3 門出の日に

 ヘザーとハドリーの計画は順調だった。

 愛息子が法に反する情愛を持っていることをヒューバートに隠し通したまま、二人の結婚式は近づいてくる。

 愛する人の傍で生きる誓いを正々堂々と告げられる日をヘザーは首を長くして待っていた。もう待ちくたびれた。彼への愛は、物心がつくのと同時に抱いていたのだから。この日が来るのが遅すぎるほどだ。


 溢れんばかりの喜びが待っているはず。それはもう、人目も憚らずに跳び跳ねすぎて叱られるほどに。

 なのになぜ、胸の底がいつまでも波立っているのだろうか。

 抱いた不安を抑えたまま、二十歳になったヘザーはついにハドリーと正式な契りを結ぶ日を迎えた。大勢の来客の前で彼に生涯寄り添うことを誓い、未来への一歩を踏み出す大事な日だ。


 純白のドレスに身を包み、緻密に編まれたヴェールで顔を隠せば、未来への希望に満ち溢れた美しい花嫁に変身できる。彼女は目を離すのが惜しいくらいに輝いていた。

 眩い輝きのせいで、ヴェールの下で微笑む彼女の瞳をハドリーでさえも見落とすほどに。しかし、彼がヘザーの瞳の色を見られなかったのも無理はない。

 その日、彼がヘザーの花嫁姿を見ることは叶わなかったからだ。


 二人の結婚式が執り行われる直前、突如として事態が急転直下を迎えた。

 支度を終え、母や侍女とともに部屋で待っていた時のこと。

 怒号とともに扉を蹴破った一人の紳士によって、式は中止せざるを得なくなる。


「お前……‼ 小娘ごときが、ハドリーにどんな入れ知恵をした‼」


 止めようとする使用人たちを払いのけ、額に血管をくっきり浮かべた彼は眉を吊り上げ、ヘザーを睨みつけてきた。

 女性のみ入室が許された部屋に強引に押し入ってきたのは、息子の門出を祝う正装に身を包んだヒューバートだった。

 椅子に座り、母の手を握りしめていたヘザーを見つけた彼は、慌てて立ち上がったヘザーの母を押しのけて彼女に食って掛かる。


 彼が怒りに支配されていることは見ればすぐに分かった。けれど何故、昨日まで穏やかだった彼が烈火のごとく激怒しているのかは分からない。

 何を言えばいいのか咄嗟には思いつかなかった。金魚のようにぱくぱくと閉口するヘザーの唇からは声が出ていかない。


「どうせお前が私の息子を唆したんだろう。所詮、あの子はお前の遊び相手だったということか⁉ 息子を弄んで楽しいか。お前に裏切られ、傷ついたあの子が堕ちていく様を、どうせお前は悦んでみていたんだろう⁉」

「えっ……えっ……と」


 ヒューバートの言っている意味がさっぱり理解できない。ヘザーはますます混乱していく思考の中で、どうにかその輪郭を得ようとする。


「純白など着やがって……。真白なハドリーの心を汚したのはお前なんだろう⁉」


 ヘザーの頭部から垂れた美しいヴェールを乱暴に掴み、ヒューバートは容赦なく引き裂く。侍女の悲鳴が空気にこだました。

 ヴェールが剥がれたヘザーの表情は恐怖に怯え、視界を阻む憎悪に満ちた男の顔から視線を逸らすことすらできない。

 全身からはとうに力が抜け、立ち上がることも不可能だった。

 床に倒れた母が侍女に助けられて立ち上がり、何か、自分を守ろうとしている言葉を発していることだけが辛うじてわかる。

 ヒューバートは周りの人間をちらりと見やり、一拍置いてから震えるヘザーの耳に唇を近づけた。誰にも聞かれたくない話を、ただ一人、彼女にだけ聞こえるように声を顰める。


「あの子を男のもとに堕としたのは、お前の策略か」


 身の毛もよだつ嫌悪の声が耳を塞ぐ。

 彼の言葉を聞いた途端、ヘザーの鼓動が止まりかけた。いいや、いっそ、止めて欲しかった。

 茫然とするヘザーを見下ろし、ヒューバートは冷酷な瞳で彼女を蔑む。

 ひどく冷淡で容赦のない眼差し。年老いても変わらない彼の端正の顔立ちが、余計に非情を演出する。


 ヒューバートは彼についてきた衛兵に彼女を部屋から連れ出すようにと視線で指示を送る。母親が止める暇もなく、ヘザーは有無を言わさず衛兵に囲まれてしまった。

 まだ足に力が入らない。無理やり立たせられ、両腕を背中に回されて骨ばった手できつく固定されてしまう。

 目の前が真っ白になったまま、ヘザーは意思もなく彼らに連れられて外に出た。


 待ち構えていたのは二人の結婚を祝福するために呼ばれた多くの来客たちだった。麗しい新郎が現れるのかと思いきや、出てきたのがヴェールを破られた花嫁であったことに彼らはどよめく。

 談笑の声を止め、衛兵に囲われたヘザーの姿に目を丸くして驚いていた。見るからに顔は引きつり、異常事態を察知しているようだ。


「お集りの皆さま」


 彼女の後ろから出てきたヒューバートの悠々とした声に皆は一斉に視線を向ける。今、最も頼れるのは彼の発言。彼らはそう判断したのだ。


「今日は我が息子、ハドリーの新たな旅立ちをこんなにも多くの方々に見守っていただけることに感謝しております。しかしながら、ちょっとばかしの問題が発生いたしまして。いやぁ、うっかりしておりましたよ。この小娘が、まさか我が息子を弄んでいたとはね。彼女の不貞を知ったハドリーは、すっかり落ち込んでしまいましてね。今は皆さまの前には出れない状態になってしまいました。わざわざお越しいただいたのに申し訳ない」


 ヒューバートの明朗な話しぶりに、来客たちは更なるどよめきに包まれた。こそこそと口を寄せ合い、ヘザーのことを訝しがっている。ヘザーは下を向いたまま、気もそぞろに目を回していた。

 ヒューバートの真っ赤な嘘などどうでもよかった。

 何よりも気がかりなのはハドリーの現状だ。彼の父にハドリーの恋心が知れてしまったようなのだ。先ほどの口ぶりだと、相手が誰だか知っているはず。となれば、ハドリーは法を犯したとみなされてもおかしくはない。ヘザーの心臓は今にも胸をぶち破ってしまいそうなほどに叫びをあげていた。


「我が国では、皆さまもご存知の通り不貞は許されない。まして、国王の弟である私の息子を玩具の如く扱った。彼女は別の男がいながら、王族の血を汚そうとしていたのだ」


 ヒューバートはヘザーの髪を鷲掴みにして、首を取ったと言わんばかりに来客たちに彼女の顔を見せつける。

 彼女に注がれる視線はまるで人間を見るそれとは思えなかった。


「そうまでして、コートニー嬢を出し抜きたかったのか? どうせ、彼女が婚約者であることに嫉妬して、ハドリーを誑かしたのだろう。幼馴染だなんだと言って。コートニー嬢の気持ちを少しは考えたことがあるのか」


 コートニーはハドリーの元婚約者の名だ。誰よりも美しい才女。ヒューバートの骨董品コレクションにも積極的に私見を述べ、彼にも気に入られていた。

 ヘザーの胸がチクリと痛んだ。確かに彼の言葉はまったくのでたらめではない。彼女に嫉妬し、羨んでいたことは事実なのだから。おまけに、婚約破棄についても永遠に愛されることのない彼女を助けるためだと偽善者を気取っていたのだ。かつての自分の浅はかさにヘザーの目尻に涙が浮かぶ。


「ハドリーを罪人にし、私に恥をかかせるつもりだったのか。裏で嘲っていたのだろう。強欲な奴め」


 ヒューバートがヘザーに囁きかけた。ヘザーは彼を貶めるつもりなどなかった。が、彼にしてみれば秘密を握られ馬鹿にされていたも同然。弱みは権力をも支配できることを彼はよく知っている。


「本当に申し訳ない。今日の式は、中止とさせていただきたい。代わりに、この娘の処分を考えなくてはいけなくてね」


 ここは和やかな古城の広場だというのに、まるで古代の処刑台に乗せられている気分だ。

 背後から聞こえるヒューバートの声がヘザーの耳からどんどん遠のいていくようだった。瞳に映る大勢の来客も、すべてが幻の如く消えていく。所詮は夢だった。ハドリーのため。ただ自分を擁護するためだけに存在していた傲慢な言い訳が、惨めにも脳裏をよぎっていく。


 ヒューバートが掴んでいた髪を離すと、ヘザーの身はその場に崩れ落ちていった。続けて、ヒューバートは華やかな装飾を引き千切り、そのうちの一つである花束を地面に叩きつける。ハドリーがヘザーにぴったりだと用意した薄ピンク色の小ぶりな花々。同じ名の花を飾るなんて恥ずかしいと照れるヘザーにハドリーは柔らかに微笑みかけていた。


 この弾むような愛らしい花は、見ているといつも元気をくれる。僕にとってのヘザーは、まさにそうなんだ。と。


 彼女の目の前で、彼の想いは踏みにじられた。

 艶やかな靴が容赦なく花々を踏みつけ、ぐりぐりと執拗に虐めぬく。もう花びらは地面と一体化して色が滲み出している。花の原型を失くし、ただの石畳の染みになっても、ヒューバートの力は緩まなかった。

 花束を踏み潰した彼は来客に向き直り、改めて感謝の言葉を伝える。すると彼らは動揺のさざめきを残したままヘザーに背を向けていく。


 ヒューバートは再びヘザーを振り返り、悍ましいものを見るような目で睨みつける。しばらくして、彼女の周りを囲む衛兵を引きつれ、彼も来客を追うようにこの場を去っていった。

 それが、つい十五分前に起きたこと。


「あ……ああ……」


 ヘザーの口からは嗚咽だけが垂れ流される。指先でほどけたヘザーの花。その先で、衛兵のブーツがぴたりと止まった。


「ヘザー・アニャシア・カスターニュ。貴様は、国外追放だ。夕刻に出発する。それまで牢で待っていなさい」


 いつの間にか、去ったはずの衛兵たちが戻っている。ヒューバートの姿は見えない。ヘザーは衛兵に腕を掴まれ、されるがままに上に引っ張られて立ち上がった。


「ハドリー……ハドリー、は……」


 彼がどうなったのか全く分からない。昨日少しの言葉を交わしたまま、今日はまだ一度も会っていないのだ。父親に彼の本心が知れた今、彼が無事でいるとは思えなかった。


「ハドリー様はお屋敷に戻っておられます」


 ヘザーの左腕を掴む衛兵が淡々と述べる。


「彼は……無事なの?」

「貴様に答えることなどない」


 感情のない機械的な回答だった。


「父と母は……?」

「お二人もお屋敷に戻られている。そもそもハドリー様に迫ったのは貴様だ。お二人は娘の我が儘に付き合わされたまでのこと。貴様の痴情など、彼らが知るはずもない」


 そもそも痴情などないのに。

 ヘザーは喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。淡白な語調だが、この衛兵が言うことが正しければ両親が罪に問われることはなさそうだ。


 幼い頃にハドリーと遊んだ時、互いの両親が楽しそうに食事をしていたことをよく覚えている。どうやら四人の仲は偽りではなかったらしい。

 友人である二人のことを、ヒューバート、もしくはその妻は信頼しているということだろう。

 最低限の情報だけを手に入れたヘザーは、そのまま体温すら冷たい衛兵に挟まれ護送用の馬車へ詰め込まれた。


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