第5話 アイドルのブルース

 

 時折、ビル街を風が吹き抜けて街路樹の葉がざわざわと揺れる。


 イベント会場から最寄り駅までの道のりはまだ長い。


「……」


 そもそも、何故自分はこんなところに来たのだろうか。


 そう自分に問いかける。


 自問自答。


「……」


 所詮はビジネスで、アイドルなんて商品でしかない。


 最初からそんなことは分かっていたことだろ。


 アイドルが微笑みかけるのは仕事だからだ。アイドルが手を握ってくれるのは仕事だからだ。アイドルのことを俺たちが好きだといって許されるのは、それがアイドルの仕事だからだ。


 それなのに一条ヒナという存在に何を求めていたのか。何を期待していたのか。


 ある握手会に行ったときのことだ。


 あれはちょうど社会人になって一ヶ月ほどたったタイミングだった。


 その頃には俺はヒナに会える機会を逃すまいとバイト代をつぎ込んでイベントやライブに通いつめたお陰か、ヒナに名前を覚えてもらえるまでになっていた。


 俺の順番が来た。


 新しいデザインのアイドル衣装を身に纏ったヒナは破顔して俺に手をひらひらと振ってくる。


『吉田さん〜今日も来てくれたんですねっ嬉しいですっ』


 そうだ。その声。その笑顔。その長い睫毛。雪のように白い肌。


 寝ても覚めても俺はこの子が大好きなんだと思い知る。


 俺が喜びに浸っていると、俺は短い時間を無為に過ごして溜まるかと今日のライブの感想を伝える。今日の衣装も可愛いということや、いつもとは違ってポニーテールにしているのも似合ってて素敵だということ、あの曲のあの振り付けのヒナは最高に輝いていたこと、自分の貧しい語彙力の全てを費やして、それでも話が長くなりすぎないように伝えた。


 ヒナはニコニコして、時折感謝の言葉をはさみながら可愛らしい声で相づちを打ってくれる。


 頭に思い描いていたことを全部話すと、少し時間が残っていることに気づいた。


 どうしようか。あんなに何を話すか考えていたのに。


 そう思っていると、なんと今日はヒナの方から話題を振ってくれた。


 ヒナはこっちを見上げるように見てこう言う。


『吉田さんは確か今度、新社会人になるって言ってましたよねっ。新しい環境はどうですか? 少しは慣れましたか?』


 前に会った時に言ったことを覚えていてくれたことへの嬉しさがこみ上げてくるのと同時に、その瞬間俺は言葉に詰まる。


 会社では何もうまくいっていなかった。仕事を覚えられなくて、誰かへの頼り方も分からなくて、毎日泣きそうだった。要領よく全部こなしていく同期たちが羨ましかった。自分は駄目な人間なのだということを突きつけられた気がして辛かった。いっそのこと辞めてしまいたかった。


『実は、あんまりうまくいってないんだ……。仕事も覚えられなくて、怒られてばっかりだし、人間関係も……』


『……』


 ついこんなことを話してしまう。言ってから後悔した。彼女にこんなことを言っても困らせるだけだ。やっぱり取り繕って上手くやっているとでも答えればよかった。


 でも、ヒナに対して嘘をつくことは自分にはどうしても無理だと思ってしまったのだ。


 こんな愚痴みたいなこと話して、引かれたりしないだろうかと不安になる。今日はせっかくヒナの目の前にいられるのだからヒナの顔から目を反らすまいと思っていたが、思わず目を横に反らしてしまう。


 少しの沈黙の後、彼女が言葉を発した。


『大丈夫ですよ!きっとなんとかなりますから!吉田さんが頑張っているのは見たらわかります。不安なときはまずは私の言葉を信じてみて下さいっ!私は吉田さんの味方ですからね!』


『えっ……』


『お時間で〜す。次の方〜』


 俺が返す言葉が思い浮かばずにいると、タイムリミットが来て剥がされてしまった。


 我ながら今のは気持ちの悪い発言だったと思う。まるで慰めてほしいと暗にヒナに要求しているような浅ましい発言だった。


 でもヒナはただの慰めや憐憫以上の言葉をくれた。


 信じる、か……。


 信じるというのはなんてクサい言葉だろう。


 俺が昔から心の隅で小馬鹿にしてきたようなあまりにも純粋な言葉。


 でもヒナが言うなら信じてみよう。俺はきっと大丈夫だ。何とかなる。だってヒナがそう言ってくれたから。


 そう心の中で唱えていると何だかくすぐったくて暖かいような力が湧いてくるようなそんな気持ちになった。


 俺はこのとき確かに救われたんだ。 


 そして更にヒナに心酔するには十分だった。


 瓦礫に挟まれて身動きがとれない俺を皆が一瞥して見捨てて通り過ぎる中で、彼女だけが手を差し伸べてくれたのだから。


 ヒナの言葉を真に受けて、俺は信じ続けた。


 『吉田さん、いっつもありがとうございます!』


 『また来て下さいね!待ってますからねっ!』


 『やっほ〜みんな~、大好きだよ~』


  結局のところ、アイドルという仕事としてかけた言葉でしかなかった。それだというのにヒナの発する言葉をすべて好意的に、都合よく解釈するようになった。


 それで、このザマだよ。


 自嘲。


 いつの間に俺は、ヒナと俺の間にそれ以上のつながりがあると錯覚していたのだろうか。


 自分がそこまで愚かだと思わなかった。


 アイドルオタクというのは難儀な物なのかも知れない。


 アイドルをコンテンツとして消費して、飽きたら捨てるくらいの気持ちで淡泊に応援するのならいいだろう。


 だが触れあうことで、まるで本当に目の前に存在する親密な異性として錯覚してしまおうものなら……。


 身をもって分かる。


 悲惨としか言い様がない。


 俺たちがいくら金を注ぎ込み、時間を消費し、愛を叫ぼうとも、俺たちがきっと本当に求めて止まないものは返って来やしない。


 当たり前だ。


 俺たちはアイドルが供給するサービスを金銭と引き換えに受け取っているだけに過ぎないのだから。


 そしてアイドルとしての仕事以外の時間はプライベートな時間だ。ファンのことも、アイドルとしての自分も関係ない。自由に出かけて、自由に遊んで、自由に恋愛すればいい。それはアイドル以前に、人として与えられた当然の権利なのだから。


 アイドルとしての一条ヒナはファンの1人である俺が求めている言葉をかけてくれたかもしれない。でも1人の人間としての一条ヒナは誰もを平等に扱ってくれる女神様なんかじゃなかった。仕事で見る客の1人で、ほとんど他人に近い存在。


 ましてや、醜い俺に手を差し伸べてくれる稀有な存在でもなかった。


 あの、俺を突き動かしたネット記事のことを思い出す。ヒナが人気動画投稿者とホテルで夜を明かしたという内容のネット記事だ。


 それを見て俺はあれだけ半狂乱になっていたというのに、今なら冷静に事実を見ることができた。


 客観的に見れば、相手の動画投稿者の男はこの社会の中でも圧倒的な成功者だろう。


 動画投稿者として成功し、たくさんのファンを抱え、容姿も端麗だ。


 並の男の何倍もの稼ぎがあるだろう。


 並の男の何倍も面白い話が出来るだろう。


 並の男の何倍も女性に喜ばれる方法を知っているだろう。


 そんな男に異性として好意を持つことに何の不合理もなかった。


 きっとヒナもそんな一人に過ぎなかったのだと思う。


 自分だってヒナの容姿を見て好きになった。きっとヒナの容姿が劣っていたら俺は興味を示す事も無かっただろう。


 世間の人間と同じように面食いで、ミーハーで、普通に恋をしているだけの女の子。


 ただ、それだけのことだったのだ。


 分かっていたはずなのに、見失った。


 俺はヒナのことを誰より分かっていると傲慢なことさえ思っていた。


 だけど、違った。そんなわけなかった。


 思えば俺を五年間追いかけてきたのにヒナに直接会って、話したのは合計しても実質一時間にも満たない時間だけだ。


 それはまだ若くアイドルとして濃密で多忙な時間を過ごすヒナにとっては、俺と会った時間はファンとの会話という仕事の時間の一部であって記憶に残るかも怪しいような、取るに足らない時間だったはずだ。


 そしてその短い時間は俺の五年という歳月の内のたったの数分でもある。


 五年間ずっとヒナの為に人生を生きているとまで思っていたのに、自分の全てだったのに。実際、直接会って話したのはほんのすこしの時間に過ぎない。 


 思うに長い間、俺が恋い焦がれて求めていたのは、ヒナ本人なんかじゃなくて、きっと俺の頭の中に作り上げたヒナの偶像だった。俺を裏切らないで、いつでもそばにいて、いつでも俺の理想の姿で、いつでも欲しい言葉をかけてくれる。


 俺はこんなことを期待するなんて身の程知らずだと頭では否定しつつも、期待しているんじゃなくて妄想しているだけだ、妄想の世界の中だけでも思い通りになってもいいじゃないか、ヒナのことを考えて彼女からパワーを貰うのがそんなに悪いことなのか、とヒナで妄想を繰り広げることを正当化してきた。


 それは実におぼろげで甘美な虚構だった。


 毎日何時間でもヒナが囁いてくれるのだから。


 あなたは十分頑張ってるよ。


 他の人たちはあなたの優しさに気づいてないだけだよ。


 私だけはあなたの味方だよ。


 大好きだよ。


 愛しているよ。


 そう、耳元で囁いてくれるのだ。


 現実世界みたいにすぐに時間が来てスタッフに剥がされてしまうこともない。


 同じ部屋で朝から晩まで手をつないでいられる。


 温もりもない、触れることが出来ない。前にヒナが言っていた言葉やちょっとした仕草を元に都合のいい幻を脳内に作り上げていた。実在のヒナの僅かな情報をちぎり絵みたいに継ぎ接ぎにしてできたこの虚構はいつも曖昧で、朧気で、油断すればすぐに覚めてしまう。妄想から覚めて冷たい現実を直視したときは死にたいくらい悲しくなる。


 それなのに、どうして実在の彼女にそれを求めてしまっていたのだろう。自分が妄想と現実の区別も出来ない人間だと思わなかった。


 ああ。


 いっそのこと現実世界と完全に切り離されて、夢と妄想の世界の中だけでヒナを想い続けていられれば幸せだったのに。


 でも俺はあれだけヒナのことで悲しんで、恨んで、憎しんだ。


 思い描いたヒナとの甘い未来が幻想だと認めて1人のアイドルファンでしかない自分を受け入れることも、現実の一条ヒナがどうだろうと関係ない、ある意味全部理解した上でヒナに騙され続けて妄想の中だけでヒナを愛し続けることも俺には出来なかった。


 何かを選ぶということは何かを捨てることだ。


 幻想と現実のどちらも捨てることが出来ずに、板挟みになって押しつぶされていた。


 心が歪んで、ひしゃげて、捻れた。


 こうやって俺は、傷害未遂にまで及んだあの男は、俺たちは苦しんでいたのだろうか。


 ショルダーバッグの重みが肩にのしかかっている。


 この重みはナイフの重みだ。


 あの男が凶行に及ばない未来はあったのだろうか。そして、このショルダーバッグの中にナイフが入っていなくて、俺が純粋に生誕祭を楽しんで帰る未来はあったのだろうか。


 幻想の世界で恋しているくせに、それを現実世界に持ち込んで実在のアイドルに押しつけずにはいられなかった。


 怒りと絶望と悲しみと憎しみで自分をコントロールできなかった。


 もし、こうなってしまうのが必然だったならば。


 どうしたってアイドルに心奪われた瞬間に自分を制御できなくなってどうしようもなくなってしまうのならば。


 そして、これから先、何をするにしても自分の情緒を制御して社会のルールに外れないように生きることの出来ない人間の欠陥品のような存在だったならば。


 俺たちはなんて――


 悲しい生き物だろうか。


 惨めな生き物だろうか。


 情けない生き物だろうか。

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