あなたを生涯変わることなく愛することを

冠つらら

1 偽装婚約


 待ち望んだ誓いは、突如として目の前で奪われた。


 眼前に横たわるのは踏み潰され命を失った花束。美しいほっそりとした繊細な薄ピンク色の小さな花びらが、無惨にもズタズタに千切れて散らばる。

 石畳に滲む花たちを見つめる空色の瞳が小刻みに震えた。

 しなやかな睫毛に縁取られたその瞳からはついには涙がこぼれ落ちる。


 花束と同じく地面に崩れ落ちていた彼女の身体はもはや冷えきっていた。

 多くが潰れてしまった束の中で、ひとつだけ原型をとどめている花に目が留まる。すがるように腕を伸ばせば指先に触れた襤褸の花は儚くもほどけていく。

 唯一残されていた希望。そのすべてが壊れてしまった。


 まるで今の自分のよう。

 ヘザーの花束を悼むように彼女は両手で顔を覆い、か細い声で泣き出した。


「あ……ああ……」


 絶望と悲しみが胸を容赦なく押し潰す。

 まさに彼女はこの花と運命をともにしている。

 ヘザー・アニャシア・カスターニュ。

 彼女はたった今、親友であり婚約者のハドリーとの関係を絶たれたばかりだ。


***


 予期せぬ来客は、いつも唐突に現れ心を乱す。

 中庭のガゼボで昼下がりにひと休みをしていたときのこと。ひとりぼっちのお茶会は、ヘザーの特別な時間だった。


 自分の瞳と同じ色をした空を見上げ、ヘザーは目元を緩ませる。彼女の無意識の癖だ。幸福を感じたとき、自然と笑みが浮かぶのはおかしなことでもない。

 朗らかな陽気の中、小鳥のさえずりに耳を傾けて過ごす午後の時間はヘザーのお気に入りだった。

 この時だけは、屋敷に大勢いる使用人たちの視線からも逃れられる。

 ヘザーの過ごす、ゆったりとした貴重な時は誰にも邪魔できない。たった一人の例外を除いては。


「ヘザー。またここにいたの?」


 背後からかけられた声にヘザーは振り返った。そこには見慣れた顔がある。


「ハドリー。私はいつも、ここにしかいないわ」


 ヘザーがそう答えると、彼は彼女のミルクブロンドの柔らかな髪を撫でて淡く微笑む。彼の笑顔は世界中の寵愛を受けてきたかのごとく穢れを知らない。氷山すらも溶かしてしまいそうなほど暖かな眼差しに呑み込まれぬよう、ヘザーはきゅっと唇を結んだ。


「それは君の望みだろう? 永遠にこの場所にいられたなら、ヘザーは永久の自由を得たのと同じだ」

「あら? ハドリーは賛同してくれない?」


 隣の椅子を引いて腰を掛けるハドリーにヘザーは彼を試すような表情を見せる。


「まさか。ヘザーの望みは、僕が一番望むものだ」

「ふふ。そんな恥ずかしい言葉を笑わずに言えるのね。甘すぎて、聞いている私の耳が溶けてしまいそう」


 ヘザーが口元を指先で隠して控えめにクスクスと笑うとハドリーも軽やかな笑い声をこぼす。彼のダークブロンドの髪がさらさらと風に揺れる。


「やりすぎかな? ははは。本音を言えば、まだ慣れないんだ」


 はにかむ彼の声には表情と同じ恥じらいが滲む。先程までのすました顔ともまた違う。だが仮面を剥いだ今の彼の幼さの残る顔つきの方が、幼馴染みであるヘザーにとっては自然に見えた。


「いいえ。ハドリーのどんな言葉も私への最高の贈り物よ。ありがとう」


 ヘザーが肩をすくめると、ハドリーは指を組んだ両手をテーブルに乗せる。


「ヘザーこそ、僕の最大の理解者だ。いつも感謝しているよ。ありがとう。君には、言葉だけじゃ足りないくらいの恩がある」


 ハドリーの素直な言葉を受け、ヘザーは彼の両手に左手を重ねる。


「お礼なんかいらないわ。私は、あなたの傍にいられるだけで幸せなの」

「本当に?」

「もし嘘だったら、こんなこと恥ずかしくて言えるわけないでしょう?」


 自信なさげに訊ねる彼にヘザーは微笑みを向ける。


「私は、どんなあなただろうと大好きよ。ずっと、ずっと、あなたのことを守っていきたいの」

「ヘザー……」

「だって、私たちは婚約者なんだもの。当たり前じゃない」


 ヘザーがハドリーの瞳を見つめると、彼はわずかに視線を落とした。


「そうだね。僕たちは婚約者だ。──でも」

「ハドリー」


 気まずそうに眉根を寄せた彼のことをヘザーの凛とした声が遮る。


「いいの。それ以上はもう……すべて、承知しているのだから」

「…………ああ」


 ヘザーが優しくハドリーの手の甲をさすれば、彼はようやく決心がついたのか、ゆっくりと首を縦に振る。


「わかった。君が幸せになれるのなら、僕は……」

「ハドリーがいればいいの。それだけで……あとは、もう、構わないの」

「ヘザー。君は、何故そこまで強いんだ?」

「いいえ。決して強くはないわ。ただ、ハドリーよりは心が強いと言えるかもしれないけれど」

「はは……それに反論する資格はないな」

「ふふふ」


 ハドリーの弱々しい笑みがヘザーの胸をくすぐった。


「でも、ヘザーに頼ってばかりもいられないよ。僕にできることがあれば何でも言って。さっきも言った通り、君の望みは僕の望みなのだから」

「ありがとう、ハドリー。今は特にないわ。ただ一緒に、ここで日向のきらめきを見ていましょう?」

「もちろん。喜んで」


 ハドリーは自分の手に重なるヘザーの左手を優しく握りしめた。

 ヘザーは涼やかな笑みを返し、再び空を見上げていく。

 左手から伝わる温もりと鼓動に彼女の心臓は痛みを伴うほどに締め付けられる。


 本当なら、彼に叶えてほしい願い事はたくさんあった。彼の真の笑顔が見たい。彼の優しさに包まれていたい。彼といつまでも手を繋いでいたい。無邪気に笑う彼の端正な唇に触れてみたい。

 彼は温厚な見た目の通り優しいから、きっと言えば叶えてくれるだろう。けれどヘザーはそのどれも口にすることはできなかった。ヘザーがいくらそれらのことを望んでも、ハドリーは望まないことを知っているからだ。


 ヘザーの望みはハドリーの意志そのものを否定することと何も変わらない。

 この婚約は互いの利益のために結ばれたものだ。ハドリーはヘザーを愛してはいない。いや、友人としては充分に愛している。しかしそれはあくまで親友として。これから二人が交わす予定の誓いとはまた違う。

 ハドリーはこの先もずっと、ヘザーへの愛の色を変えることはないとヘザーは理解していた。付き合いも長いのだ。恐らく間違いはない。


 一方のヘザーは彼のことを違う温度で愛していた。その想いは意識したときから熱を帯び、彼への愛は尽きることがなかった。

 自らの命を捧げるのも惜しくない。

 そして彼女は、まさしく自分の命を彼に差し出したのだ。

 二人の想いは決して交わることはない。それを自覚しながら、ヘザーは彼の婚約者に名乗り出た。全ては彼のために。それは建前で、本当は彼が自分を必要としているのだと思いたいだけだった。


「ヘザー。君の髪、本当に太陽がよく似合うね」


 日向の輝きを見つめているはずのハドリーの瞳がこちらを向いていた。ヘザーが頭を動かすと、髪飾りが揺らめく。ハドリーに貰った、彼女がいつもつけているお気に入りのパールの髪飾りだ。清らかな粒が太陽を反射し、彼の表情を煌めかせた。


「……ハドリーも、ね」


 彼のたおやかな微笑みにヘザーはぽつりと独り言を呟く。

 彼の一挙手一投足がヘザーの心を切なく揺らす。

 永遠に叶うことのない願い。


 ヘザーとハドリーの関係。的確な言葉に言い換えるのなら、それは偽装婚約者といえるものだった。


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