4 石牢の絨毯
牢獄は想像通りの寂しい場所だった。
これまでの人生で一切近寄ることのなかった牢獄棟。そこに自分が収監されるなど、想像したことがあっただろうか。
分厚い石の壁に四方を囲まれ、入ってくる光は重たい窓についた小さな格子から差し込むものだけ。
馬車を降りたヘザーはまず花嫁のドレスを脱がされ襤褸切れで作られたワンピースに着替えさせられた。その間も、彼女の周りから衛兵が去ることはなかった。
逃げられてはならぬ。彫像のごとく微動だにしない彼らの表情からはそんな強い使命感が伝わってきた。
着替えた後は独房に閉じ込められ、そのまま時だけが過ぎていく。いや、この場にいては時が経っているのかすら判断がつかない。永久の空間に押し込まれたような気分になって、ヘザーの心も重たくなっていった。
ここは寒い。
薄い襤褸切れの服では、体温を守ることも難しかった。
自分の身に何が起こっているのか。実のところ、ヘザーはまだきちんと飲み込めてはいない。頭の中をぐるぐると回り続けるのは、なぜハドリーの恋心が父親に知れたのか、彼は無事なのか、そんなことばかりで自分のことなど何も浮かばなかった。
無意識のうちにヘザーは指先を絡めていく。やはり寒い。寒くて寒くて、たまらないのだ。
色を失った唇が微かに震えだしたころ、格子から伝う光が大きく動いた。
「そろそろ出発だ。準備しろ」
衛兵はそう言ってヘザーの腕を掴む。もう何度目か。衛兵は慣れた手つきで彼女を連れ出すが、ヘザーもそろそろこの痛みには慣れてきてしまっていた。
「どこへ、向かうのですか?」
国外追放の前例は耳にしたことがある。が、その行き先は誰も知らない。ヘザーは螺旋の石階段を下りながらだめもとで衛兵に訊ねてみた。
思った通り、衛兵は口を閉ざして何も教えてはくれない。ヘザーは静かに目を伏せ、ようやく感覚を取り戻した足で先に進む。
「そこに膝をつけ」
階段をすべて下りたところで衛兵はヘザーを小部屋に向かわせ、彼女の肩を掴んで身体を強引に下に沈めた。屈強な力に敵うはずもなく、ヘザーは荒く削られた石の床に勢いよく膝をつく。
「な、なにを……?」
ここはまだ出口ではない。光の少ない薄暗い円形の部屋の中で、ヘザーは怯えた目を衛兵に向ける。またしても彼は何も言わなかった。言葉のない代わりに、視線だけが廊下の方面を向く。
ヘザーも彼の視線を追う。ひたひたと廊下を歩く足音が聞こえたかと思えば、切れ味の良さそうなよく砥がれた鋏を持つ老婆が部屋の入り口で立ち止まった。
窪んだ瞳には光がなく、重たげな白髪を頭の上で団子状に結んでいる。手足は痩せているのに、胴体には立派な脂肪がついているように見えた。
「綺麗な髪だねェ」
老婆はヘザーを見るなりしゃがれた声で呟いた。彼女は確かに生きているはず。なのにどこか生気を感じず、ヘザーの背中には冷たい汗が流れていった。まるで亡霊。生きる世界が違って見えた。
「や……」
恐ろしかった。
ゆっくり近づいてくる老婆が恐ろしいのか、その手に持つ鋏が怖いのか、はたまた自分を挟む衛兵の正義が息苦しいのか。
理由など、きっとなかった。ただ本能が嫌だ、と叫んだだけなのだ。
「やめて……‼ お願いっ。やめて‼ 放して‼」
気づけばみっともない声を上げ、じたばたもがき、暴れていた。両肩を押さえ込む衛兵の握力から逃れることなどできないのは分かりきっていること。けれど、自分を制御することができなかった。
──ヘザー。君の髪、本当に太陽がよく似合うね
彼の言葉が蘇る。
「いやあああああぁ‼」
泣き叫ぶ彼女の声は剥き出しの石壁に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
彼が触れた指先の温もりが。目の前にあった大好きな微笑みが。ぱら、ぱら、と引き裂かれていく。
衛兵は暴れる彼女を力任せに床に押さえつけ、老婆は一切の迷いなく彼女の髪を切り落としていく。
完成後の髪型など、まったく想像していないことがその鋏捌きで伝わってきた。乱雑な鋏捌きは頭皮から根こそぎ髪を削いでいくことしか考えていない。
時折、鋭利なものが皮を削り、目元まで赤い液体が流れてくる。涙に濡れた顔には切られた髪の毛が張り付き、彼女の下にはミルクブロンドの絨毯が広がっていく。
「あああ……ああ……あ……」
もう、涙すら残っていなかった。ズキズキと頭部が痛み、次第に感覚が麻痺していく。意識が朦朧としてくる。しかし、眠りにつく気配はない。半端な意識を保ったままだ。そのせいで、これは悪夢ではなく現実だということをヘザーは嫌でも認識させられる。
「行くぞ」
老婆が鋏を閉じて一歩後ろに下がれば、衛兵は襤褸布をヘザーの頭に被せ、魂が抜けて人形のようになった彼女を強制的に歩かせる。
「ヒヒ、こりゃ、上物だ」
背後では、老婆がヘザーの髪を拾い上げて満足気な笑みを浮かべていた。
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