18. 夢路
宙に浮いていると認識するのに時間が必要だった。ああ、夢だと気が付いて地面に降り立つ。
空は青くもないし雲も浮かんでいない。どこまでも続く世界には視線にぶつかる物が何一つなかった。
そうしてジッと立っていると、子供の泣き声が聞こえて来た。緩慢な頭を振り、体をそちらに向ける。
遮蔽物は何一つないが、子供の姿は見えない。
「タスラ? シーラ?」
泣き声が響く度、足を進めるごとに頭が痛む。「二人はこんなに小さな子供だっただろうか」という疑問も浮かんだが、唐突に燃え上がる炎が現れてそれどころではなくなってしまった。
熱い。轟々と音を立てる火を前に、大きな人影が見える。アレは何。アレは誰。
〔おいおい、お前にはまだ早いぜ〕
声がして、地面ごと世界がぐるりと切り替わる。驚いたのは一瞬で、すぐに気にせず歩き出した。
(何を目指していたんだっけ?)
考えに気を取られていたせいか、キサラは急に転んだ。何かに強く押されたのだ。
視線を下げれば自分の手や腕や、足まで小さくなっている。キサラは小さな子供の姿だ。
いつの間にか数人の子供たちがキサラを囲み、蹴りだした。
『お前なんて居なくなればいいんだ』
追撃は止まない。
〔やり返せよ〕
不機嫌な声が辺りに響く。ただそれが聞こえているのはキサラだけだった。
この声が自分にだけ聞こえるからこそ、キサラは「変な子」という不名誉な評価を受け入れた。兄も村人も魔女ですら拾えない声。
キサラはその場で丸くなった。小柄なために家仕事だけで手一杯なキサラは、怠け者だと詰られ面倒ごとは何でも押し付けられる。
『楽しそうだなお前ら』
『テイザ!』
全員の動きが止まった。兄の顔には表情がない。
『キサラ、帰るぞ』
年齢が一つ二つ上というだけでも体格は随分と変わる。囲んでいた子供たちは悔しそうにキサラを睨みつけて走り去って行った。
この日、地面に倒れ伏したキサラを抱え起こした瞬間、兄は弟にとっての英雄になったのだ。
たった一人の味方の腕にしがみつき、痛みをやり過ごす。
『キサラ、痛かったな。兄ちゃん、気付いてやれなくてごめんな』
背中へ添えられた腕に僅かに力が籠る、それだけでキサラには充分だった。家族が居れば貧しくても構わない。他の誰に害されようとも。
古い傷も新しくついた傷も全て見られた。いつも通り自分で処置を施そうとして、兄が気付いたのだ。
キサラは無邪気に言った。「自分で全部出来る」のだと。誰にも迷惑をかけずにやり遂げられる自分が誇らしかった。
だから兄が顔を顰める理由がわからなかったのだ。いや、今ですらキサラはわかっていない。
塗り薬を奪うように取り上げて、テイザはキサラの手当てをした。
「痛くないか」と気遣われることが、自分を認識してくれているようで嬉しかったのをよく覚えている。笑いながら「全然平気」だと嘘を吐いた。
それ以来村の人達の反対を押し切って、兄は本格的に働き始めた。村の中で働くのとはわけが違う。外にまで仕事を求めて出て行ったのだ。
少しずつ村の人達に援助として受け取ったお金を返していく。そのために出来るだけ高くお金がもらえるところを見つけて働いたが、それは危険の伴うことだった。兄の覚悟にはどれだけの勇気がいっただろう。いくらキサラが自分もと主張しても聞き入れられることはなかった。
保護者であるテイザからの許可が無い限り、キサラは村から出られない。兄の目を盗んで暴行を加えられそうなったことは何度もあったが、赤い光が視界を覆うようになると、理不尽に絡まれることもなくなった。
だからキサラが恐れるのは兄が時折見せる冷たい目だけだ。背に向けられる視線には明らかな憎悪が籠っている。
物わかりが良いふりをして、我慢していたって良いことはないと「声」が言う。良いことがなくても居場所は出来るのだと返せば高らかに笑われた。広い世界の中、一体誰がお前の存在を禁じることが出来るのだと。
〔なぁ、優しい優しいキサラくんよ。賢いやり方を取ろうぜ。舐められてちゃあ物事は円滑にゃ進まねぇ、価値を示してやるんだ、わかるだろ?〕
キサラだけの話し相手は図々しく達観していて、物事をいつも俯瞰で見ている。まるで観客のように座ったままあれやこれやを語り、時折文句を飛ばして来る。しかし心細いときに聞こえて来ると気が紛れるのでキサラにはとてもありがたかった。
「声」の存在があったから乗り切れたのだ。そう納得する頃にはすっかり体も成長し、元通りのキサラの姿になっていた。
〔好き勝手生きようぜ。誰も気にせず、何にも縛られず。許されるはずだろう、一度くらい〕
そそのかすような言い方だったが、自分の願望をただ口にしただけではないように思えた。覇気の無いそれは、随分前に聞いたきりだというのに強く印象に残っている。
「キサラ」
夢を見たのはそこまでだった。
呼びかけられて目を開くと、テイザが心配そうに覗き込んでいた。
「キサラ、大丈夫か」
寝起きのぼんやりとした頭で考えられることはそう多くない。僅かな揺れと居心地の悪さから馬車の中であると気が付いた。熱はないかと額や首元に手が添えられ、タスラとシーラがひょこりと顔を出してキサラの様子を熱心に見ている。
体にかけられていた毛布から片手を引き抜いて、軽く振る。本当は「大丈夫」だと言いたかったのだが声が出なかった。
〔軟弱だな〕
頭の中で声が反響した。そのまま長々しい説教が始まる。軽く指で耳を抑えてみたが説教は止まらない。
チラとテイザの反応を見てみても、「声」が聞こえている様子はなかった。
〔軽率な行動を取るな。一人になるのはもう止せ〕
魔物と戦う術がないのなら魔女の後ろに隠れていろだとか、羽根、正しくはエルフだったが、彼を追って森に入ったのも危険な行いだったという忠告が続く。
確かに、魔獣や魔木に遭遇して生き残れる状況というのも稀だろう。これでも反省はしているのだ。人に言われるのが嫌なだけで。
(次からは、気を付けるよ)
〔どうだかな〕
(それよりも気になっていたんだけど。アナタは、誰)
夢に見たせいか「声」のことが無性に気にかかる。少しの間を空け、知ってどうするのかと返された。
〔今まで通り『声』とでも呼んでれば良いだろ〕
(そう、気長に待つよ)
〔案外諦めが悪いじゃねぇか、面倒臭ぇ〕
(それにしても今日はよく喋るね。いつも一言二言なのに)
〔供給があったからな〕
(供給?)
その日の「声」は普段に比べ随分と饒舌だった。一方的にキサラへ言葉を投げかけて終わり、というのが常であるのに対し、会話としてやり取りが続くのは珍しい。
そうしている間にテイザによる検温などが終わった。腕や足などに痛みはないかと確認され、打撲や擦り傷の類はないことも告げられる。
動いて良しとようやく許可が下り、背もたれに預けていた体を起こすと知らない人がキサラを見ていた。座席の横、荷物に隠れて死角になっていた場所だ。
「初めましてキサラくん。私はファリオンと申します。この度ご一緒させていただくことになりましたので、どうぞよろしくお願いします」
「あ、はい、えっと」
「あらキサラくん目が覚めたのね」
慌てているとシュヒアルから声がかかった。ファリオンの隣の座席に座ると、元気そうで良かったと続く。
ついでに先程まで置いてあった荷物は魔法で後方に飛ばされた。
「そういえば僕の服」
「水浸しだったから着替えさせた。川縁に倒れていたんだが、落ちたのか?」
「海になら落ちたけど」
「こんな内陸に海、ですか。おかしいですね、そうと錯覚するような湖も泉もこの付近にはないはずです」
「キサラくん、まさか本当に“精霊の穴”に落ちたの?」
確かにナキアと対面した場所は“妖精界”としか思えない。いつの間に、どうやって落ちたのかは記憶にないが恐らくそうだと頷いた。
「“精霊の穴”なんてよく言うアレだろ、『悪いことをしたら妖精に落とされるぞ』っていう」
「ええまぁ一般的には言うことを聞かない子供への脅し文句よね」
「キサラくんは中々強い運をお持ちのようですね。“精霊の穴”へ落ちた人間がこちらへ帰って来た事例も確認されてはいますが、数日で“戻って来れた”人間は過去一度も居なかったはずです」
「へぇ、実際にあるんだな。アレ」
「最短で七年はかかったかと。あくまで記録上の話ですが」
「「七年!?」」
ザァ、と兄弟の顔から血の気が引く。七年も海に浸っていたら息が出来るとはいえどうなっていたか。
そもそも目が覚めたときにはもう落下していた。帰り道の検討などつくわけもない。
キサラがドッドッドッと早鐘を打つ胸を押さえていると、背中をゆっくりとさすられた。しかしさすっている本人も顔色が非常に悪いので、シュヒアルはあらあらと眉を下げる。
「シーラちゃんやタスラくんは何かご存知ないかしら?」
「ああ、キャット・シーやフォーンは妖精族でしたね」
「えっと、でも私妖精界のことはあまりよく知らないの。教えてくれる人なんて居なかったから」
「僕は生まれがそもそも人間界だから、妖精界って行ったことも見たこともないな」
うーん、と二人は揃って首を傾げた。落ちたときに見た光景をキサラが話しても今度は反対側に首が傾く。
考えてみれば「嘘つき冒険記」に記されていた文章そのままの景色だった。あれが夢でないという確証はキサラの中にない。せめて、ナキアが実在していると証明出来たのなら確信も得られるのだが。
「あら、ワタクシの使い魔が良い場所を見つけたみたいよ。今夜はこちらに泊まりましょう」
馬車はゆっくりと停止した。村や町に辿り着かなかった場合、馬車がそのまま宿代わりになる。扉を開いて食材を持ち出し、早速夕食の下準備にそれぞれが取り掛かった。
「タスラくん、シーラさん。キサラくんの服と荷物があったでしょう。乾かすのを請け負っていただけますか」
「はい」
「はーい!」
ファリオンはタスラとシーラに衣類を託し、二人は腕まくりをして駆けて行く。ちょうどいい枝を探して干し場所を組むようだ。
わざわざ遠ざけるということはこれから聞かれたくない話をするのだろう。全員がそれとなく距離を縮める。
「いわば半人の妖精ですから、我々の知識と差はないのでしょう。人間の血が流れているとわざわざ“なり損ない”などと呼ぶ者も居ますから、爪弾きにされていたとしても不思議はありません」
「酷い話だわ」
「ええ、半獣と並ぶ蔑称ですよ。あの二人は、本当に半成なのでしょうか」
「それはどういう?」
「いえ、複数の血が混ざっているのでは、と。例えば妖精族・エルフと人間の間に子供が生まれたとしましょう。その子は半成ですが、半成が他種族と子を生せば生まれて来る子供は
キサラは不意に、ドワーフのおじいさんが人間を酷く嫌っていたのを思い出した。
人間側だけでなく妖精側も、半成や複有を警戒している。この問題はキサラが思っているよりもずっと、根が深いのだ。
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