未知のモンスター


 リィムさんは治療のために遠方に出向く際、こっそり転移魔法の魔法陣を敷いて、夜な夜なお気に入りの場所を出歩いているという。

 そのお気に入りのスポットのうちのひとつに、僕は案内された。


「うわ、湖だ」

「ふふ、大きくて綺麗でしょ? 空気も澄んでいて、わたくしここがとても好きなんです」


 拓けた草原はとても広々としていて、大きな湖はまるで鏡のように星空を映している。

 なんとも幻想的な場所だった。


「ほら、こうして波の音を聞いていると、心が落ち着きませんか?」


 大きな湖は風に揺れて、岸に波を打ち寄せている。

 耳を澄ませると、確かに穏やかな心持ちになった。


「世界には、きっとこんな風に素敵な場所がたくさんあるのでしょうね……ローエンス君が羨ましいです。冒険者となるあなたは、これから広い世界を見ることができるのですよね」


 リィムさんは切なげな瞳で夜空の向こうを眺めた。


「……いっそ、このままローエンス君と遠い場所に行っちゃおうかな」

「え?」

「聖女の立場なんて捨てて、ローエンス君と気ままに冒険をするんです。すごく楽しそうじゃありませんか?」


 意味ありげな視線を向けて、リィムさんは僕に囁く。

 彼女の瞳には、一抹の迷いと本気が混ざり合っているように見えた。


「……なんて冗談ですよ! ローエンス君を困らせるわけにはいきませんから」


 リィムさんは照れくさそうに笑った。

 無理に作っている笑顔だとすぐにわかった。

 だから僕は言った。


「いいですよ」

「え?」

「リィムさんが望むなら、僕は何だって協力します」


 リィムさんは、出会ったばかりの僕の身の上を本気で悲しみ、慈しんでくれた人だ。

 彼女の言葉に、どれだけ心が救われたことか。

 そんなリィムさんのためなら、僕はどんな無茶でも押し通したい。


「リィムさんが幸せになれないなら、聖女の立場なんて捨ててしまえばいいんです。あなたのような優しい人がただ都合よく国に利用され続けているなんて、あっちゃいけないことです」


 世間知らずのガキが何を勝手なことを言っているんだ、と国の人は僕を非難するだろう。

 けれど、ひとりの女の子の人生を犠牲にしないと成り立たない国なんて、いっそなくなってしまえばいい。

 容姿を変える魔法だってある。リィムさんがその気なら、逃亡の手段をいくらでも探してみせる。


「ローエンス君……わたくしは……」


 リィムさんはいまにも泣きそうな顔で僕を抱きしめてきた。


「ありがとう、ローエンス君。そのお言葉だけで充分です」


 自分に言い聞かせるように、リィムさんはお礼を言った。


「わたくしは幸運です。こうしてローエンス君のように素敵なご友人と出会えたのですから。それだけでもわたくしにとっては奇跡です」

「リィムさん……でも……」

「いいのですよ? わたくしのわがままで、ローエンス君に迷惑をかけるわけにはいきませんから。それに、わたくしの力を必要とする人々はたくさんいます。その人たちが安心して暮らせるように、わたくしは己の使命を果たします」


 それだけ言って、リィムさんは僕から離れ、背を向けた。

 これ以上、同じ話題を続けることはできない空気を感じた。

 ……彼女に立場があることもわかっている。

 でも、そんな寂しい背中を見せられたら、やはり何とかしてあげたくなってしまうが……いまの僕は無力だ。

 どんなに凄い魔法を身につけても、解決できないことが世の中にはたくさんあるようだ。


「そろそろ帰りましょうか? ローエンス君も、帰りが遅いとお師匠さんが心配されますし」


 いつものように穏やかな笑顔を浮かべてリィムさんは言った。

 そのとき……湖から異様な影が浮き上がった。


「っ!? リィムさん逃げて!」

「え? きゃっ!」

「ぐっ!」


 素早い動きで、何かが僕たちを捕らえた。

 これは……触手!?

 音を立てて、湖から巨大な何かが姿を現す。

 それは魚のような、蛸のような、爬虫類のような、見たこともないカタチをしたモンスターだった。


「ど、どうしてここにモンスターが!? わたくしが敷いたモンスター除けの防護結界は、まだ動いているはずなのに!」


 なんだって!? リィムさんの言葉が正しければ、このモンスターは聖女が展開した結界を突破してきたってことか!?

 何なんだ、このモンスターは?

 いままで見たことのないヤツだぞ。

 まるで、いろんな生き物が混ざり合ったような……。


 不自然。

 自然界に存在していることに違和感を覚えるような、作り物めいた異質さを感じる、そんなモンスターだった。


 とにかく、いまはリィムさんを助けないと。


ウインド……っ!?」


 風の刃で触手を断ち斬ろうとしたが、すぐさま詠唱を止める。

 モンスターがまるで狙う場所を察知したかのように、リィムさんを僕の手前に寄せてきたからだ。

 コイツ! リィムさんを盾にして人質にするつもりか!?


「ローエンス君! わたくしに任せてください! 聖女の力なら、モンスターを鎮静化させられます!」


 リィムさんが体から眩い光が生じる。


「荒ぶる魂よ……どうか鎮まりたまえ……」


 リィムさんが祈るように呪文を唱えると、モンスターの全身にも優しく包み込むような光が生まれた。

 あれは癒しの波動? なんて清らかな魔力なんだろう。ここからでもハッキリと感じられるほどに、心が落ち着いていく。

 確かに、これならどんなモンスターも鎮静化して……。


「……え? そんな……」


 リィムさんの目が驚愕に見開かれる。


「このモンスター……魂が、存在しない?」

「え?」


 モンスターは凶悪な雄叫びを上げた。

 リィムさんの鎮静が効いていない!?


「きゃあ!」

「リィムさん! くっ!」


 モンスターはさらに触手を伸ばし、僕たちを雁字搦めにする。

 こうなったら、いつものようにモンスターの心臓を転移させるしかない!


透視クレアボヤンス!」


 ヤツの心臓の位置を探すべく、透視魔法を使ったが……。


「……そ、そんなバカな」


 僕は愕然とした。

 このモンスター……心臓がない!

 どういうことだ!? これほどの巨体の生物に心臓がないだなんて!

 まさか、魔力だけを動力源にして動いているとでも言うのか!?


「ああああ!」

「っ!? リィムさん!」


 そうこうしている間に、リィムさんが触手で締め付けられる。

 気品のある装いが粘液でまみれ、際どく肌が露出していく。


転移アポート!」


 一か八か、リィムさんを転移させようとする。

 人間そのものを転移させるのはかなりの技術がいる上、失敗した場合は体の一部が転移できず、最悪肉体を欠損する場合がある。

 なるべくなら使うべきではないが……いまは手段を選んでいられない。

 ギルド試験のときはうまくいったんだ! 今度だってやってみせる!

 頼む! うまくいってくれ!


 しかし……。


「なっ!?」


 岸に転移されたのはリィムさんではなかった。

 ……湖に住まう魚だった。

 このモンスター! 転移魔法が発動する直前に湖から魚を引っ張り出した!

 リィムさんの前に割り込ませることで、転移対象を変えてしまったのだ!

 ……何なんだ、このモンスターは!?

 魂も、心臓もないのに、まるで知能があるかのようにこちらの動きを読んでいる!?


「ローエンス君……あなただけでも、逃げてください……」


 涙目で、請うように、リィムさんは言った。


「お願い……あなたに、死んでほしくない……」


 逃げる?

 リィムさんを置いて?

 相手は確かに正体不明のモンスターだ。

 こちらの手を先読みする不気味な相手だ。

 だからって……リィムさんを見捨てられるワケがない!


「ああっ!」


 触手がリィムさんに絡む。

 聖なる乙女を辱めるように。


「……やめろ」


 自分の中に、衝動が湧き起こる。

 いままで、感じたことのない衝動が。


「やめろ。それ以上、その人に触るな」

「ローエンス、君?」


 体の奥から、炎のように熱いものが込み上げてくる。

 いまにも弾けそうな、大きな何かが、表に向かって。


 この感情は……そうだ。


 怒りだ。


「その人は、お前ごときが触れていい存在じゃない」



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