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 ひとり、青い屋根の前に立っていた。


 走り尽くして上がった息を、北風が攫ってゆく。振り返る道を、僅かな街灯がぽつぽつと照らしている。広々としたその道に人影はない。ずっと奥に覗く国道だけに、行き交う光がうかがえた。それも当然かもしれない――ここがこの町の玄関口だったのは、遠い昔のことだから。


 時の流れから、雑踏から取り残されたように、ぽつんと立つ青い屋根。じゃり、と地面を踏みしめて、その古ぼけた硝子戸を開ける。


 誰もいない。

 久々に舞ったと思われる埃だけが、淋しげな返答を寄越した。

 少しばかり咳き込んで扉を締める。


 街灯だろうか。長年の風雨に黄ばんだ窓から差し込む橙色の光が、まぶしげに、いつかの記憶を思い起こさせるように――懐かしく足元を照らし出す。ここに差す夕陽の上でノートを捲る音。扇風機に涼む彼の声。あの机で唸る彼女の声。あまりに鮮やかに思い出せるものだから、思わず笑みが零れてしまう。


 それを掬ってくれる人影は、もうこの待合室にはいないのに。


 ストーブの火は落ちて久しく、時計の針は動かない。カーテンの降ろされた窓口と、色のくすんだ4月のカレンダー。一日一日丁寧に引かれた斜線は、17日の欄で途切れる。


『ラストランまで 19日』


 伝言板に貼られた数字のマグネット。床に散らばる8とか5とかは多分もう二度と使われることはなくて、その上に積もった埃には、暖かな橙色が差し込んでいた。

 夕陽みたいなそれに誘われて、改札の引き戸に手をかける。ガラリ、ぎこちない音を立てれば、つめたい空気が鼻腔を刺して、ほのかな眠気を吹き飛ばす。


「……!」


 だから気づけたのだろう、暗闇の中のわずかな青に。

 思わず硬直してしまう。出発信号機が青を灯しているのだ。


 カン、カン、カン――。


 踏切が俄に騒ぎ出す。呆然とホームへ佇んでいると、線路の向こうに光が見えた。


「……汽車だ」


 それは確かに見えたのだ。

 白と緑の単行列車。木々のざわめきに交じって話し声がする。


 "なに、ボクへのあてつけ?"

 "掃除班の鏡ですね"


 パンデミックが終わり、景色は徐々に日常へ戻る。


 "痛いです部長"

 "花火するよっ!"


 待ちに焦がれたあの日常へ、戻るのだ。


 "絶対に残そう"

 "夏が終わりますね"


 ひたすら追い求めた光を乗せて。

 3人の面影が見える。帰ってきたのか。


 "もう一度、あの場所で"


 思わず伸ばした俺の手は――空を切って。






_______


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 そして、全てが光と散る。

 剝がされた駅名標の枠組みだけが、風に吹かれていた。


「ぁ……」


 足元に横たわる赤錆色は、もう何も答えない。

 自分の手を眺める。その内には何もない。


「……はは」


 ひらりひらりと舞い落ちる粒は、闇に紛れて消えていく。桜じゃない、落ち葉じゃない、雪でもない。きっとこれは「かつて日常だったもの」だ。


 パンデミックという厄災の到来と共に、日常のすべてが "休止" した。外の世界はまるで眠りについたかのように時を止めたのだ。真っ暗闇のなかで人は足掻いた。コロナ禍と呼ばれるようになったその迷宮の出口を、やがてみつけた。そして差し込める光の中で、世界は息を吹き返して、日常へとその針を巻き戻していく。


 そう思っていた。だってこれは、あくまでも休止なのだから。

 自粛も、分散登校も、緊急事態宣言も、遠い過去の話となって、休眠から醒めた世界は再び動き出す。コロナウイルスという檻から解き放たれて、以前の景色へと還る――そうでなくては理にかなわない。


「なん……でだよ」


 なのに、目の前に広がる景色はそうじゃない。

 往年の焦がれるような青色は、もうここにない。


「……そうかよ」


 あの厄災の惨禍を越えて、甦る日常の欠片たち。けれどそのうちには、いつまで経っても息を吹き返さない影があって。それがこうして、時を止めたままの場所で舞っているのだ。


「勝手に……死んでんじゃ、ねえよ」


 拳を震わせて、悪態をつく。

 最後の列車がここを出た日から、ずっと、俺が縋り付いてきた憧憬だった。果たされなかった約束だった。


 ひらり。

 最後の一粒が足元に落ちる。


「っ」


 拾い上げてみれば、それは一枚の付箋だった。

『ちゃんと、伝えなよ』――北竜の筆跡で、たった一文。俺は思わず天を仰ぐ。


「……やられた」


 あのノートを一片残らず丁寧に貼り合わせて、部室に置いていった彼が残したメッセージ。てっきり彼女にあてたものかと思ったが、そうじゃない。これは彼女だけじゃなくて、俺に向けても宛てられている。


「わかってたんだろうな、あいつ」


 於札内駅で飛び降りた日を思い返す。本当に大切なことを、何度も言いそびれたものだ。でもそれはきっと彼女も同じで、だから4月17日、この場所でああ言ったのだろう――北竜のメッセージを胸に、踏み込んだのだろう。

 それにあの部屋に残すということは、俺にも彼女にも届きうるということ。ならばその二人に手向けるべき餞別を――ああ見えて繊細な彼のやりそうなことだ。


「とんだおせっかいだよ……馬鹿野郎」


 そして、それを今に重ねる。

 俺は結局何も言えないまま、最終列車を見送った。何にもなれなかったこの感情だけれど、決して沈黙すべきではなかった。さよなら一つ言えないのは違うだろう。


 "相変わらず気の小さそうな顔"


 そうであるがゆえの完璧主義まで、彼には見えていたんだろう。あのとき俺は、ひとつの言葉で完全に形容しようとしていた。誤解を嫌った。しくじることを恐れた。その末に口を閉じたのだ。


「しくじったなぁ」


 ぽつりと後悔が零れる。

 感謝、尊敬、嫉妬、親愛、諦念、もうぐちゃぐちゃで、到底ひとつの言葉なんかじゃ収まらない。そもそも不可能だったのだ。だから、言葉を尽くすべきだった。そのすべてを伝えるべきだった。


「もう、遅いのに――……」


 線路の先を見据える。もう戻ることのないあの日々は、札沼線とともに遥か彼方へ。過去のことだと簡単に割り切れるはずがない。この押し潰されるような悔いの遣り場もない。

 なのになぜ、時は残酷にも平等に流れるのだろう。


 カシャン。


 俺をどこまでも惹きつけ、縛りつけてやまない青色の足枷が、ぽろりと落ちた。そんな気がした。それからようやく俺は振り返る――かつて「石狩月潟」という名のあった廃駅へ。


 一冊のノートがあった。


 改札の引き戸の隅に、眠るように転がっていた。

 反射的に手に取ってみれば、懐かしいセロテープの感触。久しい筆跡で『汽跡キセキ』と記されたそれに、なぜ気づかなかったのだろう。


「……まだ、遅くないじゃねえか」


 なぜ気づかなかったのだろう。


 あの切ない惜日の軌跡は、ノートの全てを埋めていない。ぺらぺらと捲れば続くページがあるじゃないか。何も書かれていない、空白の続きが。


「よしっ」


 ノートに挟まったペンを取る。

 前とは違って時間はたっぷりある。何度でも書き直せる。碧水楓に、部長に、北竜に。3人に伝え損ねた言葉を――今度こそ。それはまだ漠然としていて、どんな形になるかなんてわからない。ヒントを求めて数枚戻って、あの奇跡みたいな日々を見返してみる。真っ白なこの続きに、俺はどんな軌跡を記すのだろう。


「さぁ」


 どんな一歩を踏み出そうか。

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