2 世界で一番

 ハドリーは今年で二十一歳になる。

 彼は貴族の嫡男であり次期当主だ。この国の貴族の子息令嬢は互いが二十歳を超えた頃に親同士が決めた相手と結婚することが通例となっている。

 ヘザーの家は伯爵家だが、公爵家であるハドリーとは縁戚関係にあるため、歳の近い二人は幼い頃から共に遊ぶ機会が多かった。


 はじめ、ハドリーには別の婚約者がいた。彼に好意を抱くヘザーはそのことをひどく悲しみ、どうにか想いを絶ちきろうと努力した。しかし、その途中で彼があまり乗り気でないことに気づき、ヘザーはその真意を探ろうと彼のことを根掘り葉掘り調べだす。

 もしや自分にもまだ機会があるかも。そんな微かな期待を抱いたのも正直なところだ。


 すると彼には別に好きな人がいることがわかった。ハドリーが想いを寄せる相手。それはヘザーもよく知っている人物だった。街で有名な獣医師の息子、ナサニエルだ。

 ハドリーの真実にたどり着いたとき、ヘザーは全身が捻れるような不思議な感覚に包まれた。しばらくして涙が流れ落ち、彼の領域にはいつまでも入ることができないことを悟り、嘆いた。部屋に閉じ籠り、一日中悲しみに浸ったのだ。しかし泣き腫らした顔を鏡で見た瞬間、これは神様がくれたチャンスなのだと思った。


 このまま何もしなければ、ハドリーは予定通り自分とは別の女性と結婚するだろう。それは何としても避けたかった。彼もその未来に戸惑っている。ならば。

 ヘザーの脳内に一つの考えが浮かぶ。

 自分が代わりにハドリーの婚約者になってしまえばいいのだと。


 ハドリーの両親は厳格で規律に厳しい。そんな彼らにハドリーから婚約解消を言い出すことはできないはず。

 計画を思い付いたヘザーは早速自身の両親にハドリーの婚約者になりたい旨を伝えた。両親はちょうどヘザーの婚約相手を探している最中。そこに、自分が愛するのはハドリーだけだと彼らの情に訴えかけたのだ。


 愛娘の勇気ある告白に彼らは胸を打たれ、どうにか尽力すると前向きな約束をしてくれた。次にヘザーはハドリーのもとへ向かった。ハドリーのナサニエルへの想いを問い詰め、ついに彼は本心を白状することとなる。

 自分を恥じると泣き崩れたハドリーの悲痛に満ちた表情がヘザーの脳裏にこびりついた。

 この国では同性愛は認められていない。ましてや貴族の中では特に侮蔑の対象とされていた。禁忌の想いを抱いたまま手放せない自分のことをいっそのこと殺したい。

 ハドリーの苦しい息づかいをヘザーはいつでも鮮明に思い出せる。

 そんな彼に自分が何を言ったのかも。一語一句忘れたことは一度もない。


『私じゃだめ? あなたが私を愛せないとしても、せめてあなたの苦しみを和らげる存在になれないかしら?』


 ハドリーはヘザーの提案に目を丸くして驚いた。

 そんなのはだめだ。君を苦しめたくはない。君を道ずれにはできない。君の自由を奪いたくはない。

 いくつもの言葉が彼の口から出ていった。けれどヘザーは堂々とした笑顔で立ち向かう。


『構わないわ。私はあなたの大親友だもの』


 彼の頬を流れる涙を指でぬぐい、ぺちんと両手で彼の顔を包み込む。


『大親友を人生の伴侶にできるって、とても素晴らしいことだと思わない?』


 ヘザーの自信に満ちた表情がハドリーの緊迫した心をほどいていく。

 こくりと頷いたハドリー。ヘザーはにっこりと笑いかけ、彼のことを抱き締めた。


『私には、どのみち自由などないのだから』


 ならばせめて。

 愛されなくとも愛する人の傍にいたい。

 ヘザーの背中がハドリーの腕の力で圧迫されていく。


「……ヘザー。ありがとう」


 耳元で囁かれた声。

 ヘザーの瞳の奥はその一言だけで幸福な熱に満たされていった。

 いつ何時も、瞼を閉じれば心の奥底に残った彼の声が幸せを教えてくれるのだ。


***


 ハドリー・ヴァンドーフの父親、ヒューバートは現国王の弟で、四人兄弟の末っ子として生まれた。兄弟の中でも特に学ぶことが好きで、その興味は幅広く、骨董品などの古美術にも造詣が深い。中でも帝王学にのめり込み、当時の国王であった父へも意見することが多かった熱心な男だ。しかし皮肉なことに、彼が王位を継承する未来は決してない。事実を理解しようとも、ヒューバートは簡単には納得できなかったようだ。彼の野心は歳を重ねるごとに成長の一途をたどった。


 現国王がまだ第一王子の位であった頃から、ヒューバートは兄の大人しい性格を利用して自分の思う通りに動かしてきた。今、国内に求められている規律の多くは彼が生み出したと言っても過言ではない。

 兄弟の中で唯一、公爵の爵位を授かった後も、国王の囁き役として密かな権威を高めている。

 野望に満ち溢れ、思い通りの世界を作り上げることに熱中する父のもとで、ハドリーも王族の血を引く者として誇り高く育てられてきた。


 だが一方で、彼の使命的な想いが息子の首を絞めていく。

 ヒューバートはいくつもの新たな法を整備した。清く正しく、揺るぎのない強健な国家を持続するため、彼はこれまでになかった条文を多く盛り込んだ。が、まさか息子までもが悪人になるなど、想定すらしていなかったはずだ。


"肉体的異性以外との親密な関係を禁ずる"


 この新法が改めて明言されることによって、国民にも動揺が走った。破れば罰せられる。永久の強制労働、兵の最前線、研究の被験者、どれも行きつく先は死と同じ。

 摘発されていく人々を見てヒューバートが満足気に国王の肩を叩けば、兄である国王は弱弱しく頬を持ち上げた。彼なりのささやかな労いだ。

 互いの健闘を称えるばかりで、歪な兄弟の功績を背後で見ていたハドリーの顔から血の気が引いていたことにも彼らは恐らく気づいていない。


 厳格で、規律を重んじ、己の正義を貫く。

 ヒューバートの目に見えていたのは、ただそれだけのことだったのだ。

 当然、息子も同じはずだと。

 ハドリーが十五の誕生日を迎えた一週間後には、ヒューバートとその妻は彼の婚約相手を探し始めた。

 幼少期は地上に舞い降りた天使とも称えられたほどの容貌を備えるハドリーは、その繊細な面影を残したまま成長を遂げる。

 丹精込めて作られた宝飾品のような煌びやかさを纏う、見目麗しい少年へと見事に育っていたのだ。


 誠実な人柄と恵まれた容姿もあってか、婚約者はより取り見取りだった。しかしハドリー本人はあまり乗り気になれず、すべてを両親に任せ、自身は医学の勉強ばかりに身を捧げた。

 ようやく決まった婚約相手は爵位こそ高くはないものの、聡明さと美貌を兼ね備えた同年代の中でも特出した完璧な女性だった。

 実際に両者が顔を合わせた時も、従者たちは彼女の風貌にうっとりとしたため息をついたという。

 和やかな雰囲気で盛り上がった若き二人の会話の内容も、互いの印象自体も悪くはなかったはずだ。彼女は両親にも気に入られ、特にヒューバートは彼女を高く評価していた。


 それでもハドリーは彼女に対する後ろめたさに窒息してしまいそうだった。

 自分は彼女のことを愛すことができない。

 この婚姻が、ただ両親の描く道を進み、体裁を保つためでしかないことを正直に打ち明けたかった。けれどそれをすれば父も母も、伯父である国王の顔をも踏みにじることになってしまう。

 勝手なことはできない。迷惑をかけてしまうのであれば黙って先の未来に進むだけ。

 自分一人のせいで一族を破滅させるわけにはいかない。

 一族だけではなく、何よりも大事な人を守るためにはそうするしかなかったのだ。


 だが、彼女が屋敷に滞在する日々が積み重なるにつれ、罪悪感も同時に募っていった。彼女は優しく、そして賢い。ハドリーが自分を偽っていることも、偽り続けていることもいずれは露見してしまうだろう。

 ならばせめて、その時が来る前に彼女には本当の自分を告白すべきなのか。

 悶々と思い悩んでいたところで救いの手を差し伸べたのが幼馴染のヘザーだ。彼女はすべての事情を受け入れてくれる唯一の人だった。


 はじめのうちは、伯爵家の令嬢であるヘザーがハドリーの婚約者に名乗り出たことにヒューバートも難色を示していた。

 ヘザーも相手として遜色はないが、既に婚約を結んだ娘の方が能力としては秀でていたからだろう。

 渋りに渋っていたヒューバートだったが、ヘザーの両親の熱心な説得とハドリーからの後押しが功を奏したのか、無事に二人は婚約を結ぶこととなった。


 親友が生涯の伴侶となる。

 ハドリーとしても喜ばしい変化だった。

 しかし相手が変わろうとも、彼の苦悩が終わることはない。

 ハドリーの剥き出しの愛を享受し、想いを繋ぐ。


 それは獣医師の息子、ナサニエル・グリーンだけの特権だと、ヘザーは笑顔でそれを受け入れた。が、平気なふりをして自分の前で微笑む愛らしい瞳の奥に光る悲しみに大親友が気づかないはずがなかったからだ。


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