第10話 聖女様は改善する

 第一回の輪講は、文字通りさらしものになって終わった。悔しくはあったが、心は折れていなかった。実験を諦めたことに比べれば、こんなのかすり傷である。死にさえしなければ、すべてかすり傷と思いたい。


 宮崎研究室の一員である杏は、翌日から研究室に日参し、研究室の大テーブルで勉強に励んだ。


 水曜の輪講の準備はもとより、研究室のゼミ、最新の論文チェック、残り少ないが講義への出席と時間がいくらあっても足りない。ばかにならないのが、強制されていないが自主学習である。現代の物理学では、四年生ごときは最新の研究を理解するだけの数学的素養が足りていないのである。学年首席の杏であっても例外ではない。なんとか現代の物理学に追いつくため、必死に勉強する必要があるのである。ついでにいうと、博士論文を書く過程でなんとか自分の分野だけ現代に追いつき、運が良ければ自分の論文の範囲内でのみ世界の水準に並べるのである。だから研究者を夢見る若人は、日夜勉学に励むのである。

 なお、悲壮感はない。ブラックとも思わない。やりたいのである。わかりたいのである。それ以外はすべて価値がないのである。


 そして、同じ志の仲間がいる。


 それはともかく、杏は机にかじりついた。計算して計算して計算した。うまくいかなくなると、自販機でバナナオーレを買ってきて、飲みながら計算した。あるときバナナオーレの空きパックが三つも目の前にあるときがあった。

 そんな杏に、宮崎准教授は多くを要求しなかった。宮崎准教授自身、頭をかきむしりながら計算しているときもある。ただ、まれにではあるがバナナオーレのストローを咥えたまま手を止めていると、宮崎准教授がすっと横に立つことがあった。杏が困っている部分を的確に指さし、ごく簡単にヒントをくれた。たいてい、それだけで解けた。とてもとてもありがたかった。


 そんなこんなな一週間がすぎ、また水曜がやってきた。正直言って、準備は間に合わなかった。輪講のせいで、他学科の夜の講義の教室が変わったとかいうさわぎもあったが、知ったこっちゃなかった。


 で、輪講二回目である。ギャラリーは先週と比べ、増えこそすれ、減ってはいない。


 先週と全く同様、澤田教授からスタートし、流れるようにテキストの式が説明されていく。物理的な意味合いが明確になり、さながら色がついたようである。杏も先週同様、すべてのページを予習していたが、各教官の解説により、理解が深まる。しかし先週同様、自身の準備不足が痛感される。宮崎准教授の解説中意識が飛ばなかったことは、数少ない先週からの改善点だ。


 杏の番が来た。

「え、というわけで…」

 と説明を始め、二番目の式で恐れていたものが来た。

「それ証明して」


 やはり澤田教授である。予期したとおりであるので動揺はしなかったが、その後の展開は結局先週とほぼ同じになった。担当ページの最後まで澤田教授が説明したところで言われた。


「なんか質問は」

「ありません」

「あんた、わからんものはわからんといわんといかん。どうしてもわからんかったら、質問したらええんや」

 澤田教授は、宮崎准教授を睨みつけるようにしてそう言った。宮崎准教授がニヤッとしたのが見えた。


 二週にわたる輪講で、杏はわかったことが二つあった。


 一つめは、すべての式は、すべて自分の力で確かめないといけないことだ。確かめていないところを澤田教授は確実に見抜いてくる。杏は理論物理学を目指すのであるから、あやふやなままではいけないのだ。


 二つ目は、人の力を借りることだ。もちろん自力でできることはすべて自力でやるべきた。しかし個人の力には限界がある。だから力を合わせなければならないのだ。恐れるべきは、自分の理解の足りなさを他人に知られることでなく、わからないものをわからないままにしてしまうことだ。


 というわけで、木曜朝から宮崎研究室のテーブルにかじりつくことが続いた。一時間考えても、式が一つも進まないこともあった。バナナオーレのストローを咥えながら視線を上げると、宮崎准教授と目が合うことが何回もあった。その度、杏は立ち上がって、宮崎准教授に質問しに行った。


 輪講三回目。準備不足は相変わらずだが、もう怖いものはなかった。


「澤田先生、その二番目の式から三番目の式にいくところが、よくわかりません」

 澤田教授の解説中、杏は思い切って質問した。

「さよか…」

 澤田教授は三番目の式を消し、先程よりていねいに計算し直した。でも、まだひっかかるところがあった。

「うーん」

 澤田教授が自身のホワイトボードを見つめている。

「もしかして、ここか」

 澤田教授は、式の一部分に赤でアンダーラインを入れた。腕組みして考え込んでいる。

 すると宮崎准教授がホワイトボードのところにやってきた。青で書き込んでいく。

「こうじゃないですかね」


 しばらく見ていた澤田教授は言った。

「こりゃ一本とられたな」


 笑顔だった。

 

 その後、杏の発表まで進んだが、澤田教授に指摘された部分が解決できず、いつも通り澤田教授が解決して終わった。時刻は午後九時半だった。

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