5 追放の果て

 炭色に塗られた馬車の荷台に無造作に乗せられる。

 血の滲み出た頭皮を大きな襤褸布で隠せば、視界も半分に切り取られてしまう。

 ヘザーのほかに、荷台にはいくつかの木箱が詰められていた。ヘザーは木箱の間に座り込み、縛られた両手首をそっと見下ろす。全体が土色になっていた。

 泥が爪の隙間に入り込み、手のひらにはいつの間にかできた切り傷がある。


 数時間前に白のヴェール越しに見た自分の手とはまるで別物。しかし何を思っても涙は出てこない。もはや感情が動く余裕すら持ち合わせていない。

 荷台の戸が閉められ、ぷつりと糸が切れたように中は真っ暗に落ちる。


 衛兵の掛け声に続いて馬の鳴き声が聞こえたかと思えば、荷台はぐらりと一度大きく揺れた後で滑らかに前に進み始めた。蹄の音が大地を踏みしめているのが分かる。一定の感覚で刻まれる慈悲のない音に、ヘザーは丸くうずくまった。

 今から、この馬車がどこを目指すのかなんて分からない。

 この先、両親に再び会える日が来るのかも。愛する人の無事を確認することも。

 もはやどれも、自分にそのような権利は残されていなかった。

 蹄の音が次第に自らの心臓を踏みつけていく錯覚に陥る。


「どうして……」


 こんなことになったのか。

 何かを責めたくなる。けれど何度思い直しても、ヘザーの思考は一つの罪に帰結する。


 私が、私のためだけに彼を手に入れようと望んだから。


 思うほど、ヘザーは逃げ場のない怒りに襲われていく。

 馬車は数日間、進み続けた。途中、衛兵が休憩を取る時にヘザーには最低限の水分のみが与えられた。はじめは吐き気を覚えた濁った水の味も、空腹の最中ではご馳走に変わる。日が経つうちに、飢えには抗えなくなった。

 出発した時に見た手のひらの切り傷も、まだら模様になって今の肌色に馴染んできた。


 あとどれくらいこの旅が続くのか。ヘザーはともに旅をする木箱に視線を向けた。ずっと一緒にいるのに、その中に何が入っているのかも知らない。彼らが語り掛けてくれれば、ずっと楽なのに。追放者とともにいるということは、そこまで重要なものでもないはずだが。ヘザーは隣の木箱に寄りかかって弱弱しい呼吸をした。最近は吸い込める酸素の量も少ない。


 彼女の目の下には、澱んだ色の隈が張り付いている。が、彼女はそのことにも気がつけていない。自分の姿を、もうずっと見ていないのだ。

 木箱の木目を数えることにも飽きた今、彼女が出来るのはこれまでの日々を振り返ることだけ。ただそれも、最近は同じ場面の繰り返しばかり。

 追放前日に見たハドリーの笑顔。ヒューバートの冷酷な眼差し。地面に溶けた花びらの色。石のざらつきと塵の匂い。また、変わらぬ過去がやってくる。


 覆った被りごと両手で頭を抱え、ヘザーはぎりぎりと爪を立てた。まだ傷を受けて間もない箇所が痛む。それでも足りない。もっと押さえつける。まだ、足りない。

 こんな痛みでは、自分の犯した罪に値しないのだ。

 もしかしたら今頃、ハドリーは首に縄をかけられているかもしれないというのに。自分の手首を締め付ける縄のきしみが聞こえる。

 その音を引き金に、生気が失われていく彼の真っ青な顔と苦しむ呻き声がぼうっと頭に浮かんできた。


「イヤ……」


 ゾッとする。

 ただの想像にすぎないその光景が、あまりにも鮮明に瞼の裏に映し出され、ヘザーは思わず頭を横に振った。

 だがそれが、ただの想像だと言い切れるのだろうか。

 息子の真実を知ったヒューバートが何を考えるのか、思うだけで嫌になる。


 痺れた指先が血色を失い、ヘザーの頭の中が真っ白になった、と、同時のこと。

 馬の嘶きとともに、荷台が波を打つように上下した。ヘザーを囲む木箱がバランスを崩して倒れ、ヘザーは咄嗟に身体を壁に預けてそれを避けた。


「な、なに……?」


 一瞬にして荷台の中はごった返しになる。あちこちで崩れた木箱に埋もれながら、ヘザーはどうにか頭部を守り通した。襤褸布が少しの気休めを与えてくれる。保護には脆いが、ないよりはマシだ。

 急停止した馬車の外では荒々しい男の声と衛兵と思われる毅然とした声が行き交っていた。

 どうやら想定外の出来事が起きたようだ。ヘザーはただならぬ空気を察知し、無意識のうちに息を潜める。


 聞き慣れない言語でまくし立てるように衛兵に詰め寄る男たちの声。その数は聞こえるだけでも三人以上はいる。一方で、衛兵の数は二人だったとヘザーは記憶していた。徐々に衛兵の声は聞こえなくなり、知らない言葉ばかりが飛び交うようになった。


 ヘザーが身構えていると、荷台の後ろの扉を乱雑に殴る音が男たちの声に重なり始める。鍵を壊そうとしているのは明らかだ。ヘザーは木箱の陰に身を隠し、心臓の辺りで両手をきゅっと握りしめる。鼓動が大きくなりすぎている。このままでは、彼らにも聞こえてしまいそうだ。


「もういい! 馬車を捨てろ!」


 衛兵の切羽詰まったその言葉を最後に、ヘザーの耳に馴染んだ言語は一切入ってこなくなってしまう。恐らく、何者かに襲われた衛兵二人は自らの命を守ることを優先したのだろう。馬が駆けて行く音が遠くなっていく。


 荷台に乗っているのは追放者と正体不明の木箱のみ。もし彼らが盗賊であれば、盗めるものなど何もないというのに。

 容赦なく扉を叩く金属音に、ヘザーの胸に忘れかけていた恐怖心が蘇ってくる。恐ろしい。恐ろしいはずなのに。皮肉なことに、身の毛もよだつその感情が、久しぶりに自らが生きていることを思い出させる。


 ヘザーの心が恐怖に支配された時、破壊音とともに外の光が荷台に差し込んできた。ヘザーの瞳を染めたのは、もう夕焼けも終盤の、目に沁みるような赤だった。

 一度破れた扉は、あとはいとも簡単に崩されていくだけだ。ヘザーは隠れた木箱の隙間から外の様子を窺おうと目を凝らす。

 外にいる人影は、見えているだけだと四人。皆、見かけは男に見える。格好はお世辞にも清潔だとは言えず、薄汚れた衣服は所々が継ぎ接ぎになっていた。


 がやがやと何かを喚いているが、それが何を言っているのかヘザーには分からなかった。訛りが酷いこともあるが、彼女にはあまり耳馴染みのない言語だったせいだ。

 彼らは時折歓喜の声を上げながら次々と木箱を外に下ろしていった。まだ、ヘザーがいることには気づいていないようだ。しかし、木箱を小気味よく拾い上げていく彼らがそこに人間がいることに気が付くのは時間の問題。


 生きた心地がしなかった。

 久しぶりに命の叫びを思い出したのに。あっという間に手のひらを返されたような最悪の気分だった。


「おい‼」


 ヘザーのすぐ近くに迫った男の声が目の前で響く。思わずヘザーの肩がびくりと跳ねあがった。


「見ろよ! 女がいるぞ」


 男はヘザーを隠していた木箱をあっさりと脇に避けて彼女の姿を仲間に見せる。襤褸布で半分顔を隠したヘザーを見た仲間たちが次々に口笛を鳴らす。顔がちゃんとは見えなくとも、か細い骨格で性別を判断したらしい。


「こりゃツイてるぜ。大仕事の褒美に慰めてくれよ、嬢ちゃん」


 そのうちの一人がニヤニヤと笑いながらヘザーの腕を引っ張った。

 恐怖で声は出なかったが、ヘザーは必死に抵抗して男に引っ張られる腕に力を込めてその場に留まろうとする。けれど、何日もまともな栄養を取っていなかった彼女に残された力はない。もう一人の仲間に反対側の腕を掴まれ、ヘザーはあっけなく荷台の外に出された。外に出れば、やはりそこに衛兵の姿はない。代わりに、男たちのものと思われる馬車が二台、近くに停まっていた。


「や、やめてください……ッ」

「ああ? 何言ってるか分かんねぇよ、嬢ちゃん」


 やはり彼らに言葉は通じないようだ。男の一人に抱えられたヘザーは、彼の腕の中でじたばたともがいてみせる。男はそんなヘザーの抵抗を笑い、自らの馬車の荷台に彼女を乗せようと、先に載せてあった麻袋の上に彼女を降ろした。


「怖がることねぇよ。きっと楽しいぜ、俺たちとの旅は」


 男はヘザーの上に覆い被さるようにして膝をついて跨った。彼女の縛られた手首を彼女の頭上に持っていき、震えるその手を片手で押さえつける。ヘザーの両手はごつごつとした麻袋の感触に埋められていく。


「はなして‼」


 彼が言っている言葉が分からなくとも、何をしようとしているかはヘザーにも予想がついた。被った襤褸布が視界を遮り、彼らの顔をはっきり見ることはできない。布隙間からから覗いた一瞬に、彼の右眉の上に切り傷を縫い合わせた痕が見えた気がしたくらいだ。

 どうにか逃げようとする彼女を押さえつける彼もまた、ヘザーの顔は見えていなかった。暴れるヘザーをただ笑ってみていた彼もそれに気が付いたのだろう。ふと、彼女の顔を覆う襤褸布に手を伸ばす。


「うわぁっ‼」


 襤褸布が彼女の頭から剥がされた瞬間、男は大声を上げてヘザーから仰け反るようにして離れていった。


「おい! これ見ろよ。こいつ」


 まだ木箱を運んでいた仲間に声をかけ、彼はヘザーのことを指差す。まるでバケモノを見つけたような反応だった。


「なんだ?」


 仲間たちも彼の異様な様子が気になったのか、木箱から手を離し、露わになったヘザーの姿を囲むようにして眺める。

 長い間食べ物を口にしていない不健康な身体。血の気が薄く、腐ったような肌の色。おまけに頭は傷だらけで、下手な芝刈りをされたかの如く醜い坊主姿。その下に見える澄んだ空色の瞳が、彼女の形貌に妙に不釣り合いな印象を与える。


「うわっ。こいつ、絶対に病気だろ」

「アブねぇよ。変なもん移されたらたまったもんじゃねぇ」


 ヘザーを目にした男たちは、一斉に顔をしかめて怪訝な声を出す。


「そうかぁ? でも、女は女だし。変わんねぇよ」

「馬鹿野郎。お前がくたばっても俺たちは助けないからな」


 ひとりだけ、ぽかんとした顔をして首をひねる者がいた。すぐに隣の男に窘められたが、彼は何が駄目なのか未だに分かっていない様子だ。

 自分の姿を見るなりどよめき、瞳に恐怖の色を浮かべた男たちを見たヘザーは、咄嗟に大袈裟な咳をしてみせた。

 すると男たちの表情はますます不快感を示していく。やはりそうだ。きっと、彼らは自分の姿に得体の知れない悍ましい気持ちを抱いたのだ。

 もう一度、ヘザーは痰の絡んだ咳をする。男たちはヘザーから距離を取り、面白いくらいにサーっと引いていった。


「おい。こんなの早く降ろせ。不気味だ」


 男の一人が怒号を飛ばすと、ヘザーを荷台に乗せた男が彼女を乱雑に地面に落とした。泥に顔面を打ち付けそうになったが、ヘザーは寸でのところでどうにか手をつく。雨を含んだ土の匂いが目前まで迫る。


「さっさと回収して、ここから去るぞ」


 男たちはヘザーを放置したまませっせと足を動かし、瞬く間に木箱のすべてを自分たちの馬車に詰め込んだ。

 馬に鞭を打ち付け叩き、男たちの馬車は逃げるようにして走り去っていく。少し前まで雨が降っていたのだろう。ぬかるんだ地面を蹴る蹄が泥の塊を容赦なく散らす。


 取り残されたヘザーは、手を泥につけたまま遠くなっていく馬車を見つめていた。視線を移せば、さきほどまで自分が乗っていた王国の馬車が見える。荷台は空っぽで、半壊していた。

 彼らは盗賊。それは間違いないだろう。

 物の価値があるのか否かを判断する前に、何から何まで根こそぎ奪い去っていく盗賊たち。そんな彼らにも、自分は捨てられたのだ。


「…………ふふ」


 思わず声が洩れ出た。

 ヘザーは肩を震わせたまま自らを嘲って嗤う。何も面白いことなどない。笑う気力など残っていないはずだったのに。

 彼女の意思とは裏腹に、乾いた声だけが空気に溶けることもなく宙に浮き上がっていった。


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