり遅くなっちゃったけどな」
ジェイデンは御者席に座る男を横目で見やりながらクスリと笑う。
「でも、その分だけ余計に旅も楽しめたし、結果的にはいい経験になったんだけど」
ジェイデンがわざとらしく声の音量を上げると、彼の父は二人に背を向けたまま片手を上げてみせた。
「……で」
次はヘザーが名乗る番だ。もちろんそのつもりだったジェイデンがヘザーに視線を向ければ、彼女は肩をすくめて小さくなってしまった。その後も彼女が口を開く気配はない。するとジェイデンは、立てていた足を戻して胡坐をかく。少しだけ身体を前に傾け、ヘザーを見つめたまま頬を弛ませた。
「商売のためとはいえ、こうやって旅することも多くて。親父なんか、前に盗賊に襲われかけたこともあったんだ」
昔話を語る口調でジェイデンは興奮する声をどうにか控えめに抑えていく。
「まだ母さんが家にいた時だったかな。俺は小さかったから家で留守番してたんだけど、帰ってきた親父がさ、結構な怪我をしてたわけだよ。俺は親父が怪我してるのを見て心配で堪らなかったんだけど、母さんは逆に怒っちゃってさ。仕事の引き換えに危険な目に合うなんて馬鹿げてる。こっちは毎日毎日あなたが無事かどうか考えるだけでも胸が潰れそうなのに、ってすごく悲しんでたんだ」
ジェイデンは片手で頬杖をついて目元を緩ませた。
「結局、そんな生活に耐えられなかったのか、母さんは家を出ていった。親父は、お前も嫌なら出ていっていいんだぞって俺に言ったんだけど、俺は親父の仕事に憧れてたから、絶対に出ていかないって意地を張った。親父は頭が柔らかいくせに頑固なとこもあってさ。残るなら条件があるって言うんだ」
ジェイデンの話にヘザーの瞳が少しずつ開いていく。一体、どんな条件だったのだろう。いつの間にか、彼の話に惹かれてしまっていたようだ。彼と目が合うと、ジェイデンは得意気にニヤリと笑う。
「盗賊に襲われても負けないくらい強くなれ、って。俺は言われるままに鍛え始めた。強いやつを探して、もしもの時にちゃんと戦えるようにって。今や、国で一番の精鋭に鍛えてもらってる。だから、怖がらなくていいよ。少しくらいは闘えるから、君のこともちゃんと守るって」
「ジェイデン。そんな大口を叩いて大丈夫か」
息子の話はしっかり父の耳にも届いていたらしい。心配というよりも呆れたような父の語調に、ジェイデンは慌てたように彼の方を向く。
「だ、大丈夫なはずだっ。師匠のお墨付きも貰ってるし」
「あれは恩情とも言えるけどね。しかも彼はあの時、まだ怪我をしたばかりだっただろう」
「なんだよ親父。息子が強くなったことが嬉しくないのかよ。親父のこと、守ってやんねーぞ?」
父をからかうように彼の言葉をジェイデンは笑い飛ばす。
息子の笑い声につられるようにして口髭の男も愉快そうに笑い声を上げた。二人の潔い笑いに、ヘザーの顔はすっかり前を向くようになる。
「あ。そうだそうだ。さっき、道が分からない、って言ってたよな」
ヘザーが二人を見てぽかんとしていることに気づいたジェイデンは、まだ笑い声を引きずったまま彼女に訊ねる。ヘザーがこくりと頷けば、ジェイデンの視線は再び彼女を捉えた。
「なら、ひとまずはラタアウルムにおいでよ」
「え……?」
まさかの提案にヘザーの口から息が洩れた。
「あー、安心して? 泊まるにしても、うちの家じゃない。男だけのむさ苦しい家じゃいやだろ?」
ジェイデンは眉尻を下げて申し訳なさそうに笑う。
「近所で宿屋をやってるところがあるからそこに泊まらせてもらおう。今は改装中で客も少ないんだ。店主たちとは腐れ縁だから話せば分かってくれるだろうし」
「ああ。それがいい。そうさせてもらいなさい」
息子の提案に父親も異論はないようだ。とんとん拍子に進もうとする二人の会話に、ヘザーの脳はまだついていけなかった。
「あの、そんなの、悪いです。食べ物ももらって、助けていただいたばかりなのに」
ラタアウルムの言葉を喋ると、母国語とは少しニュアンスが違って脳が混乱しかけた。屋敷にいた自分とは違い、別の誰かがそこにはいるような気がしてしまう。
失礼な言い方にはなっていなかっただろうか。ヘザーはほんの少しの心許なさを覚える。しかしジェイデンはそんなことまったく気にしていないようで。
「あっ! やっと声が聞けた。俺、変なことでも言ったかなって不安になっちゃったよ」
嬉しそうに、肩を軽く弾ませてジェイデンは安堵したような笑顔を見せる。ヘザーは彼の不安を否定するために勢いよく首を横に振った。
「良かった。まだラタアウルムまでは少し時間がかかる。着くのは真夜中になると思うけど、それまで、ゆっくり休んでて」
首を横に振りすぎたのか、ヘザーは微かに目を回していた。こめかみを抑えて眉根を寄せた彼女にジェイデンは優しく微笑みかける。
「疲れてるだろ? 俺たちが見張ってるから、何も心配しなくていい」
「……ありがとう」
「あー、でも、無事に宿に着くまで礼はおあずけで。親父の言った通り、さっきのは大口だったかもー、ってなる可能性もなくはないから」
「ふふ」
「その毛布、使って」
「うん」
ジェイデンが教えてくれた毛布を手に取り、ヘザーは横になりながら自分の身体にかけていく。自分を包み込むふわふわとした感触にまだ慣れない。ずっと遠くに手放してしまった安らぎを感じた。
ヘザーはジェイデンを見上げ、ほんのり口角を上げる。
「私…………アニャシア」
「うん。おやすみ、アニャシア」
ジェイデンは彼女の近くにあったランプを自分の方に寄せ、強烈な明かりを彼女から遠ざける。そのせいもあるのか、横になった途端、ヘザーの瞼はとろんと重たく落ちてきた。思えば王国の馬車に乗っている間はまともに寝られた記憶がない。いつ、どこで、突然放棄されるか分かったものじゃなかったからだ。だが今は、不思議とそんな懸念はない。
「ありがとう、ジェイデン……」
ぽつり、ぽつりと眠りに落ちるにつれて彼女の声が霞に消えていく。
次にヘザーが目を覚ましたのはラタアウルムに着いてからだった。すっかり深い眠りについた彼女を、ジェイデンは目的地に着くまで一睡もせずに見守り続けた。
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