G-20 5426D

 翌、4月16日。

 感染者数は昨日から700人も増加して、にわかに世紀末とも騒がれ出した。俺はといえば家の中で、事態の好転を祈るほかなかった。外にすら出てはいけないのだから。


『緊急事態宣言 全国に拡大』

『道庁もこれを受けて決断か』

『外出を厳に自粛せよ』


 情報サイトを何度も往復しては、虚しく打ちひしがれる。その繰り返し。パンデミックのせいで何もかもが止まっている。人の流れ、経済、日々の営み。終着点へとようやく走り出した大仕事だって、中途半端に止まったままだ。本来なら今頃は、石狩月潟の駅には「ありがとう」の文字が飾り付けられているはずなのに。


「どうすりゃ……いいんだよ」


 救いを求めるように、窓を開ける。

 強烈な風が吹き込んできて、部屋の紙束を生暖かく舞い上げる。


「……春一番、か」


 飛び散ったたくさんのポスター。"2020.5.6 札沼線ラストラン!"と記されたそれも、町中に貼り出すはずだったのに。


 遠く、カタコトと音が聞こえる。

 まだ雪の融け残る一面の荒野を、一両の汽車がまっすぐ横切っていく。


 "ずっと、みんなの中に札沼線が残り続けたらいいな"


 澄み渡る青空。人影ひとつない外の大地を、ただひたむきに駆けていく。

 その車内は相変わらずガラガラで、誰も乗っていないのはいつもと変わらない。少しだけほんわかとする。時を止めたようなこの世界で、札沼線だけは日常に取り残されていた。


「はは、お構いなしか」


 窓枠に肘をついて、ため息をついた。その白と緑の単行列車は、こんな滅茶苦茶な世界に敷かれた不動のレールをしっかりと終点目指して踏みしめていく。その有様がどうにも羨ましかった。


 ピロリン、通知音がひとつ。

 ポケットからスマホを取り出して、画面を開いた。



 "JR北日本 発表……現在"

 緊急事態宣言を受け、「送別会」を含めた一切のイベントを中止。札沼線は、明日10時ちょうどの新十津川発石狩東別行・5426D列車を以て、最終営業とする。



 風が凪いで、ぽろりと手からスマホが滑る。

 画面は遠ざかって、地面に落ちて転がって、ぽちゃんと下の用水路に落ちた。


 視界が霞んで、意識が回らなくなる。失神なんて初めてのことだった。

 春風に靡くカーテンのもとに、俺は昏倒した。







 時に、世界は余りにも残酷だ。






「……?」


 白い天井。

 見知った景色は自宅の部屋で。まるでただ一晩寝ていただけのようで。おそるおそる置き時計へと目をやった。


 " 4/17 10:30 "


 家を飛び出た。




「かはぁ…っ、はぁッ…!」


 頭にちらつく不要不急の文字を振り払って、ひたすらに走る。


「まだ、まだ間に合うっ……!」


 石狩月潟10時49分発。断じて不急なんかじゃない。


「あと、15分ッ。追いつけぇっ!」


 ここを曲がってまっすぐ下りて脇道を行けば、石狩月潟駅。この町で生まれ育って17年、当然のようにあり続けた駅。断じて不要なんかじゃない。


 連絡はもう取れない。スマートフォンは昨日落としたのだ。この手にあれば電話の一本くらい――いいや、無駄な幻想だ。頭ではわかっている。あの機械ひとつあったところで、きっと何も変わらない。もうまもなく全てが終わろうとしているのだ。俺たちを結び付けていたのは最初から最後まで、たった二条のレールだけだった。

 だから地面を蹴るのだ。腕を振って、全力で。



 5月6日のラストラン。やるべきことを全部成し遂げて、完璧に整えた大舞台には、俺が辿り着く答えがあったのかもしれない。それを以て終わらせることができたなら、どれだけ良かったことだろう。


 ただそれだけでよかった。

 そのためにここまでやって来た。


「なのにっ……!」


 疫病の拡大。霧散した「送別会」。パンデミック下で、最終列車に観光客が集まらないようにするための措置。それは、悪態ひとつすら付ける余地のない最善の判断だった。

 そのは、あまりに合理的で――どこまでも理不尽だった。


 俺たちのあの日々は宙に浮いて、結末を見失う。この感情を向ける矛先すらなくなった。もう真っ暗だ。


「もう……わかんねぇよっ!」


 闇の中の藻掻くように、溺れるみたいに走った。




_______

 石 狩 月 潟いしかりつきがた

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⇐ 知来乙 ❘ 豊ヶ岡 ⇒




 あの青い屋根が見えた。汽車はまだ来ていなかった。

『石狩月潟駅』の五文字は、いつもと変わらず少し掠れている。正面の古ぼけた扉を開ければ、中途半端に飾り付けられた待合室が寂しく広がっていた。

 "次の改札は 石狩東別行き"――吊り下げられた案内札は、粛々と最後の役目を果たしていた。


 出札口を抜けて、がらりと硝子戸を引く。

 髪をかきあげる東風。屋根もない粗末なプラットホーム。

 もう飽きるほど見て久しいその情景。


 その端くれに、たったひとつ人影が佇んでいた。



「……」



 呆然とする俺へ、ゆっくりと少女は振り返る。

 線路を一本挟んで、俺たちは向き合った。


「来てくれると思ってたよ、中ノ岱くん」

「……どうして」

「だって、言ったじゃない」


 桜咲くにはまだ遠いこの北の大地。

 枝ばかりの木に囲まれた小さなホームに、ぽつり、少女は待っていた。


「かえで、札幌に出るの」


 白い標を見上げる彼女――『石狩東別・札幌 方面』の矢印は静かに立っている。


「楽しかったよ」


 空は蒼く、高く、どこまでも澄み渡る。


「満たされたよ」


 馬鹿みたいに生温かい春風が、二人の頬を撫でる。


「だから……もう、何も言わないで」


 少女の言葉に俺は拳を握り締める。その願いはあまりに残酷だ。

 このご時世で、仕方ないのは分かってる。どうやったって、どうにもなりやしない。この一時くらい悔恨は口にしたくないと、そう言うのだろう。


「……言わねえよ」


 俯いて、俺は歩み出す。緑色の踏み板を一歩、線路を二歩。

 跨いで越えて、ぐちゃり、融け残る雪を踏みしめる。


 何にもなれなかったこの感情は、ぐちゃぐちゃのまま。終着点を失って、その名前を得ることもない。もう言葉になることはないだろう。

 だから彼女の願いはきっと叶ってしまう。


 ピィィィィィ――!


 響き渡る汽笛。彼女は目を伏せて頷く。気づいてしまったんだんだろう、俺はなにも言えないということに。


 ヨボヨボの線路の向こうから単行列車が駆けてくる。

 最終日だというのに、いつもどおり閑寂とした乗降場だった。


「……でもね、これが最後だから」


 ふたりぼっち並び立って、少女は呟いた。


「中ノ岱くん」


 直後に列車が滑り込む。

 びゅう、と一陣の風が吹いて、その栗色の髪は靡く。


「出会ってくれて、ありがとう」


 ぎり、と奥歯を噛み締める。

 俺が何も伝えられないって分かっていて、それを言うのは卑怯だろう。

 それきり少女は『札幌方面乗車口』と書かれた看板のそばへと歩み出す。


 プシュゥゥ、とドアが開いた。

 東別行きの最終便はガラガラだった。


「……乗らなくて、いいのか?」


 立ったままの少女に、ぽつりと声をかける。


「そうだね。行かなくちゃ」


 透明な笑顔を見せて、列車のステップに白い足が掛かる。

 最終列車は戻らない。果てしない線路の彼方へ旅立つのだ。

 俺は思わず手を伸ばしてしまう。


「――ッ!」


 碧水楓は振り返る。

 そのまなじりに溢れるくらいの涙を湛えて。




「中ノ岱くん。初恋でした……!」




 ピィィィィ――ッ!!


 呆然とした俺を醒ます、けたたましい汽笛。

 気づいた時には既に遅く。


「……さようなら」


 ガラガラガラッ!


 あまりに切ないその微笑を、緑色の扉が勢いよく遮る。窓越しとなったその姿は、エンジンの唸り声とともにプラットホームを滑り出した。



 走った。

 乗降場のコンクリートを蹴って。

 板切れみたいな階段を飛び降りて。

 その栗毛を窓の向こうに追い求めて、

 線路脇を走った。


「はぁ、はァっ!」


 まだ何もかもが終わっていない。

 必死に土を踏み飛ばして、前へ、前へ。

 やり残したことだって、伝えそびれた言葉だって、いくらだってあったはずだ。けれどその正体を知る前に、最終列車は行ってしまう。


 ぐんぐんと加速していくほどに、差が開いていく。

 届け、届けとひたすら俺は――。


「ぅっ?!」


 木の根に足を取られて、地面に倒れ込む。


「がっ、は…ッ!」


 押し潰されるように肺の空気を吐く。カタン、カタタン――遠ざかる鉄輪の音は、無様に残酷に響き渡る。


「ぐぅ……ッ!」


 2020年4月17日。

 石狩月潟10:49発の5426D列車は、終着の石狩東別を目指して、南へ、南へ。淡い尾灯テールライトの赤を残して、線路の彼方へ。


 85年間、石狩の大平原を駆け続けた札沼さっしょう線。

 その軌道が軋むことは、もう二度となく。


 この碧空に、再び汽笛が響くこともなく。


 あの日々も、戻らない。

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