第45話 終わりと解放
水に濡れた行衣は、冷たく気持ち悪いものだ。肌に張りつき、見方によっては透けているようにも見える。それほど激しい動きをするわけではないが、水を十分に吸った衣は重く、百合子の呼吸は少し乱れていた。
艶やかな白い肌の胸元が時々露わになり、濡れたさらしの上からその輪郭をはっきりと浮かび上がらせていた。彼女の呼吸に上下するそこに、男たちの視線が集中している。
百合子はこの上ない不快感を感じていた。
歴史ある村の文化やら、聖なる舞やら、神様に捧げる儀式やら……、大人たちは大層な言葉を並べ立てているが、ようは村内外の有力者が
『気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……』
儀式の終わりは近付いていた。百合子は終始うつむき加減で舞を舞っている。彼女はずっと男たちが座っている辺りより少し手前の畳を睨みつけていた。そこを見つめることで、視線を上げずに済むのだ。
ここに集まっている男たちとは1秒たりとも目を合わせないと、彼女は心に誓っていた。
生贄の儀を終えた百合子は、身支度を整え、更衣室代わりに使っていた神社の一室で小さなストーブに当たっていた。この時期であっても、温度の低い水に濡れた服を長時間着たままでいると体温を奪われてしまうようだ。
彼女は自然乾燥した髪を櫛でとかし、軽く左右に振ってから鏡を見つめた。そして、スマートフォンを手に今の時間と、メッセージの返信がないかを確認する。
そして、彼女がずっと待っていた宍戸からのメッセージをそこに見つけるのだった。
『連絡が遅くなって申し訳ない。ちょっとしたトラブルに巻き込まれてしまって電波の届かないところにいたんだ。百合子ちゃんのせっかくの晴れ舞台を見られなくてホントにごめん! 詳しくはまた明日話そう』
この返信が奉納演舞の後にでも届いていたら、彼女は怒りの電話をその場でかけていたかもしれない。
しかし、今日1日彼の姿を見かけることがなく、村人の何人かも宍戸を探しているが見当たらない、と話していたくらいだ。百合子のなかでは、宍戸がお祭りに顔を出さなかった怒りより、彼が無事であったことへの安堵が勝っていた。
スマートフォンを両手でぎゅっと握りしめ、胸元に寄せて彼女はそこに額を乗せた。
「まったく……、どれだけ心配かけさせるのよ。埋め合わせはきっちりしてもらうんだからね」
彼女はそう独り言ちると、その祈るような姿を止めて荷物をまとめて神社を後にした。時刻は夜の8時をまわっており、外は暗くなっていた。境内はまだ露店の灯りが残っている。
百合子は夜店を覗いていくか、ほんの少し夜空を見上げて思案した後、結局は真っすぐに家に帰ることを選んだ。お祭りの喧騒と祭囃子を背に受けながら、闇に向かっていくような石段を走って下っていく。
きっと彼女にとっては宍戸から届いた事務的な返信が、なによりのご褒美だったようだ。そして、奉納祭の演舞を乗り越え、百合子にとっては、今が村のしがらみから解放された瞬間だったのかもしれない。
しかし――、この先百合子が……、いや、鹿ヶ峰村の人すべてがこの先、「宍戸 駿」の姿を目にすることはなかった。
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