37. 瘴気の先
コロコロコロ、とキサラの足元に魔獣の角が転がって来た。視認出来る程強い瘴気が放たれていたので二、三歩後退してから魔獣たちを観察する。
角の折れた魔獣の上に居る生き物は兎に似ているのだが、よく見ると所々違う。長い耳に、大きな目。しかし目は横ではなく真正面についており、肉食獣と同じ特徴が見られる。チラと肉球も見えたので、兎そのものではなさそうだ。
(とすると、魔獣同士の仲間割れ?)
「はぁ?!」
兎に似た魔獣はキサラと目が合っても襲って来なかったが、何か気に障ったらしく激しく足を上下し始めた。怒りに任せて地面を蹴るのに合わせ、耳がひょこひょこと動く。
「こんな野良と一緒にすんじゃねぇ!」
勢いよく跳躍し、その魔物は近くに居た他の野良を簡単に倒していった。先程キサラに襲い掛かって来た魔獣は、折れた角の前で鳴きながらひょこひょこと跳んでいる。
一体、また一体と倒していくと、さすがにふわふわの魔物は警戒され始めたようだ。魔物たちがやや距離を取ってキサラたちを窺うようになると、「こんなもんか」と言いつつ腰に手を当てた。仕草がまるで人間のようである。
「おい、目を見せろ」
「今?」
「取って食やしねぇよ!」
急かす様に言われたので、仕方なくしゃがみ込んで目を合わせる。間近で見る赤い目はますます燃えているように見えた。
こんな不思議な目は、見たことが……
「赤目」
「ア?」
「もしかして、“声”?」
「今更だな。お前なんだと思って指示に従ってたんだ」
「でも、僕たちは呪いでくっついてたんじゃなかった?」
「そのはずだが、マァ詳しいこたァ紫瞳に聞けばわかるだろ。なんせこの肉体を用意したのは奴だ」
それにしても何故小動物の姿なのだろう。こういってはなんだが、粗暴な口振りなので全く見た目にそぐわない。
キサラの目を食い入るように見ていた「赤目の悪魔」は、ふわ、と僅かに耳を垂れさせた。目を閉じてジッとしていると、可愛らしい小動物にしか見えない。変な話だが、どこか寂しそうに見えて来た。
「大丈夫?」
「あァ。俺は、お前がオマエである故に留まる。それだけ覚えとけ」
「えっと、それって何のこと?」
「わからねぇならそれでいい。わからねぇままでいろ」
赤い目が僅かに揺れたかと思えば、そのまま顔を逸らしてバルセルゲンの方へ叫び出した。
「よう、そこの騎士崩れ! お前が一番強そうだが、ここには詳しいか」
「……キサラくん、ソレは何だ」
「ええと、何だと言われると僕にも何だろうなっていうか、あぁーと、悪魔? みたいです。あっ、えっと助けてくれたので大丈夫です!」
姿勢からして、バルセルゲンは武器を握り直しキサラの傍へ駆け寄ろうとしていた。慌てて敵ではないことを伝えるが、怪訝な表情で返される。
そのまま周囲の魔物を五体程叩き伏せると、今度こそ距離を詰めて来た。
「ここに詳しいか、だったな。私にとっては長年の勤務地だ。他よりは熟知している」
「なら案内はお前に任せるか」
カパ、と悪魔が口を開けた瞬間、その場に居た全ての魔物たちの顔がそちらへ向いた。次いで燃え盛る双眸に睨まれ、交戦中だった魔物たちまでジリジリと後退し始める。
明らかに怯えた様子だが、一睨みしただけで殺気などは感じられない。人間には理解出来ない要素が絡んでいるのだろうか。
「ぐるる……」
「お前らは歯向かう相手を理解してねぇようだな。これだから人間界生まれの魔獣は困るぜ」
「ぎぃ……フシャー」
「うるせぇよ」
ダン、と悪魔が一歩足を踏み込むのを見た途端、魔物たちは一斉に逃げ出した。今度こそどういうことなんだとバルセルゲンに詰め寄られたが、キサラにだって何が起きたのかわからない。必死に手と首を振って自分は無関係だと主張した。
バルセルゲンを始め、テイザやジェリエも警戒を滲ませる。辺りには緊張感が漂っていた。
「さて露払いはしてやったぜ。キサラ、肩貸しな」
「それは良いけど。うわ、ちょっと重い」
「何言ってんだこんぐらいで。いっぱい食って肥えて鍛えろ」
「それより君が痩せれば良いと思うんだけど」
「んだと? この無駄のない肉体に文句付けようってのか」
「気に入ってたんだごめん」
それにしても足癖が悪い。不満に感じることがあればすぐに足が上下する。キサラの肩に乗っているというのにまるで遠慮のない動きだった。
「そうだ。疑似空間から戻ったってことは、名前はもうわかったんだよね?」
キサラがそう尋ねると、ふわふわの悪魔はぐい、と耳元に顔を寄せる。片方に重さが偏ったので、キサラは悪魔が落ちないように体を捩らせた。
「イヴァラディジ」
小さな囁きのような声だった。それが、キサラと魂を隣り合わせた者の名前。燃えるような目を他に知るはずもないのだが、どこか懐かしい響きを持っている。
「イヴァ」
確かめるように名前を呼ぶと、肩から飛び降りた悪魔、イヴァラディジがキサラを見上げた。
「イヴァ。お前は、そう呼ぶんだな」
今、どこか淡々とした声の中に何かが混じっていた。しかしキサラがその正体を掴む前に、話は進んで行く。
「見ての通り俺が軽く追っ払ってやったが、あくまで一時凌ぎにしかならねぇ。人族ごときが一体どんな大それたことをしたかは知らねぇが、奴ら随分とお怒りのようだ」
「あれだけ怯えて、また来ると?」
「小物どころか低級が控えてるぜ。中級が集ったら終わりだな」
「まるで来るのが決まっているかのような口ぶりだな。結界が無いとはいえ、わざわざここへ来る理由などないはずだ」
「ハッ、冗談だろ? お前ら一切感じねぇのか? 腹の底から不快感を煽る、強烈な“穢れ”を」
バルセルゲンが何かに気付き、両手でイヴァラディジを抱え上げた。これには嫌そうに足を動かすが、ビクともしない。
「チッ、俺が元の姿に戻ったら覚えてろよ」
「この際正体がなんであるかは関係ない。“穢れ”とやらはどこに居る」
「ふん、そんなことより大事なことがあるぜ騎士崩れ。俺を抱えたままキサラから離れたりしてみろ、アイツは死ぬぜ」
どういうことかと詰め寄ったテイザを制し、ジェリエがいっそ移動をしながら話をするべきだと提案した。
イヴァラディジの指示に従い全員が走り出す。今回はキサラがバルセルゲンに抱えられての全力疾走だ。
「方角は、あー、このまま真っ直ぐだ」
「なら近道を行く。最短はここだ」
「こんなの道じゃないだろ!」
「まあ、壁とも言うな」
君たちは木を伝って登りなさいと言い、バルセルゲンは地面を蹴って、木の幹を蹴り、壁を蹴ってまた木を蹴り、壁の上まで指の一本も使わずに登り切った。
「あのジェリエとかいう野郎から聞き出してぇことは山ほどあるが、質問は一つにしておいてやる。アイツは一体何なんだ」
「本人に聞いてよ」
「いやですねー、見た目通り人畜無害なその他大勢ですよー。少しだけ人と違うモノが視えるってだけですからー」
「馬鹿みてぇに耳も良いと来た。で、キサラが俺と離れた途端死ぬっつー話に、お前だけ納得してたな? 何が見えてる」
「そうですねー、キサラくんと貴方が鎖みたいなもので繋がっているのがはっきりと視えますー。これってー、結び付いてるのは魂同士ですからー、引っ張られて抜け出るのは魔力を持たない人族の方だと思うんですよー。肉体から魂が抜け出た状態ってー、死者以外にないですよねー?」
ジェリエは以前にもキサラや、イヴァラディジにすら見えないモノを認識し、触れることさえ出来る様子だった。返答を聞き、イヴァラディジの鼻先に皺が寄る。
「キサラくん、君は悪魔と繋がっているのか? いや、それよりも」
バルセルゲンは困惑したようにキサラへ問いかけ、そしてジェリエを見た。一体彼は何者なのか。
その場の全員から視線を集めていることに気付くと、ジェリエは自分の目元を指でなぞった。
「目だけは良いんですよねー。実は生まれつき視力がなかったんですよー」
「お前を見ている限り盲目には見えねぇが」
「借り物なんですよー、コレー」
「でもこれ見え過ぎちゃってー」と言いながら、ジェリエは人差し指と中指を顔の前で曲げて見せた。まるで誰かから
どういうことかと聞く前に、ジェリエも木を登りだした。そうして上まで上がり、木の枝から跳び上がる。やや飛距離が足りなかったジェリエの腕を掴まえ、テイザが一気に引っ張り上げた。
「後で詳しく聞かせてもらうぞ」
「今話した以上のことはわからないんですけどねー」
目的地はそう離れていなかった。否、バルセルゲンの案内があって強引に突っ切ったため、あっという間に到着出来たのだ。
そこではうめき声が複数上がっており、異様な空気に包まれている。バルセルゲンは後方から追って来るテイザとジェリエを腕で制止し、イヴァラディジは地面に飛び降りた。
目の前には、先に進むのを躊躇するほどの黒い靄が、壁のような密度で漂っている。
「酷い瘴気だ。どうしてこんなものが」
「外から持ち込まれた“穢れ”の影響だな。呪われた異物にゃ魔物が自然と纏わりつくもんだ」
「これを目指して侵入したのか。しかし、ここは森の中だぞ」
「森ね。精霊や妖精の領域だと言いてぇんだろうが、人族が住み着いた領域は当然清浄さを失う。“精霊の加護”は、『人族の領域』に成り果てたここにはもう届かねぇ。自前の結界もねぇなら、瘴気を阻むものは皆無。早い話、無尽蔵に広がり続けるぜ」
森の中で瘴気が発生した場合、“精霊の加護”が及ぶ範囲のため、その被害はごく小さな規模で留められる。しかし鉄を用いた人工物である監獄塔に、その恩恵はない。このまま放っておけばいずれ敷地内全てが瘴気に覆われるだろう。
向こう側の景色も見えない程濃厚な瘴気。中から聞こえる声は“穢れ”のものだという。
「気配からして“穢れ”は四体。……ンン? 瘴気の中に人族が居るぞ」
「この中にか?! 一体どこだ」
「おいおいやめとけ、何の準備も無しに飛び込んだらすぐに死ぬぞ」
「しかし!」
「見てわかんだろ? 長時間“穢れ”が留まった結果が、人族にも可視出来る濃度の瘴気溜まりだ。もう手遅れだろうぜ」
高濃度の瘴気が漂う中、人間が生存出来る確率は極めて低い。イヴァラディジは不意にキサラを見上げると、「ア゛ァ゛」と不機嫌に唸ってから瘴気の前に立った。
「来い、キサラ。俺から距離を取るな」
「危なくない?」
「瘴気なら毒抜きすりゃ元通りだが、俺から離れりゃお前は即死だぜ」
「後ろでも良い?」
「せめて横に立て」
言うが早いか、イヴァラディジは大きく口を開いた。そのまま靄のような瘴気に噛みつき、一帯の淀みをごっそり削ぎ取る。人間界の瘴気とは、魔界の空気とほぼ同じらしい。通常漂うそれよりも遥かに濃い、魔素の塊なのだとか。
「お腹痛くならない?」
「人族の腹と一緒にすんな、魔物にとっちゃ毒でも何でもねぇよ。あー、お前たちの言うところの食事と大して変わんねぇからそんな顔するんじゃねぇ。魔力の補給みてぇなもんだ」
「食べてるときの顔が怖い」
「悪かったな」
ゴウ、と音を立ててイヴァラディジの体が燃え上がった。傍に居るキサラには、不思議と熱く感じない炎だ。
揺らめきの中から狼によく似た動物が現れ、キサラは思わず後退った。デカい。牛と並んでも劣らないであろう大きさである。
「何を呆けてやがる。要は瘴気が無けりゃ良いんだろ?」
「だが、君は魔物だろう」
「可愛い動物にでも見えたのか? 尻尾なら振らねぇぞ」
「いや、ありがたい、ありがたいことなのだが、何故人間の救出に助力するのかわからず、混乱している。キサラくんはもしや召喚士なのか」
「契約なんざ結んじゃいねぇよ。お前は何か勘違いしてるようだが、俺は魔力の補給がしてぇだけだ」
そのまま前へ進もうとしたイヴァラディジだったが、ピタリと足を止め、めんどくせぇとぼやきながらキサラの方へ向かった。背後にサッと回り込み、鼻先でキサラの体を一気に押し上げると、そのまま背に乗せる。
「ちょ、ちょっと待って。僕馬にも乗れないんだけど」
「良かったじゃねぇか。俺は今この通り、狼だ」
「いや大きすぎて。足で挟んでも良い?」
「それで転がり落ちねぇならな。お前らは適当に走れ」
歩幅の広いイヴァラディジは、駆け出さずともぐんぐんと進んだ。瘴気を食べながら進むため、その後ろをバルセルゲンたちが進んでも問題はない。
「中央塔へ殺到している魔物の中に、例の『よくわからねぇ』のが混ざってるぜ。敷地内には上級の魔族が二体。瘴気なんざ問題にもならねぇな」
中央塔に攻撃を仕掛けていたのは、イヴァラディジの言う「よくわからないモノ」らしい。一際大きい咆哮の正体がそれである。
「小物程度しか入り込まないって言ってなかった?」
「敷地内に居る強力な個体は、魔族を含んで三体だ。言わなかったか?」
「いや初耳……あ、あれ!」
「一、二、三、四、あの辺が“穢れ”だな。端でグッタリしてんのが生身の人族だ」
「“穢れ”と言ったか? 服装からして騎士のようだが」
「原因も素性も後で探れ。あの人族、瘴気の浸食が激しいぞ」
奇妙なことに“穢れ”たちは揃って縛られていた。一番端の人は顔色が真っ青で意識もない。バルセルゲンは手早く縄を切り離し、辛うじて呼吸がある男を背負う。そのまま騎士の隊服を着た者たちの顔を確認し、表情は険しくなっていった。
「彼らは先日死んだと聞かされたのだが」
「死んだ、で合ってるぜ? コイツらは毎日死に続けている」
「それは不死者ということか?」
「そういう呪いってだけだ。術式が上手く編み込んである」
「そんなの、どうしたら解けるんだ?」
「良い質問だな、テイザ。死に切るまで生命には戻れねぇ。解除不能の“裁き”だ」
矛盾しているようだが、何度も死んで初めて生者に戻れるという術式だ。充満する瘴気は尚もイヴァラディジが食べ続けているが、“穢れ”から絶え間なく溢れ続けている。
「強力な呪いだ。こうまで瘴気が溢れるか」
「対処法は」
「見てんだろ? 瘴気を常に吸え、俺みたいにな」
「無茶を言うな赤目」
「待って兄さん、出来るかも」
「人間には毒だぞ?」
「違うよ、僕が吸い込むわけじゃない。瘴気を常に吸い続けるのなら、ちょうどいいものがあるんだよ。イヴァ、この騎士様たちを運べる?」
「おいおい妙なものを拾うな。お前の悪い癖だぜ」
「ハドロニア様、案内をお願いします」
「それは良いが……流石に森へは出せないぞ。精霊の怒りを買う」
「魔法陣ですよ、ハドロニア様」
魔力を吸い上げる魔法陣なら、瘴気だって吸い取るだろう。何せ魔力も瘴気も、分類こそ違うが「魔素の塊」であることに変りないのだから。バルセルゲンは合点がいったようで、こちらだと先導を開始した。
既に中央塔の内部へ、魔人が入り込んだとも知らずに。
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