2-21 何もしないのが正解
「時にヌイヴェル様、先程の患者なのですが」
揺れる馬車の中、アゾットが恐縮気味に尋ねてまいりました。
少し脅しが利き過ぎたようですし、少し砕いていきましょうか。
「お~、そう言えば、お前は席を外しておったのう。後になって気付いたわ。まさか、裏でとんでもない事をやらかしておったとは」
「はい。それで、ヌイヴェル様が診た患者、あれは“何もしなかった”のですね?」
「ほほ~う、さすがに気付くか。さすがは名医」
そう、アゾットの言う通り、私は何もしなかった。
まあ、魔女の魔術で治したように見せるため、少しばかり演技はしましたが、単に“刃物”と“患者”に水を振りかけただけ。
一方のあのヤブ医者は、傷口に軟膏薬を塗り込み、包帯でグルグル巻き。
それでなぜ、魔女の治療の方が優れた結果を残したのか?
常人の目には、“魔術”としか映らないことになりましょう。
“何もしていない”のにね。
「ヴェル姉様、本当に何もしなかったのですか?」
「ええ、何もしていないわ。嘘のまじないはしたがのう」
「えっと、【
「意味などないわ。ただのそれっぽい演出。むしろ重要なのは、振りかけた“ただの水”の方じゃ」
水をぶっかけた方が、傷薬を塗り込むよりも早く治る。
そんな事があるのだろうかと、首を傾げるジュリエッタでございますが、そこはまだ誤った“常識”に支配されていますね。
問題なのは、その塗った薬が“薬効を発揮できるか否か”なのですから。
「つまり、ヌイヴェル様はあの薬に“効果がない”事を知っていたのですね?」
「ええ、その通り。だって、考えてもごらんなさい。煮詰めた馬の唾液だの、焼いて乾燥させた鰐の糞だの、蛇から絞り出した脂だの、そんなものが薬であるとでも?」
「仰る通りです。古めかしいかつての医術や薬学が未だに幅を利かせているのが、嘆かわしい現実なのです。あれでは薬と言うより、まじないの域の出ておりませんな。まじないに頼るなど、愚の骨頂だというのに」
「ふふふ、まじないを使う魔女たる私にそう言いますか」
「ええ。あんな薬ですらない軟膏を塗るくらいなら、水で清潔にした後、人間の持つ本来の治癒力に頼った方が遥かに良い、と」
「そういう事! さすがは名医、よく分かっておるな」
「本職でないヌイヴェル様がご存じなのが凄い事ですよ」
本職のアゾットに医療に関して称賛されるのは嬉しい限りですね。
まあ、それだけ我が国の医療が遅れているという証ではあるので、素直に喜んでよいのやら、少し考えさせられる話ではありますが。
「つまりですね、ジュリエッタ。あのヤブ医者は魔女の私以上に、“まじない”での治療をしておったのじゃ。逆に、私は“清潔にする”という“医療”を施しておったというわけじゃな」
「なるほど、そういう事だったのですか」
「ジュリエッタ、いいこと? “常識”や“固定観念”というものは、時に強烈な猛毒になる事もあるの。今回の件にしても、薬効の期待できないいい加減な軟膏を塗り、使い回したであろうボロの包帯を巻き、それで治療だと宣って金をふんだくる。そこに“疑問”が生じない事の方が怖いものなのじゃよ」
「まあ、普通の人じゃ、そういう思考、出来ませんものね」
「そう、できないのじゃ。しかし、無知は罪であり、知らないという事は“知っている人”に引っかけられる事を意味する。たとえそれが“デタラメ”であったとしても、信じてしまうものなのじゃ」
「つまり、今回は“何もしない”方が正解であった、そういうわけですね?」
「うむ。毒にしかならない薬なんぞより、何もせずに放置した方がマシというわけじゃ。まあ、水で傷口を洗ってやって、後は奇麗な布でも巻いておけば、“
あんな毒もどきの軟膏を塗って、悦に浸る医者なんぞ、いずれ駆逐してやろう。
なにしろ、目の前に全てをひっくり返せる可能性を秘めた、最高の名医がいるのですからね。
あとは、貴族社会に食い込み、その腕前を振るえる状況を作ってやるのが、私の務めだと考えています。
(もちろん、
なにしろ、ここまでにかなりの出費をしておりますし、回収する必要があります。
まあ、
後は丁寧に末永く“こき使ってやる”だけです。
「まあ、私のように魔女を兼務しているわけではないジュリエッタには、必要ない知識かもしれませんが」
「寝物語の話題くらいにはなりますよ。それに、カテリーナお婆様の教えでもあるじゃないですか。『お金と知識は間違ったものでなければ、いくらでも蓄えておけ』と」
「フフフ……、まさにその通りじゃ! よく言いました、ジュリエッタ。それでこそ私の妹であり、お婆様の最後の直弟子ですわ」
まあ、ジュリエッタもどんどん頼もしくなってまいりました。
この調子ならば、娼館はまだまだ安泰ですわね。
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