第3章 トロイの木馬
第13話 梅雨入り
その日は朝から雨が降り続いていた。先日、梅雨入り宣言がなされたところで、週間天気も連日、傘のマークが並んでいる。
宍戸は前日夜更かしをしていたようで、家を出る時間がいつもより遅れてしまっていた。歩いてでは遅刻すると思い、自転車に乗って片手で傘をさしながら電気屋までの道を急ぎ進んでいく。
雨の日は、ただでさえ少ない村人が外へと出歩かなくなる。田んぼに囲まれた道の中、宍戸はまるで今ここに自分しかいないような錯覚を覚えるのだった。
スピードを少し緩めて腕時計を確認する。それなりに余裕のある時間となっていた。急いで自転車を漕いできた甲斐があったようだ。ナカジマ電気店までの距離はもうそれほど遠くはない。彼はなんとか遅刻は免れそうだと、ほっと一息ついていた。
すると、彼の後ろから自転車のベルが続けて何度も鳴った。小さく振り返ると、雨合羽を被った警察官が自転車で彼の後ろに迫っていた。この村で見かける警官は、ほぼ間違いなく熊谷だ。
「宍戸さーん! ストップ、ストッープっ!!」
雨の音に混ざり、熊谷の男性にしてはやや高めの声が飛んでくる。宍戸は仕方なく、その場で自転車を降りた。ちらっと横目で腕時計の時間を確認する。
「ダメですよー、宍戸さん! 傘さし運転、手放し運転は今禁止なんですから! 罰則だってあるんですよ?」
宍戸はよりによってこんなときに彼の目に付くなんて――、と自分の運の悪さを呪っていた。
「ああ、すみません。ちょっと寝坊しまして、電気屋の開店時間に遅れそうでして――」
「いけませんよ! そうやって急いでるときこそ事故が起こるんです! 雨降りでさらに傘さし運転なんて、尚更ですから!」
熊谷の話を聞きながら、宍戸は改めて腕時計に目をやる。彼と話し込んでいたらそれこそ遅刻してしまうな、と内心思っていた。
――とはいえ、熊谷が言うことはもっともだ。
交通量が少ない村とはいえ、道は舗装されていないところも多くある。車輪をとられて転倒してもおかしくはない。ここは大人しく彼の言うことに従って、店に着いたら中嶋に謝ろうと宍戸は思った。
「運がよかったですよ、宍戸さん?」
「運が――、よかったですか?」
笑顔でそう話しかける熊谷。だが、宍戸はその意味をのみ込めていなかった。一体、なにに対して運がよかったというのだろうか?
「自分がお店まで一緒に行きますよ? 本官と一緒なら遅刻の言い訳もたつでしょう?」
彼の言葉に宍戸はふっと笑顔を見せた。なるほど、たしかにこれは運がいいのかもしれない、と。
ふたりは雨の中、ゆっくりと自転車を押しながら世間話を交わしていた。
「そういえば――、宍戸さんは夜中になにかされているのですか?」
奇妙な質問を投げ掛けられた宍戸。彼はそれを言葉ではなく、表情で返した。
「いや、失礼。ご近所の方から聞きましてね? ずいぶんと夜遅くまで、宍戸さん宅の灯りが点いてる日が多いと――」
軽トラックが一台、彼らを追い越していった。ふたりは道の端に寄って縦一列に並んでいる。雨の音も相まって、宍戸は自分の声が熊谷に届くかわからなかった。それゆえ、いつもより少し声量を上げて返事をする。
「家でも仕事をしてるんです。今はインターネットでいろいろできますから。何分まとまった時間をとれるのが、夜中しかないものでして――」
自転車を押しながら少しの静寂。宍戸は自分の声が聞こえなかったのかと思い、改めて返事をしようとした。だが、その前に熊谷が口を開く。
「さすが宍戸さんですね。やっぱり都会育ちのお人は働き方も現代的だ。この村はもう何十年も、時が止まっているような気がしますから」
「――とはいえ、村でスマホを使っている人も多く見かけますし、電気屋でパソコンの相談もよく受けますし。それほど『止まっている』とは思いませんよ?」
「そうですかね? 村の外から人が来るなんて『奉納祭』くらいのもんですからね」
「奉納祭」――。宍戸は先日、これについて百合子からほんの少しだけ話を聞いたことを思い出していた。
「鹿神の奉納祭……、と言いましたか? どういったものなんですか?」
宍戸の問い掛けに熊谷は、「そうか、宍戸さんは秋に引っ越してきたんでしたね」と独り言のように言ってから、説明を始めた。
「古くからある村なら、どこにでもありそうなお祭りですよ? 村の中心にある神社の周りに露店を出して、村のみんなで炊き出しをしたりします」
「鹿神とは? なにか言い伝えとかがあるんですか?」
「あー、鹿神様ですね、大昔にこの村あたりの山に住んどった守り神みたいなもんでして――」
熊谷は、掻い摘んで村に伝わる「鹿神様」について話を始めた。
大昔、「鹿ヶ峰」という名の山を切り開いて、この村はでき上がったという。その名の山自体は今でも村の中に残っている。
ただ、そこには代々「鹿神」と呼ばれる神様が住んでおり、山を切り開いたことで村人はその逆鱗に触れてしまう。
それを鎮めたのが当時の村の領主の娘。彼女は、自らの身を生贄として鹿神に差し出し、神の怒りを鎮めたとされている。
以来、村では年に一度、鹿神を祀り生贄となった娘に感謝を示す催しが開かれるようになった。それが
宍戸はその話を聞きながら、何度も繰り返し頷いていた。
「――奉納祭では、領主の娘に扮した巫女様による『演舞』が毎年行われましてね。外から来る人のお目当ては大体これなんです」
熊谷の話を聞く限り、それなりに歴史のある催しなのだろう。宍戸も今の話で多少は祭りに興味をもったのか、なにか考え事をするように傘の裏地を見つめていた。
「ああ! そういえば、今年の『娘役』はこの間のユリちゃんですよ! あの子のことは小さい時から知ってますので、自分も親のように楽しみなんです」
宍戸は先日会った百合子の顔を思い出し、そこに白い小袖と緋色の袴姿を重ねて想像するのだった。
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