第3話 復讐のブルース
アラーム音が部屋に鳴り響いている。
俺は枕元に転がしてあるスマホに手を伸ばしてアラームを止める。
「……」
皺だらけのシーツの上に夏の鋭い朝日が窓から差し込んで来て酷く眩しい。
なんとか自分の身から布団を剥ぎ取って上体を起こす。
服に少し不快感を感じた。体が汗ばんでいることに気づく。夜が明けてからずっと窓から日光を浴びていたせいだろうと分かった。
エアコンを付けて寝るべきだったなと今更ながら少し後悔する。
ベッドに座ったまま目を細めて外を眺める。
この部屋は角部屋で、ベッド沿いの窓から表の道を見下ろすことが出来る。
外は強い真夏の光に照らされ、向かいの一軒家の屋根や、マンホール、植木の葉がギラギラ輝いていた。
天気は快晴。
今日はついに一条ヒナの生誕祭の開催日。
そして、即ち――俺の復讐の日だ。
そうしているうちに時刻は9時半を過ぎていた。
さあ、そろそろ準備をしなきゃな……。
グッズの残骸で荒れた部屋はまだそのままだ。
俺はそれをわざと踏みつけて台所に向かう。
罪悪感なんて何一つないはずだ。
適当にストックしてあった菓子パンを手に取り、冷蔵庫の牛乳をマグカップに注ぐ。そして菓子パンを口に詰め込み、アイスコーヒーでそれを流し込む。それから、顔を洗い、歯を磨くために洗面台へ行く。
歯ブラシを使いすぎて、毛の先が開いている。新しい物に交換しようと周辺を探すが、買ってなかった事に気づき、諦めてそのままその歯ブラシで歯を磨く。
今日が俺にとって特別な日だからなのか、一つ一つのなんてことない行動にも何か重要な意味があるのではないかと変に意識してしまう。全部いつも日常の中で無意識的にこなしていることなのに何だか浮ついたような妙な気分だった。
スマホで時間を確認すれば、時刻は午前十時を回るところだった。
もう出なければならない時間だ。
俺はスニーカーを履き、緩んだ靴紐をきつく結びなおす。錆びかけた玄関の鉄の扉を押すとキィーと悲鳴のような音を上げながら扉が開く。ヒョロガリ体型でろくに運動もしない俺にはこの鉄の扉を片手で開けるのにはいささか力がいる。足を踏ん張っていないととたたらを踏む事も何度かあった。自分の貧弱さを扉に嗤われているようで、そんな時いつも何となくバツの悪いような気持ちになったことを何故か思い出した。
外は真夏日だった。ずっと外の出ていなかったせいか、俺を貫くような鋭い日差しに頭がクラクラしそうだった。暗く冷たいコンクリート造りのこのボロアパートも熱でデロデロに溶けて仕舞いそうなほどの暑さだ。隣の家の前にある植木の朝顔も土は湿っているのに元気なく萎れていた。水遣りはしているが、すぐにこの暑さでぬるま湯になってしまうのだろう。
ミーン、ミーン。
まだ午前中だというのに姿も見えない蝉たちが耳をつんざくほどに絶叫している。命をすり減らしながら必死に羽をこすり合わせて鳴いている。残り少ない寿命の尽きるその前に自分達の存在していた証をこの世界に刻みつけようともがいているようにも感じられた。
熱いな。
白いシャツの下で寝汗とは比べものにならない量の汗が吹き出すのが分かり酷く不愉快だった。
「……」
自分の部屋の方を振り返る。
俺はもうここには戻ってこれないと分かっている。
大勢の前で凶器を出しておいて自分が何事もなく今の生活を続けられるとは思っていない。
きっと捕まってしまうだろう。だが、それだけの覚悟をこの一週間で決めたつもりだ。
俺は手で扉が閉まってしまうのを止めたまま、散らかった薄暗く埃っぽい六畳ほどの狭い部屋を見渡す。
部屋は相変わらず床や壁、天井のあちこちがシミになって汚れている。この汚れは長年の蓄積によるもので、掃除してもきっと完全には取れないだろう。でも、あの汚れは俺の住んでいた3年間の分もあると思うと、この部屋の長い歴史の一部になれたようで少しだけ感慨深かった。
三年、か……
辛い時も、悲しい時も、寂しい時も、不安な時も、嬉しい時も、いつだって俺はこの場所に帰ってきた。
ふと、くすぐったいような考えが頭に浮かぶ。
こんな行動は自分に酔った痛々しい行動なのかもしれない。
前までの自分なら絶対にしない行動。復讐を決めて自分も変化したのだろうか。
こんな真っ直ぐな言葉を嘘偽りのない本心で言うことは物心ついてからなかったような気さえする。
でも、やらなかったらずっと心に引っかかって後悔しそうだから。
だから。
「さよなら。ありがとう」
最後にそれだけ自分にだけ聞こえるくらいの声量でつぶやいてから俺は扉に鍵をかけた。
*
今日のイベント会場は都心に近い場所にあるビルの一角にあるホールのような場所だった。
俺は郊外に住んでいるので、会場までは電車を乗り継いで1時間ほどかかる。
今日の計画はこうだ。
イベントの中盤に1対1でファンとアイドルが話すことができる場面がある。考え得る限り、最もあの女と俺が接近出来る場面だ。もちろんすぐ近くにスタッフがいるだろうが、ナイフを取り出し、あの女に突き刺すくらいなら容易いだろう。
電車に揺られている間も心臓はバクバクと高鳴っていた。
会場のあるビルにたどり着いた。
会場は駅から徒歩五分ほどにあるビルの一階、ホールのような所だった。建物の中はクーラーが凍えてしまうほどによく効いている。暑さでぼんやりとした頭が急激に冷やされてゆく。
首にかけたタオルで首筋や額から滴り落ちる汗を拭き取る。汗で脇や背中はびしょびしょに濡れて、脇や背中にシャツがべったり貼り付いて酷く気持ち悪い。
案内に従って、当選した画面のスクリーンショットをスタッフに見せて、整理券を受け取り列に並ぶ。
ホールには生誕祭に来た人たちのパイプ椅子がぎっしりと並んでいた。まず、ここで全体に向けて話などがあった後に、一対一の対話の時間に移行する段取りだ。
俺はきちんと番号で指定されたパイプ椅子に座る。
パイプ椅子は古いのか座るとギシッと嫌な音を立てた。
ポケットからスマホを取り出し時刻を確認する。イベントの開始時刻まで少しの時間があるようだ。
辺りを見回す。空席が目立つし、雰囲気は重苦しい。きっと本来は満席になるはずだったのだろう。あの女の熱愛の記事が出たから大勢のファンがこのイベントをキャンセルしたのだとすぐに分かった。
俺の隣に座るヨレヨレのシャツを着た眼鏡の男も心なしか精気を失っているように感じる。
こいつ等はどんな気持ちでここに来ているのか。
悔しくないわけ無いだろ。
悲しくないわけ無いだろ。
よかったね、いい人に会えて。君が幸せなら僕も幸せだよ。
もし、そんなことを言うのならそいつはとんだ偽善者だ。
この時、これから俺がすることは独りよがりなんかじゃない、正義なんだ、とそう思った。
俺たちを裏切っておいて、のうのうと生きていくなんて許されないだろ。俺一人だけのためじゃなく、ここにいる奴らのためにもあの阿婆擦れ女に制裁を加えてやらないといけない。みんなあの女に騙された被害者なんだ。きっと必死に押し殺しているだけで、心の中では俺と同じくらい悔しくて、悲しくて、虚しくて、あの女を憎んでいるに決まっている。
俺は膝の上に丸めた拳を握る力を強める。
この時、俺は計画の実行をより強く誓った。
イベントの開始時刻が来るのを待つ。
そして。
来た。
俺は自分を奮い立たせるように会場に入ってきた彼女を上目で鋭く睨んだ。
心臓が高鳴る。
緊張、不安、そんなないまぜの感情の中に興奮も含まれていることに気づいた。俺にできるのか、そしてこんなことをやってしまっていいのかという不安は未だに尽きない。それでも、俺は今から凄い事を成し遂げるんだという意識が俺を昂らせていた。こんなに高揚した気分になるのはいつぶりだろうか。
もう思い出せないほど遥か遠い昔のことだったように思える。
スタッフから生誕祭開始のアナウンスがあった後、あの女がスタッフからマイクを受け取り、前に立って、ゆっくりと口を開く。
「こんにちは。今日は私のために来てくださってありがとうございます」
そういっていままでと何の変わりもない柔らかな笑顔を見せた。
「皆さんの応援のおかげで今この場所に立つことが出来ています」
「少しだけ私の話をさせてくださいね。私がアイドルを志したのは高校1年生の時でした。今ではお母さんとお父さんも私の活動を応援してくれていますが、アイドルをやりたいと初めて話したときは、猛反対されました。私も当時はまだ子供で、自分のやりたいことを認めてくれない両親に反発して大喧嘩になりました。今思い返せばそれも二人からの愛だったと思っています。そして私は実家を出て一人で夢を叶えるために上京しました」
「東京での暮らしは何もかもが新しくて刺激的でした。地元は田んぼがまだ所々残っているような田舎でしたから、地下鉄も、道を行き交うたくさんの人も全部が初めてのものでした。私はアイドルになるためにバイトを掛け持ちしながら、手当たり次第にオーディションを受けました。オーディションには何度も落ちました。心ない言葉を受ける事もありました。自分には才能が無いと思い、挫折しそうになることも何度もありました。ですが、夢を叶えたいその一心でオーディションを受け続けました。そしてようやく受かったのがこのマリーゴールドでした」
「グループに入ってからも辛いことや苦しいことはたくさんありました。何もかもが初めての経験でうまくいかない事ばかりでした。実を言うと、アイドル活動を辞めてしまおうかと思ったことだって何度もあります。でも、その全ての瞬間を乗り越えてきたから今ここにいることが出来ています」
俺は黙って話を聞いていたが、その間、昏い考えが頭を渦巻いていた。
何度も聞いた可憐で澄み渡るような声。
それが俺を苛立たせていたのだ
何だそれは。ふざけるな。
あんなことがあったのに何も触れないつもりか。
このまま愛想を振りまいていれば、自分を信奉する間抜けで馬鹿なファンから金を搾取し続けることができると高をくくっているのか。
表では綺麗事を並べ立てて、自分を美化しているくせに、裏ではファンの気持ちを裏切っていることは知っている。
「え~っと、何が言いたかったかっていうと……」
それから少し微笑んで一呼吸置いて、再び話を続ける。
「つまり何が言いたいのかって言うと、私のアイドルになりたいという夢はファンの皆さんの存在と常にセットだったんです。こうして皆さんと会うずっと前、アイドルを夢見て始めた頃から皆さんのことを考えてきました。どんな人たちが私のことを応援してくれるんだろうかといつも考えていました。私が何度も夢見た衣装を身に纏ってステージで華麗に踊って見せる、その妄想の中の輝いていた私の目には、常に皆さんが映っていたんです。挫けてしまいそうな時は、自分の夢や理想に立ち返って自分を奮い立たせていた時も、頭の中には皆さんの笑顔がありました。」
スッと前を真っ直ぐ射貫く様に見つめる。
「……っ!」
目が合ったような気がした。
思わず息を飲む。
心臓が鼓動を間違えてしまいそうだった。
まるで俺が何を考えてここに来たのかを見透かしているような瞳だった。
「アイドルっていうのははファンの方がいないと輝けない存在なんです」
「だから、私がアイドルを目指しだした高校1年の頃からここまでたどり着けたのは、皆さんのおかげなんですよ!」
「だから、本当にみなさんに感謝してます」
「本当に本当にありがとうございました!」
そういってこちらに深くお辞儀をする。
それからフッと頭を上げると、今度はニコッと笑ってこう言った。
「そしてこれからもよろしくお願いしますねっ!」
それから話が更に話が続いたが、俺はそれどころじゃなかった。
ああ……。
俺は今、弱気になっている。
あの女を殺すことを躊躇している。
一条ヒナが言葉を発しただけで、あんなに強固で揺るがないと思っていた、純粋な憎しみが揺らいでいる。
俺は一条ヒナのことを初めて、怖いと思った。
壇上の彼女から目を離し、膝上のショルダーバックの中を探る。
ちゃんと、あるな……。
ショルダーバッグの中には確かに持ち手が黒色のハンティングナイフが入っていた。ナイフは無骨で、明らかにこの場にはそぐわない。
心臓が高鳴る。
緊張で頭が真っ白になりそうだった。
目をぎゅっと瞑る。
大丈夫。大丈夫だ。俺はやれる。
それに今更何もせずに帰るなんてことは出来ない。
もう引き返すことは出来ないんだ。
何度も自分に言い聞かせる。
俺は前方に視線を戻さずに前に置いてあるパイプ椅子の背に視線を固定する。もう彼女の方を見るのを止めた。覚悟が揺らいでしまうのが嫌だった。
目の前でマイク片手に笑い声混じりに話しているのは俺が好きだった女の子じゃない。
その命を尊ぶべき人間でもない。
そう、ただの醜い肉の塊。
俺の殺すべき敵だ。
だから俺のすることを恐れる必要は無いんだ。
何度も何度も何度も自分に言い聞かせる。
そうしているうちにスタッフのアナウンスと共に、整理券に従って、ファンと彼女が一対一で話す時間が始まった。
俺の順番は後半の方だ。
まだ列に並ぶ必要は無い。この手のイベントでは自分の番の数人前になった時に並ぶルールになっているのだ。
そのまましばらくの間、席に座って待つ。
待っている時間は数秒のようにも半日のようにも感じられた。
そして、時間が経ち、自分の番が近づいてきたので列に並んだ時のことだった。
「うわああああああああっ!」
それは一瞬の出来事だった。
「おいっ!」
スタッフの発した大きな声で俺は初めて異変に気づいた。
「えっ……」
その光景を見て思わず掠れた声を漏らしてしまう。
目の前で起きていることが何も理解できなかった。
俺の目線の先で俺の隣に座っていたあの男が発狂しながら、震える手でナイフの先端を一条ヒナに向けていたのだから。
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