第4話 無力感のブルース


 近くにいた3,4人のスタッフが動き出すとほぼ同時に、男が一歩を踏み出す。


「死ねっ!」


 男はナイフを片手に男とヒナを隔てている長机をはね除けて乗り越えようとする。


「いっ、いやああああああああっ」


 悲鳴。彼女のこんな声は聞いたこともない。


「おいっ!お前っ!止まれ!」


 ざわめき。


「来んなよ!」


 怒号。


 男は振り返りナイフをめちゃくちゃに振り回す。


 そして男が背を向けた瞬間に一人のスタッフが男に飛びかかった。


 ああ……。


 脱力する。


 俺は何をやっていたのだろうか。


 本当に、馬鹿だ。


 こんなことをやったってその後には何一つとして残らない。自分が得をすることなんてなにもない。


 実行してしまえばあの男と同じになってしまっていた。自分のしようとしていた事を今更自覚して背筋が凍る。ショルダーバックの紐を強く握る手の指先や膝が、ケタケタ嗤うようにして細かく震えているのを自覚する。


 まるで暗闇が嗤ってこちらを覗き込んでいるような気がした。


 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


 そして、どうしようもないほどの無力感。


 俺は自分のしようとしていたことがどれだけのことなのか分かっていなかった。


 プライドを捨て切れていなかった。


 常識を捨て切れていなかった。


 すべてを失う覚悟が出来ていなかった。


 人殺しになる覚悟が出来ていなかった。


 ここまで来ても、結局は我が身かわいさに動くことができなかった。


 スタッフに取り押さえられて、床で暴れる男の姿を見る。 


「こっ、こいつは! こいつは騙してたんだよ、俺たちを!」


「ちっ、おいこら離せよ、死ね死ね死ね死ね!!」


 声を裏返しながら男は叫ぶもその内容は要領を得ない。


 瞬きをすることすら忘れて、俺は一部始終を見つめている。


 ナイフを取り出していたときに半開きになっていたであろうバッグは床に落ちて中身が辺りに散乱し、男の眼鏡もスタッフが男を押し倒した時の衝撃で俺のいる方まで飛んできていた。


 裏ぶられた狂人の背中。


 身勝手な想いは誰にも届くことはなく、ただわめき散らすはた迷惑な人間に成り下がる。


 ホールに男の意味も為さないような奇声が響く。


 だが、最後には男は抵抗することを諦めたようで、スタッフや駆けつけた警備員に囲まれて床で赤子の様にうずくまってすすり泣いていた。


 イベントは当然中止になった。


 結局俺の順番が回って来ることはなかった。


 男が取り押さえられてから床にへたり込んですすり泣いていたヒナはスタッフに連れられるようにして会場から姿を消した。


 その泣き顔が頭から離れない。


 こうなってしまっては俺の計画はすっかり破綻していた。


 その後スタッフによる事情の説明と謝罪、返金対応等については追って連絡する旨の説明があった。だが俺はそんなことは全く頭に入らず、気づけば促されるままに会場の出口まで流されていた。


 俺は頭がぼんやりしたまま、帰路に着いた。


 外は昼下がりで、高く昇った太陽は日差しを突き刺すように上から浴びせてくる。


「……」


「あっ……すみません……」


 ヨロヨロと下を向いて、歩きながら考え事をしていると、前を歩く人に肩がぶつかり白い目を向けられる。


 咄嗟に謝罪すると、その男は一瞬こちらを睨み付けてそのまま無言で過ぎ去っていった。


「……」


 俺はあのヨレヨレのシャツを着た男の事を思い出していた。


 世間はあの男を批判するのだろう。


 身勝手な犯行だと。独りよがりな動機だと。ファンの風上にも置けないと。


 それは至極全うな正論なのだろう。


 だが、俺はあの男を批判して石を投げる資格など決してないし、出来もしない。


 あいつは俺だから。


 あの凶行におよんだヨレヨレのシャツの男の姿を見ただろ?


 独りよがりで、身勝手で、思い込みの激しい、異常者。


 気持ち悪いだろう。


 理解出来ないだろう。


 あれは俺だよ。


 俺にはあの男の気持ちがどうしようもなく分かってしまう。


 俺もあいつと同じなのだから。あいつがやらなかったら俺がやっていたはずだったのだから。


 会場で情けなく喚いていた男の顔は簡単に俺の顔にすり替わった。


 俺たちは同じように、勝手に期待して、裏切られて、絶望して、そして恨んでいた。


 この時、俺はあの男が凶行に及んだことで今になってようやく自分を客観視する事が出来ていた。


 一条ヒナはあいつのすべてだったのだろう。あいつの心の中の彼女があいつを生かしていたんだろう。だから、それを失ってあいつは絶望に飲み込まれた。ブレーキが効かなくなって制御不能になった。


 いや、もしかすると……。


 最初から、彼女のことなど関係なかったのかもしれない。


 彼女が男と写真を撮られたから。ファンに対する裏切り行為だから。彼女は罰される必要があるから。そんなこと本気で思っていたわけでもなく、ただうまくいかない人生の憂さ晴らしで他人を攻撃しようとした。そして、それを必死で正当化しようとしていただけなのかも知れない。


 そして、これはあの男だけでなく、自分自身にも言えることだった。


 俺はあいつに感謝すべきなのだろうな。


 ああ、よかった。本当に、よかった。


 あいつがいなかったら俺は今頃犯罪者になっていた。あいつがいなかったらこの手は血で汚れていたかもしれない。あいつがいたお陰で目が覚めた。


 やらなくてよかったじゃないか。


 実際、自分のしようとしていることがずっと怖くて怖くて仕方なかっただろ。


 ずっと手や足が震えていただろ。


 そもそも人を自分の意思で害するなんてことが出来るほど意思の強い人間じゃなかったのだ。


「……」


「……」


「……」


「は、ははっ……」


 思わず、俺は乾いた声で自嘲してしまう。


 心の中だけの声のつもりが喉から無意識に漏れてしまったらしい。周囲の人が奇異な目でこちらを見ているのに気づいたが、そんなことを気にする余裕もなかった。


 犯罪者にならなかったとして……。


 だったら、だったら俺は。


 ――何になれるっていうんだろうか。


 俺は悪人にも、善人にもなることができない。


 犯罪者じゃなかったらいいだろ、悪人じゃなかったらいいだろうなんてことは、今の俺には言えなかった。


 俺には友達もいないし、恋人もいない、かといって自分を誇れることも何もなかった。


 物心ついたときから何度も何度も自分の矮小さを思い知らされてきた。


 俺の今までは敗北の連続だったから。


 小学校の50メートル走でクラスでビリになったとき。


 小中学生の時は成績が上位で自分は勉強が出来る人間だと思い込んでいたのに、高校になって勉強が次第に難しくなると成績がどんどん落ちていった時。


 中学校のとき、クラスメイトに女子と話す時の態度が気持ち悪いと同級生に嗤われた時。


 成人式のあとの同窓会ですっかり垢抜けた同級生達が笑顔でお酒を飲み交わしている写真が人づてに送られてきた時。


 風の噂で地元の同級生同士が学生時代からの付き合いの末に結婚したと知ったとき。


 俺は毎日のようにミスして上司に叱られているのに、同期で入社した奴の花形部署への異動が決まったとき。


 いつも誰かに負け続けている自分が、他人に好かれる事の出来ない自分が、そして何よりその度に現実から目を反らして僻むばかりの自分が、いつまでも自分を変えることの出来ない自分が大嫌いだった。


 そのたびに脳みその中に巣くう劣等感がどんどん肥大していって俺を苦しめてきた。


 そして、また今回も同じように俺は何も出来なかった。


 ああ。


 無力感がまるで末期ガンのように緩やかに体を、心を蝕んでいくようだ。


 胸が……痛い。


 心臓が嫌な音を立てて軋んでいくような、そんな感覚だった。

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