アイドルオタクのブルース~人気アイドルのあの子が裏切った、俺は復讐することに決めた~

みけねこ

第1話 社会人のブルース

 

 カタカタッ


 カチッ


 俺はお昼休みに会社のデスクで一抹の緊張感を抱えながらメールを開いていた。俺の推しのアイドルの生誕祭イベントが来月に控えているからだ。その抽選の結果が、メールで送られるのが今日の正午だった。


 俺はアイドルが好きだ。


 ――いや、というよりも一条ヒナの事が好きだ。


 一条ヒナはマリーゴールドというアイドルグループのメンバーだ。大学3年の時に出会ってからずっと大好きだった。


 その頃に比べてマリーゴールドの人気はどんどん増している。それに比例するようにヒナのファンもどんどん増えていっているようで、五年も追いかけている身からすればヒナが遠いところに行ってしまうようで少し寂しい気持ちだ。


 自信を持っていえることなんて学生時代の俺には何もなかった。でも今は、俺は彼女が好きで、一秒でも一緒にいたい、他の奴が俺を見てくれなくても彼女はきっと俺を見てくれている。それだけは自信を持っていえるようになった。


 そしてファンがアイドルに直接会える機会は限られている。お見送り会、お渡し会、チェキ会やサイン会など、そこでファンが間近で推しに接触出来る時間は一つのイベントのつき一分にも満たない。


 その機会を一回たりとも逃したくはないと思うのは当然だ。


 それに今回は生誕祭だ。年に一度しかない、グループ全体ではなくヒナ一人のためのイベントなのだ。


 このイベントに行くことができないで、惨めに指を咥えて家で過ごすなんて耐えがたかった。


 よしっ……やったっ……!


 心の中で俺は強くガッツポーズをする。


 当選だった。去年も当選したので、二年連続の当選だ。二年連続で当選するなんて、いくらファンだと言っても、なかなかあるものじゃないだろう。俺は誰かに自慢したいような、誇らしい気持ちになる。そして、いまからヒナとどんな会話をしようかと、浮き足立つ。目の前で俺と言葉を交わしてあどけなく笑うヒナの可憐な姿を妄想する。思わず口元が緩みそうになるが、今は会社にいるということを思い出して、なんとか唇を強引に結んで誤魔化す。


 いつまでもメールの文面を眺めて喜びの余韻に浸りたいが、もうすぐ昼休憩も終わるので、名残惜しくもメールを閉じ仕事に戻ることにした。



 時間は過ぎて、定時の五時半ごろ。まだ、仕事が終わらないと帰れない。でも、このまま順調に行けば九時には帰れるんじゃないか。


 帰ったら、曲やライブ映像を全部聞き返して復習しながら、生誕祭で彼女の前で何を話そうか考えよう。


 そう考えたら、少しは希望が見えてきた。


「吉田さん、ちょっといいすか?これお願いしま〜す」


 そう思っていたその時、癪に障るような、間延びしたような口調でこちらに話しかけてきたのは後輩の田口だった。


 数人の社員が遠くの方でこっちを時々見ながら、こそこそ話している。そしてにやにやしながら、田口と視線を交わし合っているのが分かった。


 ドサッと資料の束を俺のデスクに置いてくる。


 またいつものか、と内心ウンザリする。


 はぁ……。


 田口はこんな風に何かと仕事を押しつけてくる。こうして俺のことを舐め腐って、都合よく利用して、仲間内で嗤って楽しんでいるのは分かっていた。


 いつもは田口に反発して文句を言ったところでなにも変わらないし、解決しないと、諦めて黙っているところだ。


 だが、今日は違う。


 生誕祭に当選したことで、不思議とヒナから力をもらったような気がしていた。


 無駄かもしれない。


 だが、何も抵抗せずに泣き寝入りするのは違うだろ。


 ヒナが信じてくれた自分を信じるんだ。


 俺は恐る恐る口を開く。


「あ、あの、これ田口くんが割り振られた分でしょ……僕だって自分の分があるんだから、これくらいやってよ……」


「説教ですか?やめたほうがいいですよ、そういうの。それに俺はこれから彼女とデートなんすよ」


だからなんだよ。


「先輩は童貞で、彼女もいないんだから、夜も暇でしょ?だから先輩、アイドルなんか好きなんでしょ。知ってますよ?先輩が変なアイドルの写真をスマホの待ち受けにしてるの。今日もなんかパソコンの画面みてにやけてましたよね。あれ、全部バレてるんで気をつけたほうがいいですよ。あ〜、でも大丈夫ですよ。先輩は仕事できるじゃないですか。なので、今日はこれ、お願いしますね。助け合いですよ、助け合い」


「…………」


田口はにやにやしながらそう言う。


俺がなんの反応も出来ないでいると、田口は今度は苛ついたような口調で、もういいすか、そろそろ時間ヤバいんでお願いしますねと俺の肩をポンポンと叩いて、遠くで俺を嗤っていた奴らと出て行った。


 糞野郎。


 何が、デートだよ。


 心の中で悪態をつく。


 どう考えても悪いのは田口の方なのに、俺は何も言い返す事ができなかった。その事実がより一層自分を惨めに感じさせる。


 何より背中を押してくれたヒナに申し訳ないと思った。


「…………」


 あいつが置いていった資料の山をパラパラとめくって、どの程度の量残っているのか確認する。


 あいつ……。


 見回すが、既に田口の姿はない。


 田口はほとんど仕事に手を付けずに俺に丸投げしてきたようだ。


 どうしようか……。


 さすがにこの仕事量は一人でやるには多すぎる。今からやったら、最悪の場合、今日は帰れないかも知れない。


 クソ……なんで、俺がこんな目に……


 誰かになんとかお願いして手伝って貰いたいところだが、辺りを見回して見ても頼める人がいない。


 俺は物心ついたときから人付き合いが酷く苦手だった。誰かと対面することが怖くて仕方ない。相手が自分に向ける瞳に負の感情が宿っているのではないかと怖くなってしまう。


 それは社会人になってからも同じだった。こんな時に誰かに気軽に頼めるような人間関係をこの会社で俺は築けていなかった。


 誰か、誰かいないか……。


 ふと二つほど隣のデスクを見る。


 同期の水瀬さんだ。


 途端、過去の出来事がフラッシュバックする。


 入社当時、俺は会社に馴染めていなかった。物覚えの悪い俺は、何度言われても仕事を覚えられなかったのだ。恐る恐る、上司や先輩に仕事のやり方を聞くと、いい加減覚えろよと怒鳴られたり、わざとらしくため息をつかれたりして、俺は精神をすり減らしていた。仕事を覚えられない俺が悪い、そんなことは分かっていたが、それでも辛かった。


 そしてそんな日々を過ごしていたある日、俺がまた資料の読み方が分からず困っていた時のことだ。資料を読んで情報をデータとしてパソコンに打ち込まないと行けないのだが、資料のどこを読めばいいのか分からない。しかもこれは前にも先輩に一度説明された箇所だ。なんで覚えてないんだと自分の頭の悪さに辟易する。先輩にもう一度やり方を聞かなければならないが、先輩に質問したらまたいつものように嫌みを言われることは容易に想像できた。だが、聞かないと仕事がいつまでも進められない。


 そう思って俺は辺りをちらちら見渡しながら、どうしようかとぐるぐる頭のなかで思考を回転させていた。


 そんな時、隣のデスクにいた水瀬さんが挙動不審な俺の姿を見て状況を察したのか話しかけてくれたのだ。


『あの……読み方分からないんだったら……教えましょうか?』


 水瀬さんは眼鏡のおとなしそうな印象の女の子で、当時は俺と同じ新入社員だった。


 嬉しかった。


 この会社には俺の味方はいないと思っていたから、救われたような気さえした。ずっと俺にはヒナしかいないと思っていたけど、それは俺の思い込みで本当はこうして俺によくしてくれる人もいるんだと思った。


 それから俺はどうしても分からないことがあると、水瀬さんに聞くようになった。水瀬さんとの会話が楽しみになっている節すらあった。


 唯一、会社で頼ることの出来る水瀬さんに嫌われることは俺にとって恐ろしい事だった。

 水瀬さんと話せなくなれば、また前の状態に逆戻りだ。

 だから、ちゃんと水瀬さんの迷惑にならないように配慮したつもりだった。

 水瀬さんが忙しそうな時は話しかけるのを諦めたし、不必要に話しかけることはしないようにした。


 だが、それは俺の独りよがりだったようだ。


 ある日、水瀬さんと先輩が話しているのを聞いてしまったのだ。


 それは、俺がトイレから出ようとしたときのことだ。水瀬さんと先輩がここから少し離れた距離で話している。


 そこで耳に入ってきたのは俺の名前だった。


 えっ、何だ……。


 この話を聞いたところで嫌な気分になるだけだと脳に警鐘が鳴り響くが、それよりも知りたいという好奇心、知らなければならないという使命感が勝った。


 それに、俺の姿が二人に見つかってしまえば、二人の話を俺が聞いていたことがバレてしまうだろう。


先輩はともかく水瀬さんと気まずくなってしまうは絶対に嫌だった。


 俺はトイレの出口に引き返して、見つからないように死角に隠れる。


 ある程度距離があったが思いのほか、二人の会話ははっきり聞こえた。


『水瀬ちゃん、なんかまた吉田にちょっかいかけられてたでしょ?』


『いや、ちょっかいというほどじゃないんですけど、あんまり話しかけるとちょっと迷惑ですよね……』


『何て、話しかけられてたの?』


『いや、仕事でわからないことがあって教えてほしいって言われて……』


『あ~、あいつ水瀬ちゃんが優しいからって、それにつけ込んでるんだよ。それはちょっと卑怯じゃない?』


『…………』


『それで、あいつにもう話しかけるなって言ったの?』


『それとなく拒絶したつもりだったんですけど……気づいてない感じで……。先輩の方から言ってくれませんかね?』


『分かった分かった、俺からあいつに言っとくよ』


 そうか……迷惑だったのか……。


 思い返せば俺が話しかける回数を重ねるつれて、水瀬さんはどんどん突き放すような態度になっていた。

 それに気づかないふりをして、何度も繰り返し水瀬さんに話しかけた自分が恥ずかしかった。


 下心が見え透いて気持ち悪いと思われていたのか、あるいはただ単に興味がない人間に話しかけられるのが鬱陶しいと思われていたのか。


 心が真っ黒なもやに満たされ始める。


 だが、そういう話じゃないんだ、と頭の中の理性が即座にその考えを否定する。


 俺が自分勝手で非常識だっただけなのだ。


 卑怯だという先輩の言葉が胸に突き刺さって離れなかった。


 胸が、痛い。


 全部、図星だった。


 そもそも本来は仕事のやり方は同期の水瀬さんに聞くべきことではなかった。

 それなのに先輩や上司に怒られるのが怖いからといって、水瀬さんの優しさにつけ込み、挙げ句の果てには迷惑をかけていたと今、自覚した。

 自己嫌悪で今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。

 常識をわきまえて他人との距離感を測れない自分は社会不適合者なのではないかとさえ思った。


 それ以来、水瀬さんに俺が話しかけることはなくなった。


 もう三年も前のことだというのに、水瀬さんを見ると何となくそのときの苦々しい思い出が蘇ってくるのだ。


 そんなことを思いながら水瀬さんの方をぼんやりと見ていると、水瀬さんがパソコンから目を離しこちらの方を見てきた。


 目が合う。


 心臓が跳ねる。


 まさか俺が水瀬さんを見ていたことがバレたのか? 入社してすぐの頃に私にしつこく話しかけてきた奴がこっちを見ている、あの自分勝手で場を弁えない男、気味が悪い、気持ち悪い、そう思われているのだろうか。


 いや、違った。


 水瀬さんは席を立つと、俺の席の背後へと回り、何やら資料を片手に上司と話し出した。水瀬さんは自分のことなど何とも思っていなかった。


 知らぬ間に緊張していた肩の力が抜ける。


 はあ……。


 結局、俺は誰かに頼ることを諦めて一人でこの資料の山を片づけることにした。



 退勤する頃には、午後十二時を回る頃になっていた。結局、今日はいつもより早く帰って生誕祭に向けて推し活に励もうという俺の計画は露と消えたのだ。


 会社のある四階からエレベーターで一階まで降りる。


 古びた鉄筋五階建てのビルを抜け出す。


 いつもより早めに仕事が終わってすこし大股で帰り道を急いでいたはずの自分の姿を想像すると、今の現状との差に一層足取りは重くなった。


 田口のせいで……これだから会社は嫌いなんだ……。


 心が真っ黒な澱みで満たされてゆく。


 いや……。


 だが、すぐに俺は思い直す。


 そんなどうでもいいことより、俺にはもっと喜ぶべきことがあるじゃないか。抽選に当たってヒナの生誕祭に行けるんだ。その喜びがこんなくだらないことで汚されてたまるか。


 俺はビルの自動ドアの前でたちどまって夜空を見渡す。このあたりは大通りから外れた位置にあり、テナントの入っていないビルや営業してるんだかよく分からない店が立ち並ぶ寂れた通りだった。当然というべきか、こんな深夜にはこの通りに人も車も全くといっていいほど通らず、しんと静まりかえっている。


 息を吸い込み、ため息を空に向かって一つ吐いてみる。


 車がすれ違うのにも苦労するこの狭い道路の上方には電線が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。それでも今日はその隙間から半月から満月になりかけの不細工な月が雲間から姿を見せてくれていた。


 ちょうど生誕祭の頃には満月になっているんだろうか。


 ヒナの姿を思い出す。


 俺は月を見上げながら、ヒナは一見、太陽のように底抜けに明るく俺を照らしてくれる存在に思えるけど、月のようにミステリアスな雰囲気もあるよな、なんて小っ恥ずかしいことをぼんやり考えていたのだった。


 ああ、本当に来週が楽しみだ。


 そう考えると思わず笑みが零れてしまいそうだった。


 そうだ。


 会社のことなんて、他人のことなんて俺にはどうでもいい。


 誰が何と言おうと、俺は今最高に幸せなんだ。


 俺は再び一歩を踏み出して帰路についた。

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