第九話 困惑と怒りと


 相当怖かったのか、俺の胸の中でずっと肩を震わせている紗季の肩を軽く叩く。

 

「紗季、もうそろそろいいかな? 周囲の視線が……」

 

 通路のど真ん中で止まっている俺達に向けられる周囲の視線は痛い。

 俺の胸に顔を隠すように震えている女の子が『小夏サキ』だと知られれば、途端に人だかりが出来、下手なゴシップに書かれるかもしれない。

 それは紗季にとって、小夏サキにとって大問題だ。


「う、うん。ありがとう、アキくん」


 そう言って顔を上げた。

 無理したような作り笑顔で笑いかけてくる紗季を見て、どうしても昔と比べてしまう。

 二年前と違うのは、目線の位置と香水の香りだ。

 視線のズレは俺の背が伸びたこと、香水をつけているのは人気商売なため当然と言えば当然だろう。


 背後を振り返る。

 先輩がいた場所を見るが、探し人の姿は俺の目には映らなかった。

 先ほどまで一緒に座っていた椅子にも、その前にも、真里絵先輩の姿はない。


「……そうか、そうだよな……」


 当然だ。

 俺は他の女の子を優先した。先輩よりも。

 困っている人がいたなら交番に行けばよかったんだ。

 それを走り出して止めて、胸を貸した。

 ……何より、『紗季』と口にしてしまった。


「どうしたの……?」

 

「……いや、何でもないよ」


 胸が締め付けられるけど、何でもない。

 そう思わないと、自分が保てなくなりそうだった。

 終わった恋愛にいつまでも引きずられて、やっと新しい恋を見つけたのに、全てを台無しにした。

 意識して足に力を入れてないと崩れ落ちてしまいそうなほど、胸が締め付けられる。

 そんな様子を紗季に見せるわけにはいかず、一度咳払いしてから声を出す。


「それより、なんでここに? 家はどこ?」

 

「大学までの道を覚えようと思って……お家は台東にあるよ」


 神田から台東区なら電車で15分くらいか。


「そっか。なら、ホームまで送るよ」

 

「え? あ……うん……」


 俺の淡々とした対応に、少し残念そうに顔を落とす紗季だが、次にはゆっくりと頷いた。

 ホームまで会話は無く、改札前までたどり着く。


「……じゃあね」


 ホームまで送り届けるという約束を果たした俺は、見送ることもせず、家に向けて踵を返そうとする。


「あ、ちょっと待ってっ!」


 だが、紗季の声で足を止めた。


「……なに?」

 

「あの、あのね? これ、連絡先。もうちょっと話したくて、迷惑かな……?」


 紗季は震える手で俺に紙を差し出してくる。

 そこには、番号とメールアドレス。

 そして、その下にはアルファベットと数字の羅列から、俺もよく連絡に使っているチャットアプリのIDなのだとすぐにわかった。

 俺が踵を返してから急いで書いたのか、達筆のはずの紗季が書いたとは思えないほど文字が崩れていた。


「…………」


 受け取ろうと伸ばした手を寸前になって止める。

 これを受け取ってしまえば、もう引き返せない。

 昔を取り戻したいと願ってしまう。

 次、胸に顔をうずめられれば、抱きしめ返してしまうほどに。

 

 だが、あの日のトラウマからまた酷いことになると分かってしまう。連絡先を受け取ろうとはせず、手を下げようとするが、温かく小さな手が俺の手を包んで紙を握らせる。


「連絡くれると、嬉しいな……」


 笑顔でそう言い残して、紗季は改札を抜けて行った。

 その後ろ姿を見送った俺は、しばらく呆然としていた。

 

 こんな簡単に、ずっと探していた紗季の連絡先を手に入れるなんて――いや、違う……多分俺は怒っているのかもしれない。

 

 今まで、携帯番号もメールアドレスも変えず、待っていた俺に、何の連絡もしてこなかったのに、自分の連絡先を教えてくることに。

 

 俺の連絡先なんて知らないとでも言っているのだろうか。

 ギリリッと音を立てて紙を握った拳が鳴る。ついで、涙が出そうになって思わず鼻を啜った。

 連絡先を地面に叩きつけてやろうと拳を振り返った俺に、


「あれ、アキ」


 そんな俺に声をかけてくれる人がいた。


「……香奈、か」


 ロードバイクに乗った香奈だった。


「なにやってるの?」

 

「これ、受け取ってくれ」


 俺は理由を話さず、クシャクシャになった紙を差し出す。

 沈んだ表情の俺を心配するように覗き込んでから紙を受け取って、次はそれに視線を向ける。

 くしゃくしゃの紙をひろげて中身を確認するが首を軽く傾げる。


「なに? これ」


「……大人気アイドルの連絡先だよ」


 少しバカにしたように、心の動揺を押し隠すように俺は口にした。

 俺の声音で何かを察したのだろう。

 香奈は何も言わなかった。


「じゃあ、俺帰るから。またな」

 

「……うん」


 駅に背を向け、俺はマンションへ帰るため歩を進めた。



 ※  ※  ※



「紗季ちゃんの電話番号……?」


 紙を受け取った香奈は、その内容を見る。

 メールアドレスや、チャットアプリのIDも書かれている。


「せっかくアキが立ち直りかけてたのに……、お前はまだ苦しめるのか?」


 香奈はその相貌を歪める。

 スポーツをやっていることもあり控えめに言ってもスタイルの良い香奈へ、声をかけるために近づいたサラリーマンがその相貌を見て逃げて帰る。

 それほどに香奈の顔には怒りをこえた殺気のようなものまで含んでいた。


「嫌い」


 そう言ってその紙をビリビリと破り、近くのごみ箱に捨てた。


「アキを苦しめる人は、私の敵」


 ゴミ箱を振り返ることもせず、そのままロードバイクを走らせる。


「――絶対に許さない」


 その小さく暗い声は、風にかき消された。

 

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