第8話 さよならのブルース

 

 俺の住んでいるアパートから遠ざかっている。


 誰もいない暗い道に、俺のスニーカーの音だけが澄み渡ってゆく。


 この辺りは住宅街で、アパートの裏の方には小学校や保育園がある。


 平日の朝などはよく小学生がぞろぞろと列をなして坂を登って登校している。俺の部屋からも小学生が騒がしく登下校している声が時たま聞こえることがあった。


 小学校の校門の前を通り過ぎた。


 日はもう完全に落ちてしまった。


 今日は休日なので、小学校は休みだったはずだ。校門は格子状の柵で閉じられていて、その影が暗がりの中薄く斜めに長く伸びている。そして校門の側には高い電柱があって眩しいほど街灯が白く光っていた。なんとなく街灯を見上げると羽虫がテレビの砂嵐のように飛び交っているのが見える。


 少しだけ歩いて俺は保育園に並ぶように併設されている小さな公園にやって来た。


 公園には鉄棒にブランコ、滑り台といった最低限の遊具があった。だが管理が行き届いていないのか、公園の端の方から全面積の半分を覆うくらいに雑草がぼうぼうに生えている。保護者もこの公園で子供を遊ばせたいとは思わないだろう。


 ベンチが1つ、設置されていたが完全に雑草に侵食されていて座れるような状態ではなかった。


 俺は辛うじて座れる状態だったブランコに腰掛ける。


 だが除草がされてないせいか、嫌に虫が多い。


 蚊が耳元でプーンと不快なモスキート音を立てて飛び回る。


「っ……」


 俺はそれを手で払いつつビニール袋を地面に置き、コンビニで買った酒を取り出す。


 5缶ほど買っていたのを全部出して、足元に並べる。


 プシッ


 1つ手に取って開けて口を付ける。


「……」


 喉の奥がカッと熱くなる。脳味噌がふわふわしてくる。


 味はビールとは全く違う。


 だけど酒を飲んだときのこの感覚はやっぱりどうしても好きになれない。


 全部飲み切って家まで帰れるだろうかと不安になってくる。俺はアルコールに強い体質ではないし、酒が好きな訳でもないのだ。


 酒を飲むのは大学2年のときに、実家で飲んで以来になる。


 大学に入って交友関係がろくに築けなかった俺は飲み会に参加することも、酒に興味を持つこともなく、成人して半年ほど経っても1度もお酒を飲まずじまいだった。その夏のお盆のことだ。たまには祖父母の墓参りに帰ってこいと両親に言われた俺は、地元に帰ってきていた。


 その時に夕食の席で俺がまだ1度も酒を飲んだことがないことを父が知ると『1回くらい飲んでみろ、どれくらいまで飲めるか知っておいたほうがいいからな』と缶ビールを一本開けてコップに注いで来た。


 特に断る理由も思いつかなかったのでビールを煽った。


 一口。


 苦い麦茶みたいな味で特に美味しいとは思えなかった。


 だが残すのも勿体無いと思ったので、ちびちびと飲んでいきコップを空にした。


 喉が熱くなり頭が回らなくなる感覚を覚える。


 父も缶ビール一本で老いて黒ずんだ顔が赤黒い色になってしまうくらいにアルコールに弱いので、体質の遺伝で俺も酒に強くないだろうということは薄々予想していた。


 やはりというべきか。案の定、俺もすぐに酔ってしまった。


 吐き気を催すほど気持ち悪いという訳では無いが、何となくこの酔っている感覚が好きじゃなかった。


 それ以来1度も酒を飲むことなく今に至る。


 もう1本。


 プシッ


 次は一気に飲み干す。


「っ……」


 頭がグワンと揺さぶられた様な感覚に襲われる。


 やばいかな……


 酒を飲んだ経験がほとんど皆無なので、どの程度の酔い方が危険になるのか分からない。今の自分の状態が分からなくて不安だ。


 もう辞めといた方がいいだろう、そんな考えを打ち消すように手は動いてまた1本、もう1本と缶を開けていった。


 はあ……。


 何とか全部飲み干した。


 頭がクラクラする。


 何か縋るものが欲しくて近くにあった鎖を掴む。


 鎖?


 ああ……そうか。


 思考がまとまらない中で今、俺が座っているのはブランコだということを思い出した。


 ブランコなんて小学校低学年のときから乗っていないな、なんてことを考える。


「……」


 きっと酒のせいで気が大きくなっていたのだろう。


 思いついたら行動に起こすのはすぐだった。


 俺はブランコを漕ぎ出していた。


 ギコッ、ギコッ


 上手く漕げるか不安だったが、存外に体は覚えているものだ。 


 膝を曲げ伸ばしをするたびにブランコはどんどん高くなる。


 自然と目線は空に向かう。


 月だ。


 意識が吸い込まれる程に綺麗な満月だった。


 公園に来るときは背を向けるように歩いていたから気づかなかった。


 ギコッ、ギコッ


 ブランコは加速する。


 月に足を精一杯に伸ばす。


 このままブランコをどんどん高くしていけば――


 月に届くんじゃないか


 そんな馬鹿げた考えさえ今の俺には浮かんでいた。


 ザッ


 足を地面に付けてブランコを止める。


 ブランコにも飽きたし、それ以上に揺られている内に少し気持ち悪くなってきた。


 大体、何故こんな阿保みたいなことをやっているのだろうか。


 馬鹿馬鹿しい。


 さあ帰ろうとブランコを立とうとすると


「あっ、やべっ……」


 地面がぐらぐらと揺れて見えて、体がふらついて倒れそうになった。


 が、咄嗟にブランコの鎖の部分を片手で掴んで事なきを得た。


 相当に平衡感覚が麻痺しているらしい。


「帰らなきゃ……」


 それでも自分が何をすべきなのかは不思議とはっきり分かっていた。



 錆びかけた外付けの階段をギシギシ音を鳴らしながら上がる。手すりは完全に錆びているので普段なら絶対触らないが、今の俺にとってはさしずめ命綱にも等しい。手すりを両手で握りしめて昇らないと足を滑らせて転げ落ちてしまいそうだった。


 部屋の前までたどり着いた。


 鍵は……どこだっけ……。


 頭がうまく働かない。


 ああ、そうだ。ポケットだ。


 ズボンのポケットから何とか鍵を取り出す。


 鍵をドアノブに挿そうとするが、


 っ……


 今度は鍵穴に上手く鍵が挿さらない。


 クソっ……


 何度か繰り返して、やっと扉を開ける事ができた。


 すぐにでもこの場で倒れ込みたい気持ちに駆られるが、それを一片の理性で抑え込む。


 今やらないと。


 今じゃなきゃ……だめだ。


 俺はショルダーバッグを床に投げ捨てた後、ビニール袋からごみ袋を可燃物用と不燃物用の両方を取り出す。


 壁に手を付けながら部屋へ向かう。


 ――部屋の片付けをしなきゃ


 今までの5年間も


 自分のしようとしたことも


 全部全部忘れて、無かったことにして明日からまともに生きていけるように。


 酒の力を借りれば、俺でも勢いづいて出来る気がしたのだ。酒は嫌いだが、今はその力に縋りたかった。


 床に散らばっている物を乱雑に片っ端からごみ袋に突っ込んでいく。


 引き裂いたヒナのポスター。


 ポーズをとって可愛らしく微笑むヒナの笑顔は真ん中から真っ二つになっている。


 手でクシャクシャに小さく丸めてごみ袋にいれた。


 ケースも中身も粉々になるほど割れてしまっているマリーゴールドのCD。


 これも破片をかき集めてごみ袋に入れる。


 他にもキーホルダーだとかチェキだとかヒナに結びつく全てをごみ袋に突っ込んでいった。


 電気も付けず、暗く静まりかえったこの部屋にはガサガサとごみ袋の擦れる音だけがしていた。


 そうだ。


 まだアレがあった。


 玄関のところに放り投げたままだったショルダーバッグからハンティングナイフを取り出す。


 結局使うことはなかった。


 これは不燃物の袋に入れる。


 よし。


 これで全部だ。


 ごみ袋を結んで立ち上がろうとした瞬間――


「うっ……うえ……」


 胃がムカムカして、吐き気を催してきた。脳味噌がぐるぐるかき回されているようで気持ちが悪い。


 それに何だか瞼が重くなってきた。


 でも後、もうちょっと。あと少しだ。


 俺は床や壁に手をつきながら何とか立ち上がる。


 サンダルで部屋を出て、外階段を下り、アパートの前にあるゴミ捨て場までごみ袋を握って向かう。


 ゴミ捨て場にたどり着く。


 バケツの蓋をとってゴミ袋を放り込んだ。


 やった……。


 これで、きっと大丈夫……。


 俺はすぐにゴミ捨て場から背を向ける。


 さようなら、とは言わなかった。


 目を開けているのもしんどい。一刻も早くベッドに潜り込みたかった。早く部屋に戻らないとこの場で倒れてしまうというくらいに気分が悪かった。


 アパートへと戻る道、アスファルトがぐらぐら揺れている。


 俺は視界に情報を入れたくなくて頭上を見上げた。


 空には月が光っている。


 こんなに綺麗な月が家の前からでも見えたんだな……。


 俺はそんなことだけを朦朧とした意識の中でぼんやり思っていた。

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アイドルオタクのブルース~人気アイドルのあの子が裏切った、俺は復讐することに決めた~ みけねこ @wonderwall

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