第6話 帰り道のブルース
あの娘に出逢ったのはいつだったか、俺ははっきりと覚えている。
七年前のことだった。
俺はそのころは一年の浪人の末、地元から上京して東京の大学へ通っていた。
地元の奴らは、ここじゃ遊ぶ場所もないと言って、たいていは地元を出て県外の大学に進学していった。そして俺もきっと東京の大学に受かれば、こんな田舎を抜け出して楽しい生活を送れると思って、勉強して東京の私立大学に進学した。
入学する前は心機一転、友達をつくって、彼女も出来て、大学生のうちにたくさん遊ぼうだなんて柄にもなく浮足立っていたのだ。
だけど結局のところ、大学の雰囲気にも馴染めず、俺は誰ともうまく話せなかった。
思えば、高校の時も何となく学校で話すような人はいたが、放課後や休日遊んだりするような友達はいなかった。学校では対して詳しくないアニメやゲームの話に加わって相槌だけ打って話をあわせていた。
一人でいることが当たり前になった今ならずいぶんちっぽけな事に思えるが、学生時代の俺にとって、教室で孤立することは何よりも怖いことだった。
思えば、誰とも本当の友人関係を築けてなかったのだろう。
女の子と楽しく話すような輝かしい青春の瞬間も一度として訪れなかった。
人並みに恋心を抱いたこともあった。
高校一年の時だっただろうか。快活で明るい女の子が同じクラスにいた。リーダー気質で文化祭の実行委員を自ら買って出るような、周りから一目置かれているようなそんな子だった。
俺はそんな彼女のことを文化祭以降何となく目で追うようになっていた。サッカー部の奴と彼女が休み時間に笑いながら話しているの終業式が終わるまで輪の外からちらちら見ていた。
当時は自認していなかったが、単純にその子のことが好きだったのだろう。それは掃いて捨てるほどあるような男子高校生の淡い片思いの1つだった。
だがクラスが変わって彼女の姿を見る事もなくなれば、彼女への気持ちは次第に薄らいで消えていった。
二年に上がって半年ほどたった後、クラスメイトの噂話でその子がサッカー部のキャプテンと別れたと知った。二年の時、彼女と仲よさそうに話していたあの男子は二年になってキャプテンになっていた。色恋沙汰を俺に教えてくれる友人などいなかったので、俺は二人が付き合っていたことを知る由もなかった。酷くありふれた、酷くつまらない話だと自分でも思う。
あの時、俺は何を思っていたのだろう。
記憶が曖昧だ。
きっと自分にとってたいした記憶でもないのだろう。
でも、たぶん別に失恋して辛いというわけでも、悔しいというわけでもなかった。きっと少しだけ、ほんのちょっとだけ虚しかった。
思い返せばすぐ分かることだったはずだ。
いつだって。
――俺は何もしない、何も出来ない人間だったじゃないか。
それなのに何故、大学生になれば、他の人たちと同じように上手くやっていけるようになるなどと思ったのだろう。
本当に浅はかな考えだった。
大学生になったら楽しく生きられるなどという、そんな淡い期待が裏切られるのはすぐだった。
地元を出て、一人で都会に出てきたのだから知り合いなどいない。
相手の事を何も分からない状態で自分から話しかけて、仲を深める術など俺は知らなかった。
同じ学科の学生もサークル紹介をしている上級生も大学生活を謳歌していると言わんばかりに、髪を染め、ネックレスやピアスを身につけ、おしゃれな靴を履いていた。それが一層、俺を後ろめたく感じさせる。
自分の醜いところが、薄っぺらい人間性が見透かされるのではないか。
冴えないだとか、挙動不審だとか、見下されて嗤われるのではないか。
そんな考えに取り憑かれて話かけようとすると何だか息苦しくなってどもってしまうのだ。
自分が気持ち悪くて仕方がなかった。
誰かと関わるのを諦めて、すぐに家に帰るようになるには1ヶ月もかからなかった。
結局、人は、俺は変わることが出来ないんじゃないのか。ずっと俺は駄目なままで、自分に期待しても裏切られるばかりで無駄なだけなんじゃないか。
俺がそんなやるせなさに付きまとわれるようになったのはこの時からだ。
何をするにも、本気を出さなくなった。
全部、無駄だ。
何もしたくない。
大学に行く以外は寝て起きるだけの生活。
無気力。無感動。
初めての一人暮らしで一念発起で自炊を頑張ろうと思っていたはずが、結局コンビニ飯ばかりになっていた。
大好きだったゲームも起動したのはいいのだが、どうにも気力がわかなかった。トップ画面を見つめるだけの時間を何となく過ごした後、そのままやはり気分がのらないままゲームをやめてしまうことも多くなっていた。
大学では、周りの他の学生は授業の代返や、先輩からもらった過去問や、レポートの写し合いでずる賢く単位をとっていく。そんな奴らを横目で羨んで憎しみながら、誰も頼ることの出来ない俺は、すべての授業に出席して前列で授業を聞き何とか理解して、留年しないようにしがみつく他になかった。
都会の私立の高い学費を負担してくれている両親の、失望の眼差しを想像するとどうしようもなく怖かった。
一人で電車に乗り大学に向かい、講義を受け、誰とも話すことなく一人で家に帰る。
空虚な毎日の繰り返し。
そう
――そしてあの日もまた同じ繰り返しだと、思っていた。
空っぽなだけの毎日を繰り返し続けて、俺は大学三年の夏休みを迎えようとしていた頃。
その日は一限から五限まで授業を受け、すべて終わった頃にはすでに空は茜色に染まっていた。
講義棟を出てキャンパスの門へ向う。講義棟の出口を抜けると、目の前のアスファルトがあたり一面暗く湿っていた。気づかぬうちに少し雨が降ったらしい。
他の学生たちが男女で喋々喃々と笑いながら俺のすぐ横を通り過ぎる。そいつらは髪を明るく染め、薄く化粧して、垢抜けた、今風の大学生然とした見た目だった。白いブラウスの女が俺の脇を通った時、香水や服の柔軟剤の香りがふわりとした。飲み会や、合コンや、週末の予定の話で盛り上がっているのが、会話の断片から分かる。
俺は胸にほんの少しチクッとした痛みを感じた。
だが、そいつらが帰りにまとめて車にはねられてしまえばいいのにと益体もない想像を脳内でしているうちに、その痛みはどこかへ消え去っていった。
そんな妄想だけが俺の唯一の楽しみだった。
『……』
下に向けた視線を少し上げて、茜空が東から夜に侵食されかけているのを見る。そして、息をわざとらしく大きく吸い込むと、街路樹からは雨上がりの匂いがした。
自分の、そして他人の靴音を聞きながら歩いて大学の最寄り駅まで向かう。
駅のホームまでたどり着くと、最寄り駅にはサラリーマンや高校生や、うちの大学の学生など様々な人たちが並んでいた。
俺は視線を下に落としたまま、電車を待った。
キーと甲高い音を立て電車が止まる。
アナウンスとともにドアが開き、大量の人たちが吐き出される。地元からこちらにやって来た頃は、こんな光景にいちいち感動していたものだが、今となってはこの人の多さは俺を苛立たせる材料にしかならなかった。
全員が降りるのを待った後、俺は前に並ぶ中年のサラリーマンの革靴を見つめながら、その後ろに続いて電車に乗り込む。
そいつの年季の感じられる背広に染み付いた煙草の刺激臭は鋭く鼻を刺してくる。
俺は鼻で息を吸わないようにしながら、その後を間隔を詰めるようにしてついて行った。
電車はちょうど帰宅ラッシュの時間帯に当たったようで、超満員だった。
俺は車内のドア側からどんどん人の波に押され、掴まる場所も確保できずに電車は発車する。
ピピピピピ
『発車いたしま~す』
電車が停車や発車をする度に俺の身体は慣性力を受けバランスが崩れそうになる。だが密着しようかというほど近くに人が立っている。だから、足でなんとかバランスを取り、出来るだけぶつからないようにするしかなかった。
俺は目の遣り場を失い、目線は自然と上ヘ向く。
そこには広告があった。
専門学校の広告の様だった。
何となく既視感があった。きっといつも通学に乗る電車だからこの広告も無意識の内に目に入っていたのだろう。
でかでかと写っている専門学校の校舎やオープンキャンパス開催のフォントの横には色白の女の子たちが並んで映っていた。
俺の目を引いたのは端っこに並んでいた女の子。
少し小柄に見える彼女は妙なポーズをとって他の子と同じようにあどけなく微笑んでいた。
アイドルだろうか?
直感的にそう感じた。
正直なところ、俺はこの時は大して知りもしないのに、アイドルやアイドルのファンというものを小馬鹿にしていた。
大して顔も良くないアイドルが適当に愛想よくしているだけで大金を貢がれる。それに金をつぎ込むやつも、つぎ込むやつだ。払った額に見合うサービスが受けられるなんて思えない。
馬鹿な奴らだ。俺はそんな奴らとは違う。もっと賢く生きることができる。
心の内ではそう思っていた。
だが、そんな俺にも写真から滲み出る彼女の愛嬌はどこか印象に残った。
自然で嫌味がない、とそう思った。
広告の写真ごときで何が分かるのか、と自分でも思うが、上手く言葉にできずとも確かに俺はその時、そう感じたのだ。
――まさに、運命だと思った。
その後から彼女のことがどうしても気になった俺は、家に帰ってからネットで彼女の事を調べた。
専門学校の名前を覚えていなかったので、途中でもう特定するのは無理かと諦めかけた。だが、ネットというのはすごい物だ。調べるのに手間取りはしたが彼女の名前とグループの名前まで行き着くことが出来た。
―― マリーゴールド3期生 一条ヒナ
それが彼女の名前だった。
*
最初は、きっと純然たる興味だったのだ。
彼女のどこが俺は気になっているのか知りたい。彼女は他の子とは何が違うのか知りたい。
でも、彼女にのめり込んでいくのはあっと言う間だった。
いつの間にかヒナの動画を漁るように見ていた。
ヒナの不思議な仕草が、幼いようでいてきれいで芯の強さを持つ声が、あどけない顔が、揺れるツインテールが夢に見るほど好きになっていった。
いつの間にかマリーゴールドのライブに行っていた。
ヒナのステップも、振りも、キラキラ光る額の汗も、彼女の放つ全てがものすごく尊いものに思えた。
ヒナの推しカラーのサイリウムを買った。
ヒナの色に染まれて嬉しかった。自分が特別な何かになれた気がした。
グッズを買った。
これでいつでもヒナとつながりを感じられると、幸せだった。
握手会に行った。
一瞬でも、彼女に触れて、対面できて、生きることを肯定された気持ちになった。
部屋の壁にポスターを張った。
これでヒナが俺を近くで見守ってくれると、いつでも一緒だと、そう思った。
CDを買えるだけ買った。
CDについてくる抽選券を集めてヒナの出来るだけ近くに行きたかった。ヒナにとって1番の存在になりたかった。
ファンレターを書けるだけ書いて送った。
少しでもヒナの印象に自分のことが残って欲しいと思った。
俺はどこかで自分は強い人間だと思っていたのだと思う。
人間の本質は孤独だ。一人で生まれて、一人で死んでゆく。
そして本当の意味で他人と分かり合うことなんてない。
誰かが自分の心の内を完全に理解して、寄り添ってくれるなどありえない。
友達にしろ、恋人にしろ、群れている人間は孤独から逃れられたと勘違いしているだけだ。
一時的な安らぎに過ぎない。
どれだけ親友同士だと思っていようと環境が変わればほとんどが疎遠になる。恋人関係など短ければ1ヶ月もせずに壊れてしまう。夫婦であっても相当数が離婚し、法律上は婚姻関係でも実際は関係が破綻している場合も多くあるはずだ。
隣にいてくれる誰かを求めて、裏切られたと嘆くくせに、離れて、暫くすれば、寂しさを、心の穴を埋めるようにして、また誰かを求める。
どいつもこいつも愚かだ。
俺はそうはならない。
自分は誰かに縋る事なく一人で生きてゆくことができる。
そう思って、恋人だとか家族だとか友達だとか、寄り添い合って生きている名も知らぬ誰かを見下して嗤った。
だが、そんなことはなかった。
彼女に出逢って生きる意味を、幸せを見つけたなんて、そんな気がしてしまった。
本当にお笑い草だ。
きっと本心では、心の奥底では誰かに縋って楽になりたかったのだ。
大学時代に、他の奴らみたいに女の子と楽しそうに話したかった。
一人前に恋をしてみたかった。
そして俺はアイドルに縋ろうとしていた。
いいことなんて何もなくて、大学時代もひとりぼっちで、社会に出てもうまくいかなくて……
それでも。
そんな俺でも。
誰かを愛していいのだと思いたかった。
純粋に人を愛することができると思いたかった。
愛されていいのだと思いたかった。
生きていていいのだと思いたかった。
肯定されたかった。
許されたかった。
本当は俺のような人間が何もせずに口を開けて待っているだけで、都合良く救われることなどないことなんて痛い程に分かっていたはずだったのに……。
結局、俺は一人じゃ幸せになれない。ただ強がっているだけの弱者だった。
独りで生きていくのが正しいのだと思い込んでいたのは、きっと自分が他人からの愛を獲得できない欠陥品だと思いたくなかったからだ。
でも……。
彼女が頑張っているから、俺も頑張ろうと思えた。
一人ぼっちでも大学生活を卒業まで乗り切れた。
毎朝出勤する重い足を前に進めることができた。
他の全部が虚構で、自分の妄想で、俺の溢れそうなほどのヒナへの思いが一方通行であっても、その事実だけは変わらなかった。
今となっては自信を持って言えることではないけれど、ヒナに恋い焦がれて追い求めた毎日は幸せと呼べるものだったのかも、知れない。
それなのにどうして……。
自分でそれを壊して捨ててしまったのだろう。
「っ……」
今になって後悔の念が津波のように押し寄せる。
でも。
だとしても。
粉々になったCD。引き裂かれたポスター。
まだ部屋に散らばったままの、自分で滅茶苦茶にしたヒナのグッズの残骸が脳裏にちらつく。
自分が裏切られたとヒナを憎悪した事実は消えない。俺の考えていることなんて他の誰にも知るわけがないのかも知れない。それでも自分の心だけはどうしても騙せそうも無かった。
それを水に流して、忘れて無かったことにして、明日からはヒナを1人のファンとして普通に応援するなんて器用ことは出来そうもなかった。そんな淡泊で、あっけらかんとした人間だったならアイドルに勝手に期待して裏切られて苦しんだりしていないのだから。
だから。
きっともう、全部手遅れなんだ。
水中でもがいて、苦しくて、それでも水面に揺れる一筋の光だけに希望を見い出して手を伸ばし続けていた、あの日々には戻れない。
今はそれがどうしようもなく寂しい。
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