15. 落ちた先に


 妙な感覚がした。膜を破るような柔らかな放出。気が付けばキサラは空に投げ出されていた。

強い風に晒され耳にはびゅうびゅうと痛い程の音がうねる。驚いて目を開けば、飛び込んで来たのは声を失うような光景だった。


 遥か遠くの上空。木々がこちら側に向かって伸びていた。


(おかしい、僕は確かに


 キサラはこうしている間も背中から空に向かって落ちている。地面は、大地は上に見えるのに。


 一際大きく聳え立つ木を一目見て「世界樹」だと確信した。誰に教えられたわけでもないのにはっきりと「そう」だとわかる。荘厳な雰囲気に神秘を感じさせる枝葉。圧倒的な存在感に畏怖すら感じた。


 落ちていくことで距離が離れ、全体が良く見える。


 世界樹の周りを囲い円を描くようにして森が広がっていた。こんなときでなければいつまでも見惚れていただろう。

キサラは落下点を確認すべく体の向きを変えた。落下する先にあるのは水面だ。


 恐らくこの広大な水面を、人は海と呼ぶのだろう。光がキラキラと反射して美しい。

海は世界樹と対面するかのようにどこまでも広がっていた。


「かっ……ふ……」


 落下速度が速いせいで呼吸が苦しい。思わず顔を横に逸らしたが首が折れそうに痛んだ。腕を前に出そうものなら弾かれてしまうだろう。何故キサラは今海に落ちようとしているのか。


 やがて視界に世界の端を捉えたキサラは、状況も忘れてそれに見入ってしまった。


 空と海が溶けあう場所。太陽ではない、けれど温かな光が海や空や森を淡く染め上げている。懐かしい。

始めて見るはずのその景色に郷愁が呼び起こされる。幼い頃読んだ本に、この場所は記されていた。


(本に書いてあったあの場所だ)


 キサラが生まれるよりも前のことだ。学者たちが集い遥か昔の文献を集め、一冊の本にした。冒険家を名乗る男の手記が基になっているその本は、彼が多くの場所を旅したことが紹介されている。

彼のごく身近な場所から始まった小さな冒険は、やがて国外にまで足を運ぶようになっていった。未開の地を仲間と共に突き進んでいく冒険譚。


 民衆たちは彼の冒険に耳を傾け楽しんだ。世界を渡り歩いた彼は、最後の旅路でついに世界すらも越えて行く。


 夢を見たのだと人々は言った。異界へ赴いた彼に、気がふれた、老いたのだと落胆した。

彼を尊敬していた周囲の人々は呆れ返ってその冒険を否定してしまったのだ。


 それでも冒険家の男は語った。美しい光景。世界樹の存在を。広がる海がその世界を見渡しているのだと。

彼の死後、後世の人間にすら大嘘吐きだと唾棄されることになるとも知らずに。


 手記を解読した当時の学者たちは妄言だと面白がった。しかし物語としての出来は実に良いと。だからこそ本になり、広まって行った。


 キサラの村では図書館の隅に置かれ、他の誰にも読まれることはなかった。今、まさに書き留められた物語の舞台を目の前にしている。


「妖精界」


 あったのだ。本当に、妖精界はあったのだ。


 海の中に星が落ちているのを確認した瞬間、空に水泡が弾けた。

雲の遥か上、世界樹とその周りの森には妖精たちが暮らしている。森を覆うようにして張られた膜の内側で。


 キサラはぐるぐると回転しながらものすごい速度で落ちて行った。


 あの冒険家は海のことをどのように記していただろう。重要なことがあったはずだと必死で記憶を辿るが、焦りのせいか思考が上手くまとまらない。


 世界を包む温かな光の反対側には大きな尾ひれが見えた。巨大な鯨が空を飛んで、いや、泳いでいる。

王冠を掲げた月の下には星々を拾って宝石に変える巨人が見えた。女神様はきっとあんな姿をしているのだろう。長い髪に蔓や葉で編み込まれた美しい王冠。


 月も巨人も鯨も、この世界にいる精霊王だ。それぞれの傍に妖精たちが楽しそうに舞っているのが見て取れる。


 パシャン。


 あれだけ高い場所から、それも凄まじい速度で落ちてきたというのにキサラは柔らかく水面に抱き込まれた。

衝撃で生まれた水泡が煌めいて星になる。一度水面へ浮かんだかと思えば、キラキラと輝きながら海の底へ沈んで行った。


 キサラは水面から顔を出そうと足掻いた。けれど浮かぶことは出来ず、そのまま星と一緒に流れて沈む。

早く空気を、呼吸をと手を伸ばしたところでふと思い出した。冒険家は海についてこう書いていた。


「『海の中では息が出来た』」


 あり得ないことだ。そう、人間の世界では。


 海の中を見渡せば、人魚が群れをなして大きな魚群を追いかけている。鱗の煌めきに目を閉じると、次の瞬間それらは跡形もなく消え失せた。

ここは人間が追いやった幻獣たちが息づく場所だ。世界樹の傍にももっとたくさんの生き物がいるのだろう。


 稀代の大噓吐きと呼ばれた男が書き記した世界は、そのままの形で実在していた。


 ふと気が付けば胸の辺りがジンジンと熱を帯びて来た。感情の高ぶりから来るものではない。見れば赤と黒が混ざったような色が鈍い光となって放たれている。光を辿れば、それは心臓の辺りから出ていた。

焼けるように痛い。


 藻掻いている内、水面に足が着く。頭が下になっているはずなのに血が上らない。

星は相変わらず海の底へ向かって落ち続けていた。


 ジクジクと痛みが増していく。この不安定な場所で、理解の出来ない世界で、ただ立つだけというのでは心細い。

具体的に誰かを求めたわけではないが、縋るものが欲しくて手を伸ばした。


(誰か)


 キサラが叫びを上げる。水泡が弾けて星が散ると、目の前には手があった。


 差し出すように伸びて来たそれは、包み込むようにしてキサラの手を握り返す。透き通って感触のない指が手の甲へ重なると、何かが流れ込んで来た。

それは全身に広がって行き、光を徐々に抑えて行く。温かな揺れが心地よく、自然と目を細めた。


 重なった指の間から虹が現れる。空に掛かるようなそれではないが、絵の具のように漂って広がって行くと海の青が鮮やかに染まっていった。


 指、手、腕、肩、首を辿って、顔。キサラは紫の瞳を見た。

人型ではあるが、人間ではないだろう。ドワーフやエルフを従えていた光を思い返す。だとすれば目の前に居るのも妖精なのだろうか。


「名は何という」

「え、あ、キサラ。キサラって言います」

「ではキサラ、一体ここで何をしていた」

「何を? ……ごめんなさい、わからないです」

「どこから入って来た」

「気が付いたらもう落ちていて」

「そうか、落ちたか」


 納得したように頷くと手が離れて行った。少し距離が離れれば、やや半透明の体に黒髪が見える。


「あの、貴方はこの海に住んでいるんですか?」


 パチリと一つ瞬いて、そのヒトは顎へ手をやった。


「妖精に見えるか?」

「エルフの方かと。だって妖精界に居るのは妖精でしょう?」

「キサラは人族のように見えるが」

「あ。それは確かにそうですね。え、じゃあ霊体なだけで人間とか」

「さぁ、なんであろうな」


 妙にはぐらかされたので名前を聞いてみると、彼は眉を寄せた。

怒っているというよりは困ったような顔に見える。迷うように視線をさ迷わせた後、こちらをジッと見た。


「名乗る名がない。いや、名乗れる名ではないと言うべきか。だがもし呼ぶのであればナキア、と」

「ナキア?」

「余……私の幼名だ」


 幼名。現在の名は名乗れないらしい。種族を隠されたことと言い、妖精界の妖精は秘密主義なのかもしれない。


「ナキアさんはここで何を?」

「敬称は不要だ。ナキアと、先程はそう呼んだだろう」

「いや、あれは」


 確認のための呼びかけだったのだが、申し出を拒む理由も無い。何より咎めるような目で見つめられるとこちらが悪いことをしているような気分になってしまう。

戸惑いながら頷けば「良し」と返された。拘りと押しが強い妖精だ。


「ナキアさ、いえ、ナキア。助けてくれてありがとうございました」

「大したことはしていない。それよりも」


 ギュル、と何かが巻き取られるような音がした。次いでバチリと鈍く嫌な音が響いて、胸の辺りからまた禍々しい光が放たれる。


「ぐっ、」


 海ですら呼吸を奪いはしなかったというのに。押し寄せる痛みは容赦なく胸を締め付け浅い呼吸ですら許さなかった。ジワジワと何かを焼いて溶かしているかのような感覚に、耳奥では金属が欠けるようなパキ、パキ、という音がする。

 耐えきれず水面から足が離れた。反転した世界で落ちるのか浮かぶのか、漂いながら体を抱きしめ丸くなる。


「ぅ、ウ、」


 キツく目を閉じた。ナキア、ナキアと近くに居るはずの彼を心の中で何度も呼ぶ。


「古代の呪いか」


 呆然とナキアが何かを零した。耳に届く頃には意味の無い音になって辺りに離散する。反芻する余裕もなく咳き込むと、波もないのにゆらゆらと揺れて気分が悪い。

 ナキアが耳元で何か言っている。口を開くが呻きしか出ない。


「しばし耐えよ、キサラ。呪いの一部が解けようとしている。今はこれが他の方法よりも確実なのだ。痛みに飲まれるな」


 両の頬が温かい。手を握り返してくれたときのように、ナキアの掌が触れているのかもしれない。意識が痛みからズレていく。

僅かに目を開ければ揺れる視界の奥には紫が漂っていて、一人きりで放り出されたような孤独感が和らいだ。赤と黒に負けない瞳の色は不思議な輝きを纏っている。そんなハズはないというのに、考えのまとまらない頭ではナキアの目が光っているように見えた。


「この世界、妖精界の海は生ける者たちの涙で出来ている。生ける者たちの涙はあらゆるものを中和しよう。毒素も瘴気も、恨みの念でさえも」


 視界の端から黒い靄のような、煙のようなものが漂ってきた。それを辿っていけば、胸から滲み出しているのがわかる。焼けるような痛みではなく実際に焼けているのかもしれない。意識すれば痛みの下からドロリとした感覚が拾えた。

溶けているのは骨なのではないかという考えが浮かぶ。それなら心臓はどうだろう、燃えているだろうか。


「塊さえ溶ければ後はどうとでもなるが、痛みを和らげる術は持たぬ。許せ。今だけだ。今、やり遂げなければならない」


 バキン


 何かが砕けた。赤と闇色を混ぜたような光が一層強く輝き、反射的に閉じた瞼越しでも存在感を放つ。赤の光と黒の靄がナキアを吹き飛ばす程の勢いで放出されたが、目の前の体躯は微動だにしなかった。

それどころか腕を差し出しキサラの体を抱えて水面から上がる。


「ごほ、」


 咳き込んだキサラの口から何かが出て行った。そのまま空の下、水面に立たされる。

遠くから精霊たちや人魚たちが揃って二人を見ていた。

 海の底に沈み静観していた星たちが音を立てて一回り大きくなる。風を巻き起こしながら弾け、煌めきを纏いながら空へ一斉に飛び出すと、世界はあっという間に夜になった。


 間近に見えた紫の中心、円を描いた図形。


(魔法陣だ)


 輝きを纏ったそれが触れそうな程近くに見えた瞬間、また落ちるのだとわかってキサラは瞼を下ろした。



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