G-19 力を貸して

 一本、もう一本。

 幾たびと、ボールを衝いて走り込む。


「……くっそ」


 思ったところに足が出ない。これで、何度目だろう。

 インターハイ出場を懸けたあの日も、これで失敗した。


「雨龍、キレが鈍ってる」

「わかってるっ」


 足先を掻っ捌いて、もう一度懐へ潜り込む。


「ぐぅっ!?」


 するり。今度こそ抜いた。

 一歩、二歩、ここまで。ありったけの脚力をバネにして、空中へ飛びあがる。


「っらぁあッ!」


 掌底から放ったボールは、弧を描いてゴールへ飛んでいく。

 カンッ! ぐるり、ぐるり。ボールは輪の上を二周して、ぽとりと脇に落ちた。


「……っ」


 自分の手を見つめて、立ち竦む。


「雨龍……お前、何かあったのか」

「何もないです」


 そう、自分の身には何もない。ずっと頭をチラつくのは、ある冬の日のこと。試合を終えた帰りに、公会堂の前で遭遇した連中のことだ。


(なんで……あんな顔してんだよ)


 決勝で負けたときのオレたちと同じ顔をしていたのだ。

 文化部は、もっとほんわかとしたものだと思っていた。だから、想像とはかけ離れた感情の濁流を目にして凍り付いた。

 それに、碧水楓のあんな姿は初めて見た。学校で見せるそれとはかけ離れた表情と声が、オレの脳裏から離れなかった。


「……なんだよ、交通部って」


 誰にも聞こえないように、呟いた。






___________

【札沼線 ごあんない】

 石狩東別 - 医療大学 - 石狩金沢 - 本中小屋 - 中小屋 - 月ヶ岡 - 知来乙 - 石狩月潟 - 豊ヶ岡 - 札比内 - 晩生内 - 札的 - 浦臼 - 鶴沼 - 於札内 - 南下徳富 - 下徳富 - 新十津川

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄






「……」


 部屋の隅に座り込んで、ただ何もしないでいる。

 あの冬の日以来、景色は何も変わっていない。きょろきょろ見回しても、特に汚れている様子もない。手入れだけはこまめにされているらしい。


「……あはは」


 一瞬視線が重なって、困ったような笑いが漏れる。

 俺は言葉に詰まって目を落とした。静寂と時折の笑顔。ここにずっと求めていたものなのに、これじゃない。こんなのじゃなかったはずだ。

 この沈黙は決して心地の良いものではなくて、パチ、パチという待合室のストーブと、カチ、カチという時計の音だけが響いている。それはまるで俺か彼女に次の言葉を急かすようで、記憶に眠るあの暖かな静けさとは全く似つかない。こんなことなら、無音のほうがよっぽどいい。

 そして今度はこつ、こつと音がする。小窓から覗く待合室には駅員さんが出てきて、案内板を『浦臼行き』へと掛け替えた。


「行くか」


 俯いたまま、押し出されたように出てきた言葉だった。

 ばっと振り返って、少女は俺を見上げる。中途半端に伸ばしてしまったその手が、俺の裾に届かないくらいの距離で固まって、そのまま垂れ下がる。


「……っ」


 訴えるその目には、あぁ、敵わねえな。


「だから、行くか。プラットホーム」

「!」


 靴を履いて部室を出ると、あたふたと碧水さんも準備をして飛び出る。

 ドアの後ろで待っていた俺を見て、ふと彼女は零した。


「……待ってくれてたんだ」

「そりゃあな」


 いくらだって待つさ、時間が待ってくれるのなら。そうしたかった、いつまでも留まっていたかった、4人で、ここに。けれど、時の流れはそれを許さない。ただ一点の終わりへ向けてひたむきに、レールの上を駆けていく。

 ガチャリと、手に持ったままの鍵を差し込む。


「……その鍵」

「部長から引き継がれたんだ」


 そういえば、と俺は振り返る。


「どうやって部室に入った?」

「駅員さんに借りたの」

「借りた?」

「この扉の前で立ち竦んでたらさ、すっ、と鍵だけ……ここから」


 彼女が手を置いたのは、駅の窓口の取引台。

 カーテンが閉め切られていて、使われなくなってから久しいようだ。それでも内側には光が灯っていて、たった一人だけこの駅に務める駅員さんがいる。


「……優しいんだな」


 今になって俺は知る。無愛想なおっちゃんだと思っていたけれど、それもまた悪くない距離感だ。

 改札を抜けて、硝子戸を開け放つ。吹き込む風は寒々しくて、春の気配なんて微塵も感じやしない。


「次のは……浦臼行き、だっけ」


 碧水さんはひとりごちて、白い木標を見上げる。プラットホームに立つ一本の木標には二つの矢印がついていて、左に『石狩東別・札幌 方面』、右に『浦臼・新十津川 方面』とある。


「あぁ。浦臼で折り返しだ。終着の新十津川までは行かない」

「全部乗りたいな」

「無理だよ。さすがに知ってるだろ」

「うん、有名な話だもんね。終点の新十津川には、汽車は一日一本だけ」


 午前十時の始発列車が最終列車。それ以外の列車は全部途中の浦臼で引き返すから、日本で一番終電の早い駅だ。


「乗り切りたかったなぁ」

「もう遅いよ」


 茜色の空を仰いで俺は呟く。そこに届く列車はとうに尽きているのだ。

 うん、と碧水さんは頷いた。


「もう――終点には行けないんだね、私たち」


 何も答えられなかった。

 浦臼という代替を部長に用意してもらって、それでも俺は足踏みする。本当の終着点を失ってしまった俺たちは、どこへ辿り着くのだろう。






_______

 石 狩 月 潟いしかりつきがた

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⇐ 知来乙 ❘ 豊ヶ岡 ⇒






 エンジンが唸れば、駅名標がするりと滑り出す。

 ぺらりと、紙をめくる音がする。雪景色を流す車窓の隅で、碧水さんはセロテープだらけのノートを眺めている。


「……それ、どうしたんだ?」

「うん。置いてあったの」

「?」

「付箋付きでね。北竜くんの」


 俺は目を丸くした。


「……あいつ」


 その丁寧な継ぎ目ぎ目は、確かに北竜の器用な手先を彷彿とさせる。あの日雪の上に散らかったものを一片のこさず丁寧に拾い集めて、おおかた越す前に、あの駅のあの部室で修復したのだろう。


「重ぇよ……」


 なんて置き土産だと溜息をつく。いいや、だからこそ彼はあの場所に置いて行ったのかもしれないな。持っていくには重すぎる。


「なんつってた?」

「?」

「付箋。あいつ、書き残してったんだろ」


 碧水さんは微笑んで、それからノートで顔を隠す。


「ひみつ」


 そう来られちゃしょうがねえ、俺は息をついて窓へと顔を逸らす。ぎくしゃくとした沈黙はまだ流れるけれど、先程よりかは悪くない。時折揺れる汽車と、メガネをかけて読み耽る彼女の姿はどこか俺の心を落ち着けた。


「……はじめて、だったんだよ」


 ふと漏れたようなひとこと。続きの言葉が俄かに怖くなって、俺は咄嗟に返事をする。


「あぁ、俺も碧水さんも定期は月潟から医療大学だしな。こっちのほう来ないもんな」

「……」

「月潟からこっちに行く用事なんてなかなかないし」


 陽は山の向こう側に沈んでも、空の明るさだけは残るそんな黄昏時。二人の他には乗客もいない車内の窓枠にその顎を乗せて、彼女は淋しげな横顔を見せる。


「もしかして、こっち側に転校?」

「そう思う?」

「……なわけないよなあ」


 北にはいかず、といえど南の東別にも通えない。となれば答えは一つで、俺は視線を下げてしまう。


「……引っ越すのか」

「うん。親戚が札幌にいて、そっちで暮らすことになるよ」

「決まったんだっけ、転校先は」

「ん。編入試験も無事に通ってね」

「そうか」


 おめでとう、そう言おうとして息が詰まった。それを言う資格が果たして俺にあるだろうか。開けたままの喉は結局何を発することもできずに、渇いてゆく。


「私ね」


 おもむろに、碧水さんは言った。


「汽車のあるうちは、あの高校に通っていようと思うんだ」

「……そっか」


 一面を銀色に染めた大平原も輝きを失って、ぽつりぽつりと灯火が流れていく。段々と昏がる空には明星が瞬いた。


「私のこと、避けてた?」


 目を見開いた。顔を上げて見えた彼女は、困ったように微笑んでいる。


「避けてないよ」


 こういうときだけ、軽々しく口元は回った。


「そうかな。冬休み明けてから、最初に戻ったみたい。汽車の中でこうやって向かい合って座るのも久しぶりだよ」

「いやだって、もう部活もないし。朝から部室寄る必要もなくなったし」

「理由がなくちゃいけないのかな」


 俺は窓の外へと顔を逸らす。それでも彼女は言葉を継ぐ。


「待合室で落ち合うのも、ホームに並んで一緒に息をつくのも。汽車の中でどうでもいいばかみたいな話して、そこに北竜くんが合流して学校に行くの。全部、必要があってやってたのかな」

「いまは……忙しいんだよ」


 俺はうそぶいた。


「札沼線のラストランを一緒に4人で見送ろうって、部長に言われて」

「うん」

「だからせめて、華やかに送り出すために何か企画しようとしてるんだ」


 決して言葉が途切れないように、ほつれないように慎重に、この詭弁を紡ぐ。


「廃止は5月7日。だとしたら最終営業は5月6日……ゴールデンウィークの最終日なんだ、沿線だけじゃなくて全国から人を集められる」

「お別れ会みたいなのするってこと!?」


 ぐっと碧水さんは身を乗り出した。


「めっちゃいい。見送りの人がたくさんいれば盛り上がるよ!」

「だろ? ただ治安回り要注意になるな。鉄道関係のイベントは客層のマナーがいいとは到底言えない」

「あー、それは、そうかもだけど……」


 碧水さんが黙り込んだ。一年前なら「そうなの?」なんて聞き返されていただろう。かの碧水楓とて、一年もあんな場所に浸っていたら通ずるようなるものだ。俺は思わず笑ってしまう。


「まぁそこらへんは後で考えるとして……お別れ会自体は開催出来ると思う。JRにとっても町にとっても、利益になるだろうし」

「……ちゃんと希望があるんだね」


 その言葉に詰まり、一拍遅れて俺は頷いた。


「最後くらいちゃんとしなきゃ、顔向けできねえよ。それこそ、臨時列車の運行くらいはでかいことをしたい」

「ふふっ」


 不意を打つように零れた碧水さんの笑い。思わず俺は言葉を継ぐ。


「例えば新十津川への列車を増便するとか。ツアーとか組んで、特別装飾のイベント列車を札幌から直通させるとか」

「可愛く飾りつけたいなぁ」

「出来ると思うぞ。言えば専用列車とか使えそうだし」

「有終の美……になるのかな」


 その瞳の輝きは、不思議と全くキレイなものに思えなくて。苦し紛れに俺は吐く。


「5月は開花前線がようやく届くころだし、ちょうど桜が咲いてるはず。ノロッコ号とかをお花見列車にすることだってできそう」

「ノロッコ! 乗ったことあるよ私。カウンターみたいなのあったよね」

「軽い食べ物とか振る舞えそうだよな。あとは写真とか飾るのどうだ?」


 吐く。吐き続ける。


「開通から今までの記録とか銘打って窓枠にでもはめ込んで、写真館みたいに」

「たくさん出てくるね、アイデア」

「おう。最後らへんには部長とか含めて『札沼線を記憶する会』とかいって俺たちの写真載せたりな」


 俺も碧水さんが互いにアイデアを出し合って、いろいろ軽口を叩き合って。昔と同じはずなのに、全然そんな気がしない。具体的な話をしているはずなのに、全部上滑りしているようで、言葉を繋ぐほどに喉が絞まっていく。


「ふふ」


 なんだよ、その諦めたような笑顔は。

 それを塗り潰すために俺は口を開いて、けれどもう何も出てこない。全部吐き尽くしたみたいに、ぱたりと止んでしまう。ふざけんな。こんなときに限って役に立たないこの口が憎らしい。黙りこくった俺をまっすぐに見据えて――碧水さんは呟いた。


「なんだ……部活、あるじゃん」


 だらり、俺の腕から力が抜ける。


「ねえよ」


 目を伏せて、じり、と座面と車体の隙間に指をねじ込む。


「これは俺の仕事なんだ」


 カタタン、と列車が揺れる。シュイン、シュインと鉄軌を擦り立ててカーブを切れば、俺たちは内側に傾いて、口の端からぽろりと感情が漏れる。


「徹頭徹尾、俺のための掃除なんだ。人は巻き込めない」

「また……ひとりでやるんだ」


 俯く彼女に、ぎゅっと俺は手を締める。


「ちゃんとやらないと、たぶん俺はこうやって引きずる。いつまでもずっと過去を渇望する。それは嫌だ。だから俺は俺の為にケリをつける」

「だったら」

「でもそれは4人のためじゃない。俺が前を向くためなんだ。俺のペースに碧水さんたちを巻き込むほど傲慢にはなれないし、その勇気だって持ち合わせちゃいない」


 ピーンポーンと、古めかしいブザーが響く。『次は於札内おさつないです。運賃は運賃表示機をお確めの上、釣り銭の要らないよう……』――続く放送も、耳に入らない。彼女が掠れたような声を出したから。


「それでも……それは、部活だよ」

「百歩譲って部活でもいい。部長は卒業して、北竜も引っ越した。どのみち俺しか残ってない」


 碧水さんは目を見開く。


「だからちゃんと終わらせる。札沼線とともに、この部活も」

「……そっか」


 ぷつり。それきり、彼女は沈黙する。反論が途切れたのがちょっとだけ意外で、俺は顔を上げた。


「かえでだって、交通部なのに」


 目が合って、一言目。


「……入部したのか?」

「うん。1月に出したよ、入部届」

「そうだった、のか」

「でもそれってさ、そんなに重要?」


 碧水さんの瞳が揺れる。


「入部届のあるなしで、何か変わるの。私たち」

「いや、そういうわけじゃ」

「だったら、なんで勝手に終わらせるの!?」


 俺は唇を噛む。こんなこと死ぬほど恥ずかしくて口にしたくなかったけれど、言わないわけにはいかなくて。


「人を巻き込んで責任を取れる気がしない。またあんな風に敵わなかったらなんて、思うだけで厭になる」


 なのに出てくるのは、遠回りの言葉ばかり。


「人に合わせるほどの余力なんて多分ない。それくらい、俺にとってはほとんど全部だった。碧水さんが思ってる以上に、ドン引きするくらい、俺は執着してたんだ」

「かえでもそうだよ!」

「度合いが違うよ。俺にとっては全部でも、碧水さんは交通部ここの外にも居場所がある」


 言いかけて、はっと留まる。これは最悪の侮辱だ。


「決めつけないでよ……っ」


 碧水さんに睨まれるなんて、初めてのことだった。


「どうでもいいことばっか言って、線引きして、勝手に引き下がって!」


 がたり、音を立てて立ち上がると制服のスカートをくしゃりと掴んで、俺の瞳をまっすぐ見る。答えられずに、黄ばんで澱んだ窓へと視線を背けた。


「中ノ岱くんのそういうとこ、ほんっとに!」


 彼女の声はむせ返ったようにくぐもって、消え入るように沈んでいく。


「いやだよ……」


 キィィ、と列車が止まれば、合わせたように碧水さんは歩みだす。

 ガラッと開く前のドア。とぼとぼと遠ざかる背中。


「っ……」


 記憶がフラッシュバックする。あの冬の日と同じだ。

 立とうとして、中途半端に腰が浮く。俺に手を伸ばす資格があるだろうか。


 "あの夏を……私物化しないでください"


 部長の声が脳裏によぎる。また俺は逃げるのか?

 チャリ、と運賃箱に小銭が落ちる音。タラップを降りる足音が途切れば、プシュウ、とブレーキが緩解する。列車はいまにも出ようとエンジンを唸らせた。

 ぐっと俯いて、腕に力を籠める。


「……やるべきことが」


 ばっと顔を上げて、小走りで前へ。

 片手を突っ込んだ財布には、万札と4枚の十円玉。舌を打って諭吉を引きずり出すと運賃箱へ叩き込む。運転手は唖然としたけれど、俺を呼び止めることはしなかった。


「見えたんだろ、やっと――!」


 タラップを飛び降りて、ホームを蹴って、駅舎へと跳ね降りる。

 ボロボロに錆びた手摺を引き寄せて、引き戸を開けて、前へ。

 碧水さんの背を捉える。


 "これで……おしまい"


 終わらせるかよ、こんなところで。手放してたまるかよ。

 零れたものは掬えないのに――それでも俺は手を伸ばす。


「っ」


 掴んだ彼女の手首は、折れてしまうんじゃないかと思うほど細かった。びくりと震えたけれど、振りほどこうとはしなかった。



「……小心者だよ」


 我ながら、馬鹿みたいな告白だ。



「だから、自己責任っていう言い訳が利く領域に逃げようとした。碧水さんを、部長を、北竜を信じられなかったわけじゃない。任せて託して、その末に宙ぶらりんになったとき、自分の過失を意識するのが怖かった」


 頭ではわかっていても、罪を感じてしまうほどに勇気がなくて。


「『みんな』なんてクソデカい主語、俺が一番恐れてたんだ」


 だからこういう肝心な時に、自分の殻に籠ろうとした。


「だから……頼りたい」

「っ」

「虫の良い話だなんてことはわかってる。もちろん自分なりに乗り越えようとは足掻いているつもりだけど、それでも、仲間として助けてくれるのなら」


 冗長になってしまった言葉を切り落とす。これ以上は余計なことを口走ってしまいそうだったから。


「すまん」


 代わりに、とても簡潔に。


「俺に、力を貸してくれ」


 言い切った俺の腕は思わず力が抜けて、彼女の手は離れてしまう。


「……遅いよ」


 碧水さんの声は、震えていた。

 そうだよな、もう遅い。もっと早く人に背を預けられていたら結果もまた違ったのだろうか。でもそれができなかったのが俺だ。垂れ下がったままの二人の手は、繋がることもない。息をついて、引き下がろうとしたそのとき――ぐっと引き寄せられる。


「!?」


 俺の胸元を握るその手は、かすかに震えていた。


「もっと早く言え……ばか」


 ぽつ、ぽつと雫が滴る。


「寒かったよ」


 平原にぽつんと佇む小屋みたいな無人駅の薄暗いコンクリートに、丸い染みがひとつ、ふたつ。


「ずっとひとり、あの部屋で」


 俺は目を見張る。学校じゃ誰も見たことがないから。


「かえで、待ち続けたんだよ……っ」


 眦にいっぱいの涙をたたえた、碧水さんの姿なんて。

 俺は無言で、控えめにその肩を寄せようとすると、ぶつけるように彼女は俺の胸に頭を埋めた。そうして形にならない声で泣きじゃくる。


「……すまん」


 謝罪の言葉を重ねるうちに、宵の明星が翳って、ぽつりぽつりと雫が落ちる。

 碧水さんの涙ではない。かといって、雪でもない。


「雨だ……」


 3月を控えた石狩平野の雪原に、少し早めの水滴が降りる。迫りくる春の足音は、どんな形であれ、終わりはすぐそこなのだと俺たちに囁いている。


「こりゃ……帰れねえな」


 石狩月潟駅のそれより二回りも小さいこの待合室から仰ぐ夜の雨空は、闇のせいか、はたまた湿度のせいか、少しだけ心地の良い静けさで。


「だいじょゔぶ……もう立でるがら」

「無理すんな、ほらティッシュ」

「帰れるよ……」

「いや、そうじゃなくてな」


 片手で財布をはたけば、落ちるのは十円玉4枚きり。

 俺は遠慮がちに、駅名標を指し示す。


_______

 於 札 内おさつない

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⇐ 鶴沼   ❘ 南下徳富 ⇒


「おさつ……ない」


 復唱して、碧水さんは固まる。俺は肩を竦めた。


「降りるとき慌てて万札ぶちこんじまった」

「……はぁぁ」


 長いため息の後に、また涙を漏らす。今度は安堵した表情で。


「そうやってどうでもいい言葉は、いっぱい出てくるのに。なんで……いつも」

「悪かったよ」

「……大嫌い」


 そう言いながら彼女は、俺の胸元を握り続けていた。







 ◇







『――繰り返しますが、クルーズ船で集団感染が発生しました』


 海峡を越えて遥か千キロ南に離れた港にやってきたその厄災を、このときは気にもかけなかった。


「はぁ……。また横浜港のお船の話か」


 まだ冷え込みの厳しいこの大地には関係ないとばかりに、テレビの電源を切った。

 明日と明後日は最終列車ラストランの記念品の手作り、しあさっては部室を含めた駅の装飾。なにせ仕事は山積みなのだ。


「そういやもう春節か。そこらじゅう中国語の観光キャンペーンばっかりだと思ったら……仕入れ時なんだろな」


 俺は苦笑した。この時期は鉄道だけじゃなくてそこらじゅうの町が必死だ。なにせ過疎化でロクに財源がないのだから。


「気候が寒けりゃ懐も寒いってわけか……さっむ」


 自分の持つセンスの無さに戦慄していると、連動してスマホも震えた。嘘だ。連動ではない。


「はいもしもし」

『あ、中ノ岱くん?』

「……どちらさまでしょうか」

『ひっどぉ。同じ部活でしょ』

「あなたに番号を教えた記憶がないのですが」


 最近スマホを買った。高3でデビューはかなり遅い部類だが、部室に行けばすべてがあった時代が去って、必要を痛感したのだ。


『昨日部室にスマホ持ってきてたでしょ?』

「はい」

『やっと買ったんだなって、適当に誕生日入れたらロック外れちゃって』

「ちなみに誕生日も言った記憶がありません」

『それくらい知ってるよ。それよりセキュリティ最悪だから。かえでが考えてあげよっか?』

「遠慮しておきます」


 俺のセキュリティより自分のモラルを気にしてほしいものだ。


『あっ、それより。お別れイベント企画、全部通ったって!』

「よっし!」


 机をバンと叩いて俺は立ち上がる。


『詳細はメールに転送するからちょっと待ってね』

「メールアドレスもご存知なんですね」

『でも不便だしライン始めてよ』

「そのうちな」


 ぶっきらぼうな俺の返事に、碧水さんはむくれた声を出す。


『ふーん。履歴も見たからね』

「シークレットタブを用いているのでアダルトサイトは出て来ないぞ」

『あだっ……!? そういうの知りたかったわけじゃないもん、ばか!』


 プツリと電話を切られる。嵐は去ったとばかりにメールを見てみると、確かに碧水さんから転送されてきたものが一通。迷うことなく俺はタップする。


「お、おぉ……。最終列車、通ってる」


 最終運転日の5月6日、新十津川を10時きっかりに出る文字通りの最終列車。

 地元だけじゃなく、全国から集まったたくさんの人々を乗せて浦臼、石狩月潟、医療大学、石狩東別を抜けて、札幌へ直通する臨時急行だ。


「……月潟から札幌へ、一本で行けるのな」


 叶わなかった電化存続の願い。それが通っていたら、そんなのは意味のない仮定だ。それでも渇望してしまうのが人間の性というもので、俺も例外じゃない。だからこんな風に、最後の企画で無駄な抵抗をしてしまう。


「行くか、部室」


 俺は立ち上って、支度をする。吸い寄せられるように足が向くのだ、二年間通い詰めたあの駅へ。


 家を出て少し歩めば線路が見えてくる。遠くからコトコトと単行列車がやってきて、俺を追い抜かす。煽られる風も心地よくて、あの夏には及ばないけれど――それは久々の感覚だった。


「おっそーい」


 青色の屋根の下で、一人の少女が手を振っている。そしてその隣に佇む人影を見て、俺は仰天した。


「……久しぶりだな、中ノ岱」

「雨龍くんにも来てもらっちゃった」






_______

 石 狩 月 潟いしかりつきがた

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⇐ 知来乙 ❘ 豊ヶ岡 ⇒






「こっち側って全然来たことなかったけど……こんななんだな」

「そりゃ札幌に住んでたらな。こんな田舎で悪いな」


 俺が言うと、雨龍は横に首を振った。


「そもそも、全然知らなかった」

「よく……来てくれたな」

「そりゃ、頼まれたらな」


 雨龍が横目に伺えば、くるりと碧水さんが振り返る。


「じゃぁ中ノ岱くん。仕事振るのよろしくねっ!」

「俺が振るのかよ……」


 溜息をついて、俺は雨龍に向き直る。


「状況はどこまで知ってる?」

「大体は教えてもらった。ちょっとだけ……自分でも調べたさ」

「……そう、か」


 少し意外だったもので、俺は目を丸くした。


「んんっ。で、本番の5月6日が最終営業日……札沼線のラストランだ」

「おう」

「で、この日に『送別会』と題して、お別れイベントがこの石狩月潟駅で開かれる」


 部室を、この駅を俺は見回す。古臭くて綺麗とは言い難い駅だけれど、たくさんの記憶が詰まっている。ここが駅務室だった頃。北竜が扇風機に当たっていた頃。部長が机で参考書に唸っていた頃。そしていま、雨龍と碧水さんと俺がいる。わけの分からない組み合わせだ。紆余曲折ありすぎて、ふと笑えてしまう。


「ここを飾り付けて、最後のお別れをすること。これが俺たちの仕事だ」

「……わかった」

「まずは寄せ書き台紙の製作か」


"2020.5.6 札沼線ラストラン!"――と記された大きな紙を広げる。


「こいつの四隅をいい感じに装飾して、いい感じの場所に張り付ける」

「漠然としてるな……」

「センスは任せる。なんでも構わん」


 そのまま雨龍に仕事を投げて、俺はポスターを張ることにした。


「あーそういや例の特別列車、碧水さんが装飾するんだっけ」

「そうだよ?」

「頼むぞ、ぜひとも全座指定に見合う豪華さで!」

「うわすごい熱量。かえでドン引き」


 雨龍が目を見張る。けれどその視線に、碧水さんは気づかない。


「てかなんで全席指定なの?」

「全席指定にすることで座席指定料金を徴収できるからだ」

「うわ、がめつ……」

「言うなよ。俺の懐に入るわけでもないし」

「ふふっ。中ノ岱くん横領とかしそう」

「しないが」


 軽快に飛び交う言葉は、ここに4人がいた頃を想起させる。彼女も懐かしそうに目を細めて、言葉を継いだ。


「けど、悪くないアイデアだよね」

「横領が?」

「違うよ。ダークサイドに堕ちるのは中ノ岱くんだけで十分だし」

「引きずり込んでやるぞ。で、何の話だ」

「全席指定のこと。着席保証になるもんね」

「さすが交通部員、よくわかってる。定員制限をかけられるから――」

「マナーの良くないファンの人にも対処できる、でしょ?」

「……あたりだ」


 ふふん、と碧水さんは胸を張る。

 雨龍は溜息をつくと、そっか、と一言呟いた。


(なんとか……なりそうだな)


 俺は内心安堵していた。卒業した部長や北竜にちゃんと招待状を出して、みんなで見送ることができそうだ。昨春からの交通部の落とし所を、どうにかつけられそうだった。


「……中ノ岱。お前さ」


 ふと、雨龍に話しかけられた。


「あの子のことどう思ってるんだ?」

「わからん」

「ごまかすなよ」


 けれど、本当に答えられないのだ。

 北竜に対する感情とも、部長に対する感情とも、また違う何かであることは確実だけれど――まだ何か名前を付けられるような形には、昇華していない。


「当日までには、決めとけよ」

「……努力するよ」


 けれど、きっとラストランまでには何かの形に成るだろう。

 関わるほどにぶつかって、歪んで、踏み入って、変わってきたのだ。この果てに何が待っているかはわからないけれど、興味はある。それが名前を持つに至ったならば――しっかり伝えよう。


 それがきっと俺なりのケリのつけかただ。

 あの日々の、終わらせ方なんだ。


 そんな確信だけはあった。










 2月末、欧米で急速に感染が拡大。


 3月上旬、全国の小中学校一斉休校。


 3月中旬、北海道全土の感染者が100人を突破。


 3月下旬、感染、全国で急速に進行。







 4月上旬、北海道が緊急事態宣言。


 これを受けて高校も閉鎖。この日から突如、自宅へ閉じ込められた。当然困惑もしたし、これからどうしようか途方にも暮れた。

 あまりにも急な出来事だった。


 イベントの自粛要請により、札沼線の臨時ツアーは全てなくなった。


 4月15日。国内の感染者は1万人に迫り、北海道でも医療が逼迫。外出は日に日に困難となり、最後の追い込みをかけていた最終列車企画も、最後に高校に行った日からまるで進んでいない。


 この日、JR北日本は公式見解を発表した。


 いわく、鉄道の利用は「三密」となり、危険であること。

 利用客の減少で、経営は一層厳しくなること。

 このため列車本数を大幅に削減すること。


 札沼線の最終営業日ラストランを4月24日に繰り上げて、同日から札沼線を「休止」とし、5月7日に廃止とすること。5月6日に行われる予定だった「送別会」は規模を縮小し、27日に沿線住民だけで実施すること。


 息も出なかった。


 企画は途上のままストップしてなにも準備ができていないのに、10日以上イベントが繰り上がった。このままのペースでは、最終運転ラストランには間に合わない。


 唯一の救いは、条件は付きながらも「送別会」の実施は確約してくれたことか。少なからず、俺たちには配慮してくれたのだと思う。

 俺だって考えたくもない。


 このまま、最後のけじめすら――……いや、もう語るまい。

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