51. はじめての妖精契約
キサラはここしばらく疑似空間に下りることはなく、夢すら見ないまま朝を迎えている。夕食を食堂で済ませた後報告の場が設けられ、様々な情報が飛び交った。
中でも魔法的な要素の絡む事柄についてはナキアに幾つか質問をしたかったのだが、疑似空間に下りられないのであれば接触のしようもない。
朝目を開くとき。また顔を合わせることが出来なかったことにすっかりと落ち込む。何故だかぽっかりと胸に穴が開いたような寂しさを覚えるのだ。
〔よォ、何しょげてやがんだ〕
「うっわ!! びっくりした」
〔馬鹿何してる。念話で返せ〕
(えっと何? どうしたの急に)
〔なんでかわからねぇが、念話出来るときと出来ねぇときがある。今は無事に交わせるみてぇだな〕
(相変わらず魔法に関してはすごい探求心だね)
〔魔物の本能だからな。結論としちゃ体の一部に触れてりゃ念話を飛ばせるらしい。試しといて正解だったな〕
(僕とイヴァは常に一緒に居るし、便利といえば便利……?)
〔不便といえば不便だぜ。俺たちが契約の一つでも交わしゃあ無条件に飛ばせるんだがな〕
(……無条件? ね、イヴァ、僕と風の民って契約を交わしてる状態なのかな)
〔仮に契約が交わされてる状態なら、お前にも気配がわかるはずだぜ?〕
イヴァラディジの言う“契約”とは、人間同士が書面上で交わすものではなく、魔力的要素、術式的要因の絡むものである。
条件は「双方が意思ある者」、つまり魂を持つ者同士であれば可能だ。そしてどちらか片方にでも魔力が通っていれば、相手が何であっても“契約”を交わすことが出来る。
「僕の耳で声が拾えなくても、念話なら!」
「意思の疎通は可能、か。試してみる価値はあるな」
確か敷地内には訓練場があったはずだ、とイヴァラディジが移動を促す。風の民はその名の通り風属性なので、屋内に突風でも吹かれてはたまらない。
「ついでに精霊魔法について色々と鍛えてやる。お前ら揃いも揃って無害過ぎるからな、最低限自衛出来るようにしろ」
「え、あれ? その話って僕も入ってる?」
キサラの驚いた声で起きたタスラは、まだ眠そうな顔をしたまま首を傾げた。その顔を見てイヴァラディジの口の端がぐにぃ、と上がる。
現在パドギリア子爵邸は緊急事態ということもあって訓練は中止されており、訓練場を借りたいと申し出ればあっさりと許可が下りた。加えて誰も居ないので、貸し切り状態である。
「良いかお前ら。魔法の基本は物体浮遊、即ち浮遊魔法だ」
足元に落ちていた小石が浮き上がり、キサラとタスラの前で止まる。イヴァラディジによる浮遊魔法の実演だ。
「まずは対象指定で魔法使用の範囲を決める。次に必要なのは詠唱だが、対象によっては念じるだけで充分だ。単純な動作の場合、詠唱に求められるのは何をどうしてぇのかっつー具体性だな。早い話が“浮け”、“浮かべ”程度のもんで良い」
ぽむ、ぽむ、ぽむ、とイヴァラディジは次々に小石へ触れる。それらを対象指定した、と視覚的に示したのだ。
今度はキサラたちにもわかるよう「浮け」と唱えて魔法を展開して行く。
「体内に保有する魔力量が少ねぇと干渉度や影響力が低い。些細な魔法にも詠唱が必要になるっつーわけだ。対象指定に詠唱。これらの要素が全ての魔法に共通する展開手段になる。よく覚えとけ」
「わかった」
「制御と調整の感覚を掴むのにゃあ浮遊魔法は特に有用だ」
「あ、待って。その浮遊魔法って魔法の属性とかは関係あるの?」
「ねぇな。俺の固有属性は炎だが、今それを感じる要素はあるか?」
キサラとタスラは浮いている小石を観察してみた。ただ浮いているだけで、火の属性要素は見られない。なので浮遊魔法とは、魔力さえ持っていれば使用可能な魔法、ということだ。
「固有属性を持たねぇ魔物なんてのはそこらにうじゃうじゃ居る。が、魔法の使用に困ることはねぇ。唯一欠点があるとすりゃ、属性の付加が出来ねぇってことぐれぇか」
「属性の付加?」
「今見せてやる。少し離れてな」
二人が素直に指示に従うと、浮いていた小石が燃えた。
「これが属性の付加、或いは付与だ。キサラが精霊魔法で同じことをしようとすりゃこの小石は風を纏う。理解出来たか?」
「何となく」
「別にこんなことは出来ても出来なくても良いんだがな。……浮遊魔法の感覚に慣れりゃ対象指定から魔法展開までの時間を短縮することも可能だ。呼吸をするように魔法を扱え」
「てわけでタスラは手始めに小石を浮かべてみろ」と指示が出る。キサラは風の民と契約していない状態でも、精霊魔法の行使が可能か検証することになった。
「えーと対象指定。あー、この小石。で、そのー……浮かせる?」
「んなフニャフニャな指示で通るわけねぇだろ」
「うわ、飛んで行った!」
「全然なってねぇな。浮かせるだけなら空間に固定しろ」
「「無理!!」」
「逃がすかっ」
ただ小石を二、三個浮かせるだけだと思いきや、訓練場に落ちているものを全て同時に持ち上げろと課題が出た。それも、頭より上の高さで固定しろという条件付きである。
対象指定複数かつ広範囲に影響する魔力調整。文句なしの中級魔法だ。
「せめて一個浮かせるところから初めても良いんじゃない!?」
「そんなノロノロやってられるか!」
「段階を踏むって言ってせめて!」
「タスラは妖精種なだけあって少しは精霊魔法も通るが、問題はお前なんだぞキサラ」
「え、僕?」
「風の民は知っての通り上級の精霊魔法だ。当然、俺の言い渡したことなんざ簡単にやってのける」
ジト、とイヴァラディジがキサラの頭を見つめた。今現在、風の民はキサラの髪の毛に絡まっているのだ。
しかし先程からわしゃわしゃとキサラの髪の毛を揺らすだけで、全く指示を受け入れる様子はない。イヴァラディジの言う「簡単な」精霊魔法すら発現には至らなかった。
「ったく聞き分けのねぇ」
「やっぱり契約を交わした方がぁ!? わ、わ、わかった、わかったわかった」
契約という言葉に反応してか、キサラの周りできゅるきゅると小さな風が巻き起こった。絡まった髪の毛は更にくしゃくしゃと掻き混ぜられ、かと思えば右頬に何かがすりすりと擦り付けられる。
「え、何、何かほっぺに」
「頬ずりされてるな」
「喜ばれてるってこと? 嫌がってはいない?」
「いや、見る限りすぐに契約を交わされなかったことがご不満なようだ」
「えっ。だから声も聞こえなかったのかな」
「それは単純に体質の問題だが」
「あ、でもどうやって契約を交わすのか知らないんだけど」
「俺も妖精との契約がどんなものかは知らねぇな。契約印が刻まれれば成功のはずだが」
イヴァラディジには風の民の姿がはっきりと見えている。タスラはぼんやりとしか見えないと目を凝らしているが、キサラにはそのぼんやりすらない。
せめて輪郭だけでも掴めればと空中を睨む。右頬に頬ずりされていたということは、この辺りにいるはずだという目算だった。
「そっちには何も居ねぇ。後ろだ」
「素早い」
「風だからな。あー、今、後頭部に張り付いたぜ。どうだ?」
「全く見えないけど感触はあるから変な感じ」
風の民は、全身でピッタリとキサラの後頭部に張り付いている。体の小さな妖精だ。
キサラが恐る恐る頭に手を伸ばしてみると、自分の皮膚とは違う温かいものに触れた。察するに、ここが妖精の背中部分である。
「どうすれば僕は君と契約出来るかな」
問いかけるように零すと、キサラの耳元で小さな鈴のような音がした。それが妖精の囁きだと理解した瞬間、もう一度同じ「言葉」が聞こえて来る。
「──コルラス?」
瞬間、光が弾けて風が巻き起こる。咄嗟に上げた両腕の隙間からは緑の輝きが射し込み、それを辿って目を向ければ光の中心に丸いものが見えた。
キラキラと輝きを纏いながら、光ごとキサラの方へ落ちて行く。慌てて両手を広げて受け止めると、光は徐々に収まって行った。
「やぴー!!」
手の上に丸まっていた塊が、キサラと目を合わせた途端嬉しそうに声を上げる。見たこともない動物だ。
耳と両目が大きく、ピンクの鼻がぴくぴくと動く。両手で支えていたお尻がぷるぷる震えたかと思うと、大きめのくしゃみをした。
「大丈夫?」
指先で頭を撫でてやると、コロコロとした動物が大きく歓声を上げる。
「見るした!」
「ええと、君は風の民?」
「その呼び方好きない。コルラス!」
「コルラス、が、君の名前?」
「ソ~~~!」
「んびゃ」
絵本などの影響からか、キサラは風の民のことを完全に人型の妖精だと思い込んでいた。例えばエルフや、ドワーフのような。
けれど目の前に現れたのは見たこともない小動物で、兎に似たイヴァラディジに負けず劣らずの、可愛らしい姿をしている。
その喋りは何故か片言だが、言いたいことはわかるので問題はない。今後顔に張り付くのはやめてもらおうと、肩で息をしながらキサラは決意した。
「コル、契約する。キサラの目欲しい」
「いやいやいや、目は駄目」
「大丈夫痛いない」
「目の他はどうかな。あ、そうだ髪の毛とか」
「むーん。目ダメ。コル、我慢。首する」
「妥協して首」
首がなければ生き物はもれなく死ぬのだと諭すが、一向に聞き入れる気配はない。これだけは譲れないと互いに主張し合い、「声聞こえんなら別に契約しなくても良いんじゃねぇのか?」というイヴァラディジの声すら聞き流す。
「僕やっぱり精霊魔法使えなくても良いかな!」
「何言ってんだタスラ、男ならバシッと丸太ぐれぇぶっ飛ばしてみろ」
「浮遊魔法なんじゃないの?!」
早々に飽きたイヴァラディジはさっさとタスラの指導に戻った。
「首、出す!」
「うわ───!!」
「暴れるない。ワルい子、ワルい子!」
コルラスは業を煮やしてキサラの肩に飛びつき、素早く背後へ回った。慌てて手を伸ばすが人間と風ではどちらが早いか言うまでもない。
コルラスに抱き着かれた瞬間、キサラの首元がジリッと熱くなった。痛み自体はなかったものの、何分切り落とされると思っていたキサラである。
尋常じゃないほどの叫び声が上がり、お屋敷から何人かが飛び出して来た。
「おわたよ~」
「え?」
キサラは首に手をやり、皮膚も肉も無事であることを確認する。コルラスはその間に肩口から腕を通り、慌てて差し出された掌へと戻った。
「今の熱は……あ、イヴァ、僕の首何ともなってない?」
「なってなかったら失敗だ。安心しろ、契約は成立してるぜ」
「あ、すごい。これが契約印なんだ。綺麗だね」
「首だから全く見えない」
「コルはお腹~!」
ててーん、と得意げに披露されたコルラスのお腹には、花の模様が浮き上がっていた。
どうやら最初に目を要求されたのは「抉って渡せ」という意味ではなく、契約印を刻む場所として提供しろ、ということだったようだ。
キサラも落ち着いてよく考えてみれば相手は妖精であり、悪魔ではない。血を流すような要求はまずしないだろう。
「はぁー、何だ、良かった」
脱力したキサラの頭には、いつの間にかコルラスが張り付いている。ただの動物であれば首を痛めそうなものだが、妖精だからなのか重さはほとんど感じない。
ひとまずキサラが背中を撫でてやると、上機嫌にはしゃいだ声が降って来る。まるで子供のような声、振る舞いだが、そもそも妖精に子供や大人といった概念はあるのかどうか。
「もしかして、人間基準だとまだ幼児だったりする?」
「しつれーな! コル立派、大人してる。ムン!!」
「あ、うん、そっか」
「キサラ何する欲しい? コルぴゅんぴゅんする出来る」
「大丈夫、そのままジッとしててね」
集まって来た大人たちは何事かとキサラの方を窺っているが、何分魔法絡みなので迂闊には近寄れない。タスラが「お騒がせしました何でもないです!」と叫んで対応するが、それでも表情は困惑したままだ。
キサラはコルラスが大人しくしているのを確認し、サッとイヴァラディジの首元を掴んで引っ張り上げた。ジタバタと足を動かしているが、尻を支えてはやらない。
「契約すれば、意思の疎通がなんでしたっけ先生、どうなるんでしたっけ」
「いや、まァ種族が変わりゃ常識も違ぇだろ」
「全く互いの意図が通じなくてもお話出来るようにはなったので問題ないですよね。勿論この子にも丁寧に教えてくれますよね先生。ね?」
「託児所はやってねぇ」
「今だ! 先生僕もう部屋に帰りますありがとうございました!」
「おい! 俺を置いて行くなタスラ! 戻って来い!!」
と、このような騒がしさに特に問題は無いと思ったのか、疑問を残したまま大人たちは屋敷へと戻って行った。
それから少し休憩を挟み、タスラは浮遊魔法、キサラは風を起こす練習から始めることになった。特にキサラはこれまでとは違い、簡単なことなら口に出さなくとも指示が通る。
コルラスが元々上級の精霊魔法であることが幸いし、上達の速度は段違いだ。
「よっ、とっ、はっ、とうっ!」
等間隔に風が吹く上を、キサラが歩いて行く。
地面から高く離れたわけではないが、やや不安定でヒヤリとした。何しろ風は流れ続けるものなので、その場に留まることは出来ない。
歩くというよりは弾む、もしくは跳ぶといった進行方法ではあるが、敢えて命名するのであれば「空中散歩」といったところだ。
「思うんだが、宙を歩く程度なら浮遊魔法で良いんじゃねぇか? 風は補助に回しゃ良いだろ」
「でも、風って聞くと空気を循環させたり物を吹き飛ばすくらいしか思いつかないというか。補助、補助ね」
速さを出すために後ろから風を送ってみてはどうだろうか。などと考えてはみたものの、それだと威力によってはひっくり返ってしまう。果たしてコルラスは、繊細な風量の調整に長けているだろうか。
ともかく魔法に詳しい悪魔からの貴重な助言である。浮遊魔法をまずは試してみることにした。
「あ、浮いた」
結果、ちょっと体が浮きましたね、という程度。飛ぶという高さには至らない。
何しろ浮遊魔法の適用で物体を移動させる場合、一度対象を浮かせてから移動先を指定する必要がある。物体と移動先の二つを指定しなければならないので、慣れないうちは対象が外れたり移ってしまったりするのだとか。
意識することが多すぎるので、初心者には向かない魔法だ。
「一応空を飛ぶ魔法も、浮遊魔法とは別に存在してはいるが」
「あるんだ」
「更に高度な技術が要求される。今はやめとけ」
コルラスはキサラの首元が気に入ったのか、ずっと張り付いて契約印同士を重ね合わせている。どうやら契約印は合わさった際に熱を持つようで、キサラの首はぽかぽかと温かくなった。夏は要注意である。
しばらくの間そうして「お揃い」とはしゃいでいたコルラスも、次第にウトウトと首を揺らし寝入ってしまったようだ。
「妖精も寝るんだ」
「人間界だからな、そういうこともあるだろ」
「もうお昼の時間過ぎちゃったかな? ご飯食べに行こう」
「「賛成」」
昼食後は夕方まで「集団」を捜索する。そして夕食後から寝るまでの間を、精霊魔法の練習に充てることにした。
〔お前にはまだ言ってねぇことがある。紫瞳の野郎を覚えてるか〕
(ナキアだね。勿論)
〔アイツは俺の真名を引き出しただろ。名に引きずられる形で、俺の記憶は蘇り始めた〕
(そういえば、何も覚えてないって言ってたね)
〔で、どういうわけか知らねぇが、呪いが解けるに従って俺は記憶を取り戻す傾向にある〕
腕の中に居たイヴァラディジが滑り出て、トン、と地面へ降りた。揺らめく炎が静かにキサラを射る。
どこをと言うべきか、何をと言うべきか。イヴァラディジの瞳はキサラへ向いているにも関わらず、何か別のモノを見ていた。
突如念話を試したのも、恐らくはこのためだったのだろう。いつも傍にはタスラが、そしてコルラスが居た。
「呪いが解ければ俺は、全てを思い出す」
淡々とイヴァラディジが告げる。それは何故だか宣誓のように厳かな響きだった。
改めて呪いを解かなくてはならないという意識が上り、キサラは気を引き締める。そして言葉を返そうと口を開き。
唐突に意識を失った。
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