14. 輪郭のない男


 アリファスが何度呼びかけても魔王からの返事はなかった。普段であれば気配を拾い、時間から用件を察して自ら部屋を出るのだが。


 分厚い扉なのだから当然かもしれないが、部屋の中からは物音一つ聞こえなかった。

気配を探ろうにも簡易的な結界が張ってあり、探知は出来ない。


「失礼致します」


 入室した時点で誰が相手か言い当てるはずの魔王は、振り返って姿を確認するまで何者か判別出来なかった様子だ。お前か、と言うが体も瞼も重そうである。アリファスが魔王の眠そうな姿を見るのはそれが初めてのことだった。

頭を軽く振ってから瞬きを何回か繰り返し、魔王の表情は常に見る無機質なものになった。


「何をしていらしたのですか?」


 これだけの消耗であれば魔力を大量に消費したに違いない。アリファスは考える間もなく問いかけていた。同時に血の気が引いていく。

確かに、魔王・ダジルエレは配下を使わずとも大抵のことは意のままに出来る。それだけの力はあるからだ。

けれど問題は本当にそうしてしまうことである。等しく配下は「不要」だということが示されてしまうのは好ましいことではない。


 アリファスやディジラウなどの側近という地位に居る者の役割は、単に魔王に付き従うだけの存在ではない。時に宰相や将軍の上に立ち権限を揮う。

最も強い者は将軍に、最も賢い者は宰相に、最も忠実であれば側近に。優れた魔物には爵位を与え、力を与え、そうして栄えるのが魔国である。


 魔王への絶対的な忠誠心こそ側近に求められるもの。


 アリファスの中にはただ途方もない焦りがあった。


 かつて“死の山”から現れた魔族。それがアリファスの正体である。

知能も理性もかつてはなく、ただ魔力が強く人型を取っているだけの魔物だった。


 毎日のように魔物を潰し高らかに死体を積み上げる。戦闘を好むがあまり男性体を選び儀式によって固定したことは言うまでもない事実だった。

魔法陣すら刻めなった身でありながら、今や堪能に文字を操り術式を覚え、側近という地位へ上り詰める。それは並々ならぬ努力が結実してのことだった。



 アリファスの中に初めて自我が生まれたのは、魔王と出会った瞬間だった。特に記憶することもないそれまでの空虚な日常が破壊され、劇的に塗り替わって行く。

現れた黒に。他に類を見ない美しい紫の瞳に。その双眸に一瞥され、「この魔物のために己は存在しているのだ」と悟った。


 それは特別な出来事ではなかった。一つの例外もなく全ての魔物が「そう」思ったのである。


 どれだけ上位の存在を目の前にしても、誰が相手でどんな地位に居ようが従わない。首を垂れることも跪くこともしない。それだけの実力もあったのがアリファスだ。


 声をかけてきたら、目の前を通ったら、「俺」の前に立ったら、呼吸をしたら。首を削ぎ腕を捥ぎ足を捩じって来た。視界に入るものは何でもそうした。

心臓が脈を打ち、魔素が魔核へ溜まり、肺が呼吸をする限り、体は勝手にそう動く。特に疑問を抱いたことはない。他の魔物たちもこれに関しては同じはずだ。


 敵を見れば相手よりも己が強いことを証明する。それが魔物たちにとって「生きる」ということだ。


 アリファスの存在は辺りに知れ渡って行った。腕に覚えのある魔物たちが訪れては命乞いをし、山のように積み上がる。強きを求めて弱きに徹する。ひれ伏す全てが等しく滑稽だった。

 従者も地位も友も繁殖のための番も必要ない。憂さ晴らしの道具は向こうからやって来る。生まれた瞬間からずっとそうだった。身を置く場所は戦いの中にあり、千切って投げて貪る。



 その日は獲物が爆発した。何ということはない規模のそれを、普段であれば軽く避けただろう。しかしそれは連携が取られた攻撃だった。複数の魔物から動きを封じられ、弱き者の自爆が特に効果的な形で影響を及ぼした。

左肩から脇腹が欠け、剥き出しになった魔核を突かれたのだ。


 初めて迫る“死”を前に、アリファスが思ったのは目につく限りを壊さなければならないということだった。やがてその場に居る全てが動かなくなり、静寂が横たわる。


 つまらない、くだらない、退屈だ。指が動けば、足が動けば、口が動けば、魔核が動けば。そうすれば次はもっと上手くやる。戦うための動きばかりを頭の中で追う。

涙を流し切望するような生や未来など、アリファスは持っていなかった。体が動くか、動かないか。それだけの違いに、何を嘆くことがある。


(何だ?)


 空気が明らかに変わった。どんよりとしたそれがピンと張り詰める。

アリファスは戸惑った。桁違いの魔力がすぐ傍に在る。


『お前か』


 立っていたのは得体の知れないモノだった。

気配が読めない。そこらにいる魔物などとは比較にならないくらい、複雑な生き物だ。血が混ざっているのか、それとも。


 声を、姿を見ただけで心の底で恐怖が渦巻いた。そこに在るだけで全てを威圧し、敗北を与え、支配する。魔力の規模もさることながら、気配の奇妙さ、隙の無い立ち姿、何より無詠唱で複数魔法陣を既に配置し終えている。次元が違った。

 魔法陣の複数展開。文字の読めないアリファスには効果がわからないが、その緻密さは今まで目にしてきたどの魔法陣よりも上だ。そして何より、美しい。


『死の山を造ったのは、お前で間違いないな』

『………』

『喉でも潰されたか。聞くより無様な在り様だ』


 声を出すことも息をすることも忘れた。全てを忘れていた。

アリファスの前には一つの存在があるだけ。彼の世界には二つだけ、二人だけ。


 生きたい、このまま死ぬのは惜しい。この魔物のために存在していたのだ。そのために生きてきたのだ。アリファスの体には変化が起きていた。

 全身に血が巡る。欠けている魔核自体へ魔力を押し流し、瘴気を食べながら延命を試みた。すぐに破綻し始めたそれを見て、魔物は零した。


『それでも生きるか。気に入った』


 口の動き、声は脳裏に焼き付いた。

気に入った。気に入った。その音はアリファスにとって、とても好ましく思える。人型の、上級魔族が気に入ったと、そう言った。であれば、そうであれば生きなければ、動かなければ。

 涙を流す魔物たちの心境を少しだけ理解出来た気がした。儘ならない現実というのは実にもどかしい。


 鈍い音と共にアリファスの意識は途切れ、ぐわん、と揺れた音が一体どんな意味を持っていたのか、最早わからなかった。


 後に知る、魔物の称号、魔王。


 名前を告げると興味のなさそうな声音で、形ばかりの返事が返って来る。


 それまでのアリファスは獣と呼ばれていた。人型をとった魔族であるにも関わらず、対話は不可能、理性もない。様式美という言葉を知らず、容赦という言葉を無視し、支配という言葉を理解しなかった。

 魔王に拾われたアリファスは、自分の仕えるべき主人を見つけた。


 文字を覚えた。魔法陣の扱い方を覚えた。喋り方を覚えた。魔王を不快にさせない立ち振る舞いも覚えた。詠唱も覚えた。

躾られ、飼い馴らされる。揺るぎない忠誠を以って、魔王の傍へ駆け上る。アリファスを構成する全てが魔王に繋がっていた。


 与えられたものは一つとしてないが、だからどうしたというのだ。


 敵を倒し、強さを見せる。だが及ばない。魔王の傍にはいつもガヴェラという魔物が居た。ガヴェラには敵わない、勝てない。魔王の隣を彼が望んだのなら、誰もそこへは至れない。

 高貴な者を真似た。どんなに高位の存在に近付いても、口調仕草が変わろうとも、アリファスの本質は何も変わらなかった。


 手に武器を持って。暴れまわる兵士に心躍らせる。

憧憬の名の下に魔王を思い浮かべては、暴れ、壊し、それが忠誠だと信じて疑わなかった。至らない、値しない、不足を補う為に何だってした。

僅かに眉を寄せ、彼が息を吐き、眼を伏せる意味をわからなかったのだ、どこまでも。


「しばらくここへは寄るな。では下がれ」


 魔王の考えること、行動はいつも唐突だ。魔界から人間界へ出てきたときもそうだった。突飛で、いつも配下は右往左往する。疑問を持たず従うのが常であったが、今回ばかりはアリファスもそうだった。困惑。困惑。何故、何故、何故?

根が獣と呼ばれた魔物は所詮、主の考えなどわからない。


「魔王様、陛下、どうかこの、アリファスめにお任せください。必ずや望む成果を上げてみせます」

「誰であっても今この瞬間より立ち入ることを禁ずる。心せよ」


 見れば魔法陣が展開し始めているようだった。風が巻き起こり黒の髪が流れる。

見たこともない術式が次々に展開されているが、魔王は詠唱もしていない。王しか得ることが出来ない紫色の波紋を起こしながら、中心で新たに魔術式を編み込んでいるのだ。


 アリファスの足は、知らず前へ出ていた。正常な判断力があれば絶対にしない行為である。

術式展開用の魔法陣を組み立て中に陣形の中へ入るなどあり得ない。脳が小さい低級の魔物でもしない愚行、本能に刻まれた禁止事項である。

 バチバチと魔力の反発を受けるがアリファスは止まらない。術式自体へ飲み込まれてしまえば何が起こるかわからないというのに、勢いよく駆けた。

全身に鈍い痛みが走り、切り傷が複数刻まれる。血が噴き出しても彼は気にもかけない。


(私のものだ)


 長きに渡って側近として、誰より一番近くで見て来たつもりだ。それであっても魔王の正体は掴めない。気配の謎について一つすら紐解けない。

他国の魔王すら配下へ加えた異色の魔王。歴代でも達せない魔力の塊、力の権化。


 強さが第一の魔物が強さに惹かれるのは自然なことだ。

魔界における王とは、力の証明。王冠とは、強さの証。玉座とは、彼らを飾る台座だ。

至らない。その階段の上には至れない。アリファスにはよくわかっていた。自分は及び足らない場所に居ると。


 だがそれが、強さの一端に組み込まれるのならば、どうだろうか。計り知れない喜びに身を埋めることになる。

そうなれば、自分もまた、王冠を戴くことが出来るのだ。ディジラウなどではなく、自分こそが魔王の隣に並び立ち、強さを得るのだ。


(私にはこれしかない)


 世界にはたった一人しか居ない。魔王。強者。異様な血を持った魔物。それがアリファスに見える世界の全て。



「愚かな」



 そう吐き捨てる魔王に、触れる距離まで顔を寄せた。




 しかし何らかの念を持って触れられたにも関わらず、魔王ダジルエレは無感動にアリファスを打ち捨てた。

負傷こそしているが、すぐに回復出来る程度のものだ。そのまま一瞥もせず寝台へ向かう。


 眼差しに込められていたものが何であるかをそのときようやく悟った。畏怖や尊敬といった、有象無象の抱くそれとは少し異なる歪さ。

それまではどのように隠していたのだろうか。一度気付いてみれば異様な執着を感じる。


(よくもここまで欺けたものだ)


 忠誠という枠組みを外れてしまうのであれば、配下として致命的である。知性はただの装いで、皮さえ剥がれてしまえばどこまでも愚かしい。


 長い歴史の中で数多の魔物たちが地上へ、人族たちに召喚された。

敵対する系譜の没落を望み、富を羨み、名声を欲し、権力に溺れ、愛欲を貪った召喚者たち。そんな中で一際目立ったのが「愛」という言葉だった。

 どんな意味があるというのか。口惜しいことだが、一度もそれを見たことがなかった。

時に財宝よりも価値があり、万病を治す薬よりも尊ばれ、崇められさえする。何がそんなにありがたいというのか。


 愛の名の下に多くの人族が狂い、悪魔に囁かれあっさりと堕ちた。

それは時に天使や神すらも焼き焦がす。


 どこぞの者はこう言ったそうだ。強さの源にすらなるのだと。

魂を囚われ生きたまま喰われ、それでも良いと喜び願う程のものなのか。自身に齎されたことのないもの。得難いもの。

 謎かけのようなものだった。美しく、穢れていて、抱く者を強くもするが弱らせもする。毒なのか薬なのか、持つ者によって大小が違い重みさえ変わるという。

変質的で魔物たちよりも余程気まぐれな移ろいを見せるというのなら、一度くらい飼い馴らしてみようと思うのが王の性というもの。


 だが己に向けられるとなるほど、酷いものだと理解した。


 側近として選出されたあの男はダジルエレにとって好ましい存在だった。力で支配されず、反逆的で歪んだ忠誠心を掲げるモノ。「他とは違う」「面白さ」があった。

思慕の情を垣間見ると殊の外、裏切られたような失望と嫌悪がある。それは配下に求めるものではない。


 後ろでアリファスが口を開く気配がしたが、何を言うでもなかった。

それで良い。こちらが命じ、それに耳を貸し、尽力する。正しい在り方だ。


「先程命じたことは覚えているな。命令を違えるな」


 次はない。寝台へ横たわった魔王の結界はその姿ごと覆い隠し、アリファスからは何も見えなくなった。

次に引っ張られるようにしてアリファスの体が浮き、開いた扉から部屋の外へと弾き出される。同時に寝室の扉は閉じ、幾つもの施錠音が辺りに響いた。


 長い廊下、高い天井。

呆然と立ち尽くしたアリファスの、その姿に気が付いたものは居ない。


「陛下」


 尚も囁く言葉が、呪いのように彼の喉元を侵食していることも。





 ダジルエレは目を閉じた。


 スルリと抜け出て眼下に横たわった己の肉体を見下ろす。次いで星空を思い浮かべた。それはやがて少年の瞳へと変貌していく。


 そもそも飛魂を行ったのは、強力な魔除けの施された城へ向かうためだった。

彼らの扱う力は魔法ではなかったが、古くからの儀式的な祭事には多くの術式的作用が働く。

そこに使われているものが魔力に類するものかどうかは知りようもないが、同等の力が作用しているのは間違いない。


 人族の王が住まう城は、素晴らしい立地にあった。土地から勝手に湧いて出る力を利用して完璧な守りが敷かれている。

大規模な術式が練り上げられた強力な魔除けはダジルエレを以てしても簡単には侵入出来ない造りだった。


 人間界に実現した聖なる領域とも呼べるそれは、人族ごときが住まえる場所ではないようにも思える。元々あの土地は“何”が所有するものだったのか。


 本物のそれには及ばぬとはいえ、仮にも聖域だ。魔物が不用意に入り込めば一瞬で塵になる可能性がある。強ければ強いほど、膨大な魔力故に苦しみ抜くのだ。

だからこその飛魂である。魂というものは種族に捉われない。根底が善であれ悪であれ、それらの形は非常に似通っている。肉体という器、種族は生まれる瞬間振り分けられたものに過ぎないのだ。


 そんな本来の目的も、黒金の種が蒔かれた時点で意味が無くなった。今や星を宿す少年の分析に向かうだけの術である。


 もしも魔王などという役職になければダジルエレは学者になりたかった。自分の足で赴き様々な疑問や謎をその手で解き明かし、紐解き、仮説を実証して生きていきたかった。


 少年につけていた目印を辿ると、以前居た場所から離れているようだ。木々の上を飛び、気配を探る。そこは森だというのに魔物の気配が多く、中には妖精の気配も混ざっていた。


 状況を見るに少年は“精霊の穴”に落ちたらしい。人族の気配がしないわけだ。彼は今妖精界に居る。


 湧き上がって来る高揚を何とか抑える。妖精界など初めて赴く地だ。精霊王の護りによって人間界に比べ侵入の難易度は高い。一度は足を向けた先ではあるが、時間に追われる身分のために断念した過去がある。

入口すら覆い隠され発見は困難を極めるが、どうやらあの少年は招き入れられたようである。

うっかり落ちたのであれば鈍臭いにもほどがあるが、良い、何度でも引き上げよう。

 少年が旅する先へ着いて回ればダジルエレ自身で方向を定めるより有意義なものが見れる。確信めいた予感がした。

彼は、指針だったのだ。人族が進む方向を星で測るように、行く先を占うように、ダジルエレもまた、星に導かれるのである。


 この世にこれを置いて上回る愉快なことがどうしてあろうか。


 肉体がないにも関わらず胸の奥が震える感覚を覚えた。早速妖精界へ赴こうではないか。

魔物が入口から行儀良く入って来るとは、精霊王とて思うまい。



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