G-21 慟哭の霙

 それからの記憶は随分飛ぶ。


 "ず…っ、ずず…。"


 どこかから思い出すのは、鼻水を啜る音。

 そうだ――あれから少し過ぎた頃だったか。


 最終列車があの駅を発って数日。廃止当日まで、札沼線は扱いとなった。汽車で通っていた数人の生徒が転校していった。月潟町からこの高校へ通うのは、とうとう俺一人だけになった。


『インターハイ中止』


 鮮やかに記憶が蘇ってくる。

 コロナという存在を俺以外の全員に初めて刻みつけたのは、その報せだった。


 教室の外を見つめていた。

 終礼のすぐあと。灰色の空だった。


 誰かが飛び込んできて叫ぶ――「インハイだけじゃない!他の大会も全部…!」――教室中を駆け巡る衝撃。悲痛の声。

 一足早く全てを失っていた俺は、耐えられなくなって、逃げるように教室をあとにした。こんな空気、もう二度と味わいたくはなかったのに。


 昇降口は、ようやく春が来たというのに肌寒かった。

 校庭に広がる光景は、嫌でも目に入る。


「うぅっ……」


 崩れ落ちる野球部の男たち。


「ぐす…、ずっ……」


 涙に暮れるバレー部たち。

 重苦しい曇天の下に、暗然とした校庭は広がっていた。


 ドン。


 背中を軽く突き飛ばされる。女子テニス部のユニフォームの二人が、肩を抱き合って俺の脇を通り過ぎた。ぶつかった俺のことなど当然視界に入らずに、赤い目を埋めながら立ち去ろうとする。


「っ、おい」


 俺は思わず声を出す。

 一人が振り返って、俺を一瞥した。


「……なんだ。文化部じゃん」


 そんな言葉が響いた。


「わかんないでしょ。正直、うらやましいよ。」


 茫然と立ち竦む俺を見据えて、また一言。

 彼女は顔をこわばらせて笑ってみせる。


「わたしもテニスなんか、にすればよかったなぁ……!」


 曇天に響き渡る、投げ棄てたような一声。


 口からは何も出て来ない。もう、何もない。

 二人は踵を返して、俺に振り返ることなく去っていった。その後ろ姿が酷く青々しく映って――俺は拳を締める。残されて、ただ一人。俯いて立ち尽くした。

 灰色に染まった俺の背に、ふとみぞれが降りる。


「っ……!」


 思わず空を仰いだ。

 重苦しい曇天からは季節外れのみぞれが降って、寒々しい北風が通夜みたいな校庭を吹き抜ける。夢も、未来も、希望も、そのすべてを奪われた少年少女の嘆き悲しみを、天から地まで哀れ悲しみ共鳴しているようだった。


「ざけ、んなよっ……」


 耐えられなくなって、駆けだす。

 頭を巡るのは、記事に貼り付いたたくさんのコメントだ。


 "ひどすぎる。インターハイという目標があってこそだったのに"

 "大人たちは「仕方ない」とか「やってきたことは無駄じゃない」とか薄っぺらいことを本人達に言わないでほしい"

 "去年悔しい思いして、今年の最後のインハイは絶対入賞してやるって毎日一生懸命練習して"


 確かに俺たちには、あんな眩しいくらいの青い汗はかけなかった。


 "私の3年間はこんなに呆気なく終わってしまいました"

 "まさかこんな終わり方なんて思ってなかった"

 "悔しかっただろうな"

 "勝ちたかった"


 俺たちの汗は、ひたすらに地道で、泥臭くて、錆臭かった。


『2020.5.6 札沼線ラストラン!』


 剥がれ落ちたポスターを蹴って、慟哭のみぞれに打ち付けられながら走る。

 最終列車が君を連れ去ったあの日。この空は、馬鹿みたいに澄み渡っていた。

 生温かい春風に頬を撫でられて、俺は忽然と一人残された。


「札沼線営業終了」――そんな題名の記事が脳裏をよぎる。


 "誰も乗らないんだろ。なのにのこせは身勝手だ。"


 コメントはたったの2件。


 "なんで田舎なんかに住むんだろうね。東京に住めばいいのに。"


 それっぽち。誰も見向きもしなかった。

 そして――もう誰も覚えていない。ここに、汽車があったことを。


「はぁっ…、はぁ…!」


 息を切らして顔を上げれば、『札幌方面』の文字がある。医療大学駅の、屋根付きの立派な2番ホームには札幌行きの電車が止まっていた。

 けれど。少し離れた吹きさらしの1番ホームに、いつもの汽車の姿はない。


「ただの、"休止" なんだろ? なぁ…!」


 寂しく佇む出発信号機は赤を灯していた。あの日からずっと同じ色。それが青に変わることは二度とない。帰りの生徒で賑わうはずの定刻、16時17分。そこには人影ひとつなく、ぐちゃぐちゃの氷水が積もっているだけで。


「くそ……っ!」


 掻き消された『月潟方面』の文字。

 もう使われることのない1番ホームの上で、俺だけがあの日に取り残されていた。





_______

 医 療 大 学いりょうだいがく

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 石狩東別 ❘     ⇒





 それから間もなくして、世界が時を止めた。

 自粛という名の外出禁止が始まり、俺は外界からシャットアウトされた。


 学校はなくなった。代行バスに乗ることも、駅に行くこともなくなった。ただひたすらに漫然と起きて、何時かもわからずに無気力に時間を潰して、眠たくなったら寝る。死に損ないみたいな日々をひたすら循環する。


 5月7日の午前0時。


 日付が変わったその瞬間、すべての終わりが来た。

 ネット上のありとあらゆる路線図、時刻表、乗換案内から、一斉に「札沼線」の文字が消え去った。札沼線関連のサイトの数々も、次々と見れなくなった。

 金属を破断する音が外から聞こえて、少しカーテンを開けると――『石狩月潟』と書かれた駅の看板が、取り外されているのが見えた。


 俺は目を伏せて、布団に潜る。

 外の世界がどうなってるかなんて、もうどうでもよくなった。






_______


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⇐    ❘    ⇒






 ずっと時を止めていた世界が、ぎこちなく動き出したのは夏だったか。

 分散登校という形ながら、なんとか高校が始まった。


 部活はなくなって、あの高校に俺は一人残された。もう放課後行くところもなくて、わけもないのに俺は、あの1番ホームに腰掛けていた。


 在りし日の姿は色褪せず、俺の中でひたすらに鮮やかにあり続けて。

 この錆びついたレールに織りなした日々はきっと、あいつらを乗せて、あの列車と共に戻ってくる。だから、きっと――そう切望して。

 日が沈むまで、いつまでも列車を待ち続けた。


「……?」


 蝉時雨。使わなくなったこのホームが茜色に染まる頃合い。

 ふと、人影が見えた。


「あれは」


 少し驚いて目をみはる。

 向こうもこちらを見つけたみたいで、歩み寄ってくる。


「よう」


 彼の会釈に、俺は問う。


「こんなとこで何してんだ。……雨龍うりゅう。」

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