第2話 休日のブルース
週末が来て、日曜がやって来た。
俺も昨日と今日は休みで、日頃の疲れから昼過ぎまで気絶でもするように寝ていた。しかし、流石に空腹に耐えかねたところで目が覚めて起きた。
適当にビニール袋から買い溜めていた菓子パンを一つ取り、冷蔵庫のアイスコーヒーをコップに注ぐ。そしてパンをむしゃむしゃ頬張りながらアイスコーヒーで流し込む。
ふぅ……。
部屋を見渡す。
俺はこの狭いアパートの一室で一人暮らしだ。この部屋は狭いだけではなく、壁紙や床が汚れていたり、床が軋む箇所があったりする。正確な築年数は記憶していないが、ここが相当古い物件だという事はすぐに分かる。
このアパートに不満がないわけではない。
だが、会社へのアクセスと家賃を考えるとここが最適だった。雀の涙ほどの給料でヒナに毎月何万円もお金をつぎ込んでいる俺には、他に選択の余地はないのだ。
それに、実際住んでしまえばどうという事は無い。住めば都というやつだ。俺には家に呼ぶような親しい人間もいないしな。
「……」
カーテンは閉め切っていて部屋は薄暗い。だが、強い夏の真昼の日差しはその隙間から差し込んで、部屋に舞う埃がその光をきらきら反射させていた。
その後はネットサーフィンでもして時間を潰そうかと自室の机に向かい、ノートパソコンを開く。
そうだ、来週の生誕祭の情報でももう一度確認しておこうか。
一条ヒナで検索する。
「えーと、i、c、っと、よし」
何度も検索しているワード。検索候補に出てくるのはすぐだった。
カチッ
マウスをクリックする。
そこで、検索結果のトップに出てきたのは……。
「――今、人気上昇中のアイドルグループ、マリーゴールドのメンバー一条ヒナさん、人気動画投稿者の○○と熱愛!――」
「は?……」
何を言っているんだ?
内容が全く頭に入ってこない。
焦燥に駆られるようにページを開きネット記事を読み進める。
人気動画投稿者、深夜二時、恋人繋ぎ、熱い抱擁、ホテル、朝帰り、タクシー、双方の活動への影響……。
そんな文字列が目に留まる。
何だそれは?
記事には写真が数枚、添付されていた。そこには、身バレを恐れるように帽子や地味な服を着た男女が深夜に二人一緒にホテルに入っていき、朝には別々にタクシーに乗り込む一部始終が映っていた。
誰だ、この男は?
こいつとヒナに何の関係があるんだ?
心臓がうるさい。
嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
俺は信じない。
嫌だ。
何かの間違いだ。
心臓は不愉快に音を響かせ、鼓動を速める。
視界がチカチカしているように感じる。
頭をガリガリと掻き毟る。
もう見たくない。これ以上見ない方がいい。そう感じつつも、俺はキーボードを叩く手を、マウスを握る手を置くことが出来ない。
俺はブラウザでさらに検索をかけようと、キーボードに指を走らせる。
しかし、何度見ても文字列や写真の指し示すのは俺にとっては何よりも残酷で信じたくもない事実だった。
相手の男のことも検索をかけた。男は有名な動画投稿者で、男のことは調べればすぐに分かった。画像からして髪を茶色に染めた、軽薄そうな男だった。男のチャンネルは多くの登録者を抱えていたが、少し調べれば内容の面白さより自分の優れた容姿を売りにしている人物だと分かった。男の言動はあからさまに女性人気を狙っていて、鼻につくようにしか思えなかった。案の定というべきか、その男の投稿する動画のコメント欄は、頭の悪そうな女のファンの狂信じみた称賛のコメントで埋め尽くされていた。
なんでこんな奴と……。
いかにも下心にまみれて理念も矜持も持ち合わせてない男。
おおかた、下半身で物事を考えているクズだろう。
俺に微笑みかけてくれて、俺の話を聞いてくれて、俺の手を握ってくれた。ゴミの様な生活の中で唯一の希望で、俺を救ってくれる女神の様な存在だと本気で思っていた。そんなヒナがこんな男に絆されている。
視界がチカチカ点滅するようで、うまく思考がまとまらない。
「……」
ふざけるなよ……。
湧いて出たのは静かで昏い、怒りの感情だった。オセロで白が一気に裏返って盤面が黒一色に染まるようにして、今までの彼女への好意が、畏敬の念が、恋慕の気持ちが憎しみで塗り潰されていく。
淫乱、ビッチ、阿婆擦れ、詐欺師。そんな単語で頭が埋め尽くされる。
全部全部嘘だったのか? さんざん金を使わせてこの仕打ちか? 俺がお前のためにいくら金を使ったと思っている?
切り詰めては薄給のほとんどを生活費をグッズやCDに注ぎ込んだ。
俺の給料があの男との交際費の一部になっていたと考えると、さらに頭に血が上った。
あのネット記事の写真が動画になって頭の中で再生される。男は彼女の腰に手を回し、ホテルまで連れていく。小柄な彼女は満更でもない表情で顔一つ分身長の高い男の顔を上目遣いで見つめる。そのまま二人はホテルに入り、手続きを終わらせ部屋までいく。その男がベッドに寝そべる彼女に覆い被さる。彼女は熱っぽく蕩けたような目をして男を見つめる。そしてしつこいほどに口づけを交わした後、照れ笑いをする彼女の下着を男は彼女を少しからかいながら脱がせていく。
俺の手を握ったその手で、男の"モノ"をしごく。
俺に優しくかけてくれたその声で、男に衝かれて汚い声で鳴く。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
吐き気を催す酷いイメージが脳味噌を攪拌するようにしてぐるぐる回る。だが自暴自棄になって自分の心すらいっそのこと壊してしまおうとしているのか、それでも尚、妄想を止めることが出来ない。
「うわああああっ!、クソがっ!」
ガシャン!
机の上のモノを乱暴に払い落とす。
置いてあったマグカップが床に落ちて粉々に割れ、アイスコーヒーが飛び散って床に広がる。
頭を強く掻き毟り過ぎたのか、爪の間には血の混じった皮膚片がこびりついていた。
頭皮がヒリヒリと痛む。
「……」
お前も所詮は、俺を見下して、蔑んで、嗤って、俺の伸ばした手を切って捨ててきた人間と、同じかよ。どうせ顔が良くて金を持ってる男に軽薄な台詞を吐かれて、それで馬鹿みたいにころっと惚れて、馬鹿みたいに一緒に寝て、馬鹿みたいに恋しているんだろ。それで最後には結婚して、子供を孕んで、この人と一緒になって幸せです、この人の優しいところが好きなんです、なんて言うのだろうか。
本当に気色悪い。
どいつもこいつもくだらねえ。
さんざん金づるにしておいて、高いところから俺を冷たく無関心に見下ろしているんだろ。
俺のこの数年は何だったんだ?
勘違いしてた哀れなオタクか? それとも散々アイドルに金を貢いだピエロか?
俺をコケにするのもいい加減にしろよ。
世界で一番好きだった女の子だったはずなのに、今はもはや汚い発情したメス豚にしか思えなかった。
気持ち悪い。汚い。穢らわしい。許せない。
あの女に抱く感情はそれだけだった。
俺が五年間心の中で両手で抱える様にして育ててきた大切な何かは、こんなにも簡単に穢された。
あいつらの汚い体液で汚されて、台無しになって、もう取り戻せない。
許せない許せない許せない許せない許せない。
彼女のグッズで溢れた俺の部屋がぼやけて歪んで見える。
どれもこれも不愉快だ。
歯ぎしりをする。
「クソがっ!」
壁のポスターを乱暴に引き剥がして、勢いよく破る。
「クソが……」
押し入れを勢いよく開け、大量のCDや写真集の入ったダンボールを取り出す。
「クソ……」
そして中身を乱雑にひっくり返し、CDを粉々に割って、写真集のページを毟る様に引きちぎる。彼女の笑顔がバラバラに引き裂かれてゆく。写真集は一つの皺もつかないようにきれいにしまっていたのに、その面影もないほど滅茶苦茶になってしまった。
他にはなんだ?
「はぁ、はぁ……」
肩で息をする。
「…………」
突然のニュースにショックを受けて感情がカッと昂っていたが、今度は急速に頭が冷めていくのが分かった。まるで切れてはならない大事な神経が擦り切れてしまったかの様だった。
そこでパソコンの横に置いてあったカレンダーが目に入った。次の日曜日、八月十日に赤い印がついている。つい、数日前に自分で付けた印だ。
その時、悪魔が囁いた気がした。
突如として降って湧いた考えは、その時の俺にはとんでもない名案に思えた。その考えはどんどん膨張していき、気付けば俺の脳を完全に支配していた。そして同時に、ボコボコとドス黒い粘度の高い淀んだ何かが下の方からしきりに湧き出して来ては、心を埋め尽くす。
ああ。
そうだ。
復讐してやる。
このカレンダーの印の日は一条ヒナの誕生祭の日だ。生誕祭にはファンが一条ヒナと一対一で会話できる時間がある。
それは復讐をなしとげる絶好の機会だ。これを利用しない手はなかった。
ああ、そうか。
生誕祭に当選したのはこのためだったんだ。
俺が復讐を実行することを運命が後押ししてくれたような気さえした。
家に包丁は……ないか……。
錆と汚れの目立つキッチンに目を向ける。俺は自炊など全くしないので、キッチンはお湯を沸かす位にしか使わない。三年弱暮らしてきて包丁を買ってもいなかったことに今更ながら気づいた。
俺は再び机に向かい、パソコンからネットショップで小型のナイフを注文する。
そして目を閉じ何度も何度も頭の中でシュミレーションをする。
俺は去年も誕生祭に行っている。会場も同じだ。おそらく、スタッフの配置は去年とそう変わっていないだろう。
列で順番を待って、順番が来たらショルダーバッグの中に忍ばせた小型ナイフを素早くとりだして、彼女の腹に突き刺してやる。
俺は……一条ヒナを……。
――一条ヒナを殺す。
そう決意した。
イベント当日のイメージを何十回、何百回と頭にこびりつくほどに繰り返す。
すでに復讐のことで俺の頭の中は埋め尽くされていた。月曜日になり、会社から電話がかかってきても無視した。嫌で嫌で仕方なくて、それでも毎日行っていた会社に行かなくなった。どうせあの女を殺したら捕まるのだからもう会社のことなど関係ないと思った。その間に何度、妄想の世界の中であの女を殺しただろうか。
その日が来るまでひたすら家に引きこもっていた。
玄関の向こうで物音がする。
ネットショップで注文したナイフが届いたようだ。今は人に会いたくないから、置き配にしてある。配達員が帰ったのを見計らって、玄関前の段ボールを取りに行く。
箱を持って帰って包装を剥ぐ。
「これで……」
薄暗い部屋の中でも、僅かな光を反射してハンティングナイフはギラリと舐めるように光っていた。
完璧だ。
よし……後は……。
そうして気がつけば時はたち、遂に計画実行の日を迎えた。
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