第8章 鹿神の奉納祭

第38話 いつも通り

 午前4時30過ぎ頃、まだ明け方には早い時間。宍戸の家の戸を開け、防犯用の灯りだけが照らす真っ暗な闇を百合子は覗いていた。


「本当にこんな時間に出て行くのかい? もう少し家にいたって――」

「ううん、村の人の目に付いたらそれこそどんな噂を立てられるかわかったもんじゃないもの。家には気付かれずに入れるから適当に誤魔化すわ」


 どんな噂を立てられるか、か――。宍戸の頭の中には数時間前の百合子との光景が過っていた。噂と言うか、既成事実ができてしまったな、と……。



「宍戸さん、私は決して自棄やけになってここに来たわけじゃないから。だから、その……、私とのこと、真剣に考えてほしいの」


「――わかってる。僕だってそれほど無責任な男ではないつもりだ」


 その言葉を聞いて、頬を緩めた百合子は彼の首に手を回し口づけをした。数秒の間、お互いの体温を確かめ合った後、百合子は離れてまた笑顔を見せる。


「ここに自転車置いてたら怪しまれちゃうから、ちょっと遠くに止めてるの。私行くね、ありがとう、宍戸さん」


 最初の一言二言は元気よく……、だが、思った以上に声が響いたのか、途中からささやくような声で彼女は宍戸に別れを告げた。


 手を振って闇の向こうに溶けていく彼女の姿を見送りながら、宍戸は「自転車」の単語を反芻していた。

 そういえば、自分の自転車は今行方不明になっているのだったと――。




◇◇◇




「宍戸さん、大丈夫かい? なんだかさっきから欠伸ばっかりしている気がするけど?」


 昨日は自転車が無くなったことで、必要以上の体力を使う羽目になってしまった宍戸。それに加えて、夜中に百合子が家を訪ねて来た。そして、一応は早朝と言うべきか、まだ陽の光も届いていない時間に彼女を見送ったのだ。当然、睡眠時間が足りていない。


「すみません、店長。自転車が見つからないので結局、朝から歩いてきましたから。疲れたのかもしれないです」


「お客さんがいないときは休んでていいよ。重いもの運ぶときだけは気を付けてな」


 宍戸は店主に何度も申し訳なさそうに頭を下げる。そして、店内にお客がいないことを確認するとカウンター裏の小さな椅子に腰を掛けてまた欠伸をするのだった。




 眠気と戦いながらも、特にトラブルもなく宍戸は今日の仕事を終えた。中嶋はやってくるお客さんを相手にしながら宍戸の自転車の話題に触れ、村のどこかで見つけたら連絡をくれるよう頼んでくれていた。

 しかし、残念ながらまだ見つかったという情報は入っていない。


 夜の8時前、彼はとぼとぼひとり家までの道を歩きながらスマートフォンに入ってくる百合子からのメッセージを読んでいた。

 どうやら家の人間に怪しまれたりはしていないようだ。彼女からは、今後村で会った時もでいよう、と送られてきている。お互い下手に意識するより、「普段通り」でいる方が勘ぐられたりもしないだろう、と。


 宍戸からすると中学生や高校生ではあるまいし、この歳で誰が誰と付き合おうとも――、と思うようだ。しかし、この狭い村の中でまだやって来て1年も経っていない自分と、「山中家」の人間が一緒にいるのはなにかと不都合があるのだろう。



 彼女からのメッセージにさてなんと返したものか、と考えながら歩いていると後ろからヘッドライトの灯りが届いた。



「こんばんはー! 宍戸さん、今帰りですかっ!?」



 自転車に乗った熊谷が姿を見せ、宍戸を少し追い越してからそれを止めた。なにかを引き絞るような耳障りな音が響く。ブレーキの油が切れているのかもしれない。


「こんばんは、熊谷さん。巡回ですか?」


「まあ、そんなところですな! あっ、中嶋さんとこで聞きましたよ、自転車が無くなってしまったとか? そういうときはまず自分に相談して下さいよ?」


 彼の言うことはもっともで、自転車は明らかに盗難の可能性が高い。ならば警官である熊谷に真っ先に相談を持ちかけるのがいいはずだ。だが、宍戸はそれをしていなかった。


「――そうですね。僕としたことが失念していました」


「こう見えて毎日村のあちこちを周っていますからね! どこかに乗り捨てられていたらすぐに気付きますよ!」


 熊谷は自転車を降りて、宍戸の横をついて歩いていく。ひとりでのパトロールは退屈なのだろうか、適当な世間話を彼に振っていた。しかし、途中で彼はどうにも宍戸が会話にのってこないことに気が付く。


「ああ、これは失礼。自分ばっかり勝手に話をしてしまいましたね……。宍戸さんは今日ずいぶんお疲れのご様子だ」


「いいえ、疲れてないと言ったら嘘になりますが……。それほどではないですよ」


 宍戸は真っすぐに前を見つめ、隣りを歩く熊谷の方に目を向けず答えた。



「こんな中年男では頼りないとお思いかもしれませんが、これでも20年以上ここの駐在を務めております。困り事があったらいつでも相談してください」



 熊谷のその言葉を聞いて、宍戸は横目でちらりと彼の表情を窺った。そこには、いつもと変わらず大きな目と、その下のたるみが目立ったパンダのような顔をした中年の顔がある。

 人の良さそうな笑顔を浮かべているが、自転車の灯りが下から差し込み、顔に不気味な陰影を浮かび上がらせていた。



「――不思議ですか? 熊谷さんは」



 宍戸の発した台詞に熊谷は首を捻る。どうにも話の脈絡がわからなかったようだ。


「ええと、今のはどういう意味ですかな、宍戸さん?」


「僕には――、警察に相談した方がいいような『困り事』があるって知ってるんじゃないかと思いまして?」

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