52. 懇願


 ぞわ、とイヴァラディジの身体に悪寒が走る。


 肉体や精神に干渉される不快な感覚。探知範囲に突如出現した魔力の反応。

結界を張る間もなくキサラとタスラが意識を失い、イヴァラディジは咄嗟に体を変化させ回り込んだ。


 ぐんと伸びた目線の高さ、鋭く尖った牙の感触。背中に受け止めたキサラとタスラの身体を地面に横たえつつ、素早く気配を探る。


(術式の展開範囲は屋敷全域か。人族の動きは止まってんな)


 キサラとタスラは色硬糸を所持しているにも関わらず意識を失った。術式自体に何らかの細工があるはずだ。

イヴァラディジはキサラを跨ぐようにして立ち、低く構える。万が一にでも害があっては呪いがどう作用するかわからない。


 しかし、これだけ大規模な術式展開があったにも関わらず殺気どころか敵意も感じられないとは一体どういうことなのか。


(微弱な魔力の塊……とくれば魔石か。屋敷に近寄って来る気配はなかったが、転移して来た直後に眠りを振り撒いたとすれば合点がいく)


 魔物を従えている様子はないが、魔法的な術式の取り扱いに手慣れている。只者ではない。


「おや? ここも外れか」


 訓練場へ堂々と侵入した男がイヴァラディジを見据え、肩を竦めた。見れば目元や鼻は覆いで隠されており、口元だけが露になっている。


「犬、それは食糧ではないぞ」

「こんなもん食わねぇよ」

「言語を発音するだけの知性があるとは。珍しい魔獣だ」

「人族ってのは哀れだな、魔獣と悪魔の違いもわからねぇらしい」

「見たところ使役されているわけでもあるまい?」

「だったらどうした」


 牛ほどの大きさをした狼を相手に、男は軽やかな歩みで距離を詰めた。余程腕に自信があると見て、イヴァラディジはスッと目を細める。


「その眼」


 悠々と歩いていた男が、イヴァラディジの瞳を見てピタリと足を止めた。やや愕然とした面持ちのまま、「もしや、イヴァラディジか」と独り言のように零す。


 現代において「イヴァラディジ」の名を知る人族などキサラくらいのものだ。喉元を噛み千切るつもりで更に体勢を低く構えていたイヴァラディジは、その動きを見事に封じられるのだった。

男が覆いを持ち上げ晒した素顔に、よくよく見覚えがあったのである。


「まさかとは思うが……ナジェスか?」

「如何にも」


 感動的な再会、とはならなかったが、彼はイヴァラディジの「人型であった時代」を知る者である。


 徐々に蘇る記憶の中でも、このナジェスという男は取り分け多く登場した。以前は行動を共にする時間が長かったので、当然といえば当然なのだが。

 だが世界の変貌を見るに、三界の住民すら寿命を終えるほどの長い年月が経っていると思われる。感じ取れる気配からして幽霊でもなければ幻覚・幻術でもないこの男。何故今もこうして健在なのか。


「記憶持ちの転生、ってやつか?」

「いいや、吾はあくまでも吾そのものだ。生き延びた結果が現在に至るだけのこと」


 不死者、というのであれば筋が通る。生けるモノにはそれぞれ寿命があり、老いるものだ。ナジェスの顔はかつてのそれより数年分歳を取っただけのものにしか見えないが、それならばおかしな点もある。


「視覚的な情報からいってもそうだが、お前はただの人族としてしか捉えられねぇ。どうなってやがる」

「どうせなるのであれば獣人族の方が良かったのだが。同じ人族という分類にあるが体力・身体能力共に優秀だ」

「お前の好みなんざ聞いちゃいねぇが」

「性質上の変貌はさておき、そちらはどうなのだイヴァラディジ。庇っているつもりなのだろうがその姿だ、どこぞの野犬が人間を喰らおうとしているようにしか見えんぞ」

「さっきから犬犬うるせぇんだよ。どう見ても狼だろうが」

「何にせよ些細な違いだ」

「それは俺の姿についてか? それともお前の変質か? ……魔力の巡りを一切感じねぇ。髪や眼の色彩も違うときた。些細な変化で片付くようなことじゃねぇだろ」 

「髪はこの通り視界に入るが、瞳の色も変わっていたとは驚きだ。七属性の内どれに近い」

「重属性だな」

「紫瞳とは。また珍しい」


 ナジェスはイヴァラディジの知る姿と違い、黒の髪、そして紫の瞳に変貌していた。これは見覚えのある造形、色彩である。


「まさかお前に子供が居るとはな」

「何を馬鹿な。吾らの種族では子など気軽に授かれるものではない」

「今は人族だろ」

「同じことだ」

「だが俺は、お前の系譜にある魔物を知ってるぜ」

「何、魔王を見たのか?」

「魔王?」


 真名を引き出され、記憶が混濁した状態で目にしたナキアの顔は、それがナジェスであると誤認するほど顔の造形がよく似ていた。

今目の前にある色彩もそうだが、気配に至ってはナジェスの魔力を薄く感じたのだ。血脈でなければ説明が付かない程の類似である。


「過去に一度、血を抜かれた覚えがある。よもやそこから形成するとは、見誤ったものだ」


 ナジェスは過去を思い返し眉根を寄せた。それは大戦と呼ばれる戦いの最中に起こった出来事である。


 天使によって結成された「反乱軍」と、魔物たちによって構成された「魔軍」。そこへ僅かながら人族も加わって出来上がったのが「連合軍」である。

当時彼らの先頭に立ち指揮を執っていたのがナジェスだったのだ。


 ──連合軍を率いるにあたり、天使族たるナジェスがすんなり魔物たちから受け入れられるはずもない。ナジェスは実力を示す必要があったのだが、さて。その場に居なかったイヴァラディジには知る由もないことである。


 魔物たちにとっては強さこそが全て。であればナジェスという天使は魔軍にとってどんな存在であったのか。

交わらずに血を残す程焦がれたのか、或いは。


「俺が眠っていた間、何があったか知りてぇとこだな」


 ナジェスが誕生するよりも遥かな昔。遠い過去において種族間の境は非常に曖昧なものだった。

悪魔が天界を出入りし、妖精や天使たちが人間界で暮らす。そんな時代。


 今思い返せば、大戦が起こる「前」から世界はどこかおかしかった。


 三界の境界がはっきりと浮き上がり、種族の区別がされるようになる。天界はいつの間にか規律と統率の中に飼いならされ、酷く堅苦しい世界へと成り果てた。

魔物であるイヴァラディジからすれば、なるべくして天は孤高になった、といえる。


 そんな流れの中で巻き起こった大戦は、全てを巻き込んで破壊する巨大なうねりのようだった。空が割れ地が裂け、海が蒸発する様は世界の終わりか、はたまた新たなる天地の創造か。


 見る者は嘆き、歓喜し、狂っていった。


 次第に天界と魔界の衝突は激化。人間界すら戦場として使われるようになった頃、イヴァラディジは呪いに絡め捕られ、眠りに就いたのだ。


「知っているだろうが天界は大戦終結後に閉じられ、それきりだ。力を失った吾では扉を開くこともままならん」

「聞きてぇのはその前だ。どうやってあの戦いは終わった?」

「終わるべくして。実のところ、何が起きたのか誰も理解してはいなかった」

「記録は全部天界か」

「紐解けない謎といえば、一番はお前のことだイヴァラディジ。悪魔でありながらカミサマの側へ立っただろう」


 天使族であるナジェスが連合軍を率いて天界へ攻め入る一方、悪魔であるイヴァラディジは神や天界を守らんとする天使族の中に紛れていた。


「魔神が好きな方へ付けと言うからそうしたまでだ」

「魔軍の連中は随分と不満そうであったが」

「それを言うならこっちだって同じだろ。お前はあのとき、本当は何がしたかったんだ?」


 イヴァラディジと交流があった天使族は、総じて変わり者だった。しかし少なくとも、天界を破壊するなどという思想や衝動を、ナジェスから感じたことは一度も無い。


「事の発端、と呼べるかはまだわからないが」

「何か起きてたわけか」

「“転魂”の儀だ。規模が把握出来ていなかった上、調査に割ける時間も残ってはいなかった」

「ベリトネールに手伝わせりゃ良かったろ」

「ベルナに言う必要などない」

「お前の副官だろうが。……ああ、なんだお前、段階をすっ飛ばして連合軍を掌握したな? 名目は『調査』といったところか。お前にしちゃお粗末な立ち回りじゃねぇか、根回しもせずに」

「いや吾はよくやった方だ」

「ハッ、どうだか。まァ大戦じゃ犠牲者も類を見ない程に出た。禁術に縋る奴が出て来てもそうおかしくはねぇ」

「眠っている間に思考力が落ちたようだなイヴァラディジ。わからないか? 大戦『前』に一度、儀式が行われていたのだ。だからこそ、吾が動かざるを得なかった」

「どういう、ことだ」

「さてな。不完全な術式であったことは間違いない。あれでは儀式にかけられた対象者は何も覚えていないだろう」

「“転魂の儀”は魂の記憶をそのままに生れ出る、だったか。なら失敗だな」

「そこで使われたのがテージェルの魂だ」



『兄上』



 イヴァラディジの脳裏にラーミェルの声が蘇る。なるほどテイザとは、「テージェル」という天使が転生した姿らしい。


「思い当たることがあるようだな」

「“転魂の儀”とわかりゃそれなりにな。例えばコイツだ」

「その少年か。さて誰であろうか」

「起きてる間に見りゃ嫌でもわかるぜ」

「では次回を楽しみに待つとしよう」

「二度と来るな」


 グルル、と低く唸るイヴァラディジにナジェスは一つ肩を竦めてみせた。


「んなことより首謀者はどうなった。お前が調査したんだろ」

「それがな。今を以てして追っている最中だ。これでも既に三度死にかけている。奴らは狡猾だ」

「なら、お前一人で追うには無理があるんじゃねぇのか」

「そう考え弟子を取った」

「弟子」

「ファリオンという名だが、さて、聞き覚えは?」

「……ってことはなんだ、お前が預言者とかいう胡散臭ぇ野郎か」

「地上において権力というのは何かと便利なのでな。いや、天界であっても変わるまい。あれは確かネメセルの泉で──」

「いつの話をしてんだテメェは」

「あの日々は特に鮮明だ。忘れようもない」


 「お前もそうだろう」とナジェスは言うが、イヴァラディジの記憶は今もなお欠けている。呪いは秘匿すべきだと判断し、牙を剥いた。


「仕組みさえわかりゃインチキだな。古くから世界を見てりゃ大抵のことは予想がつく。根拠ある予測を予言として授けたんなら、さぞかし的中率も高いだろう」

「権力者なるものは常に『先』を知りたがっている故。──お前には縁なき話ではあろうが、地上に『現れた』魔王との接触は控えるよう忠告しておこう」

「さっきから何なんだその魔王ってのは。魔軍に紛れてた連中とは違うのか」

「戦うな、と言っているのだ。牙を仕舞え」

「顔を合わせりゃそうなるのが自然の摂理ってもんだぜ」

「魔物どもの本能は理解しているが、これは均衡の問題だ。特にこの国は今、地盤が緩い」

「役職から外れたってのに随分仕事熱心だな。給料は出てんのか?」

「無論タダ働きだ。だがわかるだろうイヴァラディジ。大戦に、転魂の儀。どちらも捨て置くことは出来ん」

「ああよくわかってるぜ。身に染みて、痛いほどにな」


 「大戦」によってイヴァラディジは全てを失った。文字通り。肉体を含む全てだ。

焼ける天空に堕ちた羽根、掲げられた剣に向かい失ったモノを叫び続ける「英雄」の姿が今は鮮明に見える。


 天界に在ったカミサマはその動機を深く理解し、そして。


 抵抗も攻撃もしないまま受け入れた。意味のないことであるが故に。


「手を取れイヴァラディジ。この因果は現代ここで断ち切らねばなるまい。意に介さぬ復活は冒涜である」

「……仕方ねぇな」

「約束はここに生った。これは契約である。『今ある命終わるとき、全ての謀りを無に帰す』」


 文字の羅列、術式の構築。魔法陣が形成される中、魔物たちは互いに誓いを立てた。

魂に深く刻まれる覚悟を。


AZアズ―始まりと終わりにかがやきは存在する―」

GAゴガ宇宙そらはここに在り―」




「「―我は貴方と共にいきる―」」




 魔法陣が魔力の流れを狂わせる。呪いの一部が瓦解して行き、イヴァラディジに幻影を見せた。

それはよく見知った景色。天使や魔物が、対極な存在であっても明確に対立することはなかった時代の姿。揺るがされた根幹と因果の時。果てを知った理想郷の有様。


『また禁止区域に入っただろう、イヴァラディジ』

『それは天使族の決まりだろ。悪魔にゃ関係ねぇ』

『一理あるか』

『何を言っているんだナジェス。二人ともそこへ並べ。私が怒っているのはイヴァラディジのことだけではない。お前のこともだ』

『はて』

『また勝手に天界を抜け出しただろう。只でさえ私たちは“異端”として鼻つまみ者だ。目立つ行動は控えるように! ────からもなんとか言ってくれ!』


 不満げに腕を組み、その気の強さがわかる表情で女……ベリトネールはナジェスとイヴァラディジを睨み付けた。

彼女は隣に居た天使に二人の所業を告げ口する。


 整った顔立ち、流れる髪。とりわけ目を引くのは、星の煌めきを宿した瞳である。言葉も表情も穏やかな────は、ベリトネールをなだめつつ二人を諫めた。


 イヴァラディジ、ナジェス、ベリトネール、────、そして、テージェル。

悪魔を交え、天使たちはいつも世界の片隅にあり、共に時を過ごしていた。



『もう天界ここには居られない』


 こう言い放ったのはナジェスだった。

雪崩来る魔物たちの中に天使や人族が入り乱れる。これに立ちふさがる天使軍の中には、少しの人族に混ざり妖精や動物たちの姿が見えた。


 開戦後、連合軍を率いたナジェスの前へベリトネールが躍り出て、大きく叫ぶ。


『何故』


 そう、何故。


 穏やかな日々を過ごした心地の良い陽だまりは蹂躙され、見る影もない。煤けた灰が漂う中を、イヴァラディジは駆け抜けた。

ナジェスとベリトネールが剣を交え、その終わりを見届けることなくひたすらに────の姿を探す。



『何を、しているんだ』


 やっとの思いで見つけた彼女は、カミサマの椅子に座っていた。これの意味することといえばそう、「身代わり」である。


 彼女は、────はイヴァラディジを正面から見据え、無情な言葉を投げかけた。


『今ここで悪魔アナタ天使ワタシを殺せば、全て終わるでしょう』


(終わりを望むのか。ここに永遠などないと。お前がそれを言うのか)


 悲鳴のような叫びが木霊した。これは、イヴァラディジの声だ。


 逃げよう。逃げてしまおう。そうすれば俺も、お前も、自由だ。


『一緒に』


 来いと手を差し伸べても、彼女が同意することなどあり得ない。イヴァラディジはそれをよくわかっていた。


『こんな不自由な世界など捨ててしまえ』


 それまで一度も使ったことのない能力を。甘い毒を。意思の鈍る誘惑を。全ての力を以て、イヴァラディジは指を伸ばす。必死に、捨て身で、喉を焼きながら。


『無機質で、どこまでも白いだけ。異物を嫌い拒絶し、そうして弾かれたのが俺たちだ』


(だからテージェルも死んだ)


『この世界にとって俺たちは、排除されなければならない存在だ。切り捨てられるのを待ちながら腐って行く、それだけの命』


 彼女の護りたい場所、守って来たモノの全てをイヴァラディジは否定した。所詮悪魔なのだと改めて思い知る。どれだけ世界に馴染もうとも、悪魔は悪魔のままだ。


 それでも彼女はもう一度笑って見せる。手を伸ばす悪魔を笑顔一つで拒絶する。


『だからこそよ、イヴァラディジ』


 扉が開いた。誰かが駆けて来る。たった一人で向かって来る。


 振り上げられたものが光に反射し、それが剣先であることを理解した。手は届かない。どれだけ伸ばしても。床に縫い付けられた、無様な悪魔。




『キシアラ』




 確かにその瞬間、イヴァラディジは彼女の名前を叫んだ。キシアラ。切り伏せられた命。……その先は、覚えていない。

ただ長い長い眠りに落ちて、呪いが記憶を糧に増幅していく。そうして一つ一つを取り零し、残ったのは悪魔としての自我のみだ。


『うっ、ひっく、うう、うぇぇ』


 その日、イヴァラディジは泣き声に引きずられて目を覚ました。魂が繋がっている、悪魔ではないもの。


(ああうるせぇ、みっともねぇ。泣くのをやめろ)

『君は誰?』

(誰。誰? 誰だろうな。お前こそ誰だ)

『キサラ。キサラだよ』

(キサラ。キサラ……? ああ、なんだったか。そんな響きをどこかで聞いたことがある)


 喉が痛い。目頭が熱い。肉体などないのに。


(……そうか、これがお前の身体の感覚か)


 もう泣くな。泣くな。この痛みは酷く、心を乱す。


〔死ぬな。死ぬな、死ぬな、死ぬな、死ぬな!! 死ぬな! キシアラ〕


 悪魔は泣いたことが無い。泣いたらそれが命の終わりであるからだ。であればこの感覚はそう、子供キサラのものである。


〔死ぬな! ああ、あぁ、目を開けろ、まだ、まだ助かる、生きていろ 息をしろ キシアラ、キシ─ラ、キ──ラ、────〕


 やがて小さな肉体に押し込まれた悪魔には、キサラが泣く度に叫びが聞こえるようになった。

誰かの「さけび」が。



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