第11話 聖女様は黄金週間を満喫する

 翌日の昼、杏は昼食をとりに学食へ向かう。宮崎研究室のメンバーといっしょである。だいたい昼食学食組は、研究室単位でテーブルを囲むことがほとんどである。したがって最近の杏は、研究室外の同期と顔を合わす機会が減っていた。


 物理学科のある建物から出て、学食へと歩く。四月も後半にさしかかり、風も春というより初夏に近い。無駄にウキウキしてくる季節である。ゴールデンウィークも近い。

 杏もウキウキする学生の一人であった。ただしゴールデンウィークの予定は無い。正確にはある。勉強である。

 研究室の鍵ももらった。図書室の鍵ももらった。これでいつでも文献をあされる。


「おーい聖女様」


 学食の手前で、同期澤田研究室の香川みのりから声をかけられた。輪講のせいで宮崎研究室と澤田研究室はなんとなくお近づきになっており、学食の列に一緒に並んでも特に違和感はなかった。結局二つの研究室でいっしょにテーブルを囲んだ。杏の隣には、澤田研究室の院生、高橋さんが座って話しかけてきた。

「わたしさぁ、聖女様がうらやましいよ」

「なにがですか」

「輪講だよ」

「基本集中砲火のさらしもんですよ」

「だからだよ、あの澤田先生に宮崎先生だよ。伊達先生も林先生も。うちを引っ張って行っている先生たちばかりだよ」

「吊るし上げで結構つらいですよ」

「あんたさ、先生たちが怖い顔してるの見たことある?」

「ないです」

「澤田先生、うちのゼミではめちゃくちゃ怖いんだよ」

「そうなんですか」

「そうだよ」

「私は怒る価値もないんじゃないですかね」

「聖女様といえど、あんたいい加減にしないと怒るよ」

「はい」

「あんたいつも帰るとき、廊下は真っ暗だろう。ほとんどあんたが最後だってことだよ」

「私が帰るとき、いつも宮崎研だけ電気ついてるよ」

「あんたはいつもベストを尽くしている。そんな人に怒るほど、うちの先生は鬼じゃないよ。期待されてるんだよ」


 ウキウキした気分は吹っ飛んだ。涙も出てきた。でも悲しみの涙じゃない。ありがたくての涙だ。


 連休に入り、杏は研究室のテーブルを独り占めし、悦に入っていた。宮崎准教授は登山に出掛けた。ほかのメンバーも旅行などでみないない。連休は研究室のゼミと講義がなくなるから、かなり時間が浮く。澤田教授の輪講で振り回されていたので、自主学習が遅れ気味である。宮崎准教授はいないから質問はできないが、わからないところは後回しにするのはやむをえなかろう。冷蔵庫も独占できるので、スーパーでまとめ買いしてきたバナナオーレを詰め込んでおいた。


 図書室を独占して、論文三昧というのも悪くない。そのために鍵を確保したのだ。水曜日に輪講が挟まるとはいえ、ほぼ自由にすごせるこの一週間は貴重だ。学内にいるのは論文の締め切りに追われているか、学会準備に重大な支障をきたしている一部の人間だけだろうから、邪魔されることは決してない。


 連休ではあるが、輪講はある。四月の最後の水曜日、林准教授が澤田教授に聞いたのだ。

「来週はゴールデンウィークですね」

「せやな。次回は来週でっせ」

「…………」

「わては毎週ゆうたんや」

「あの、家族旅行が」

「ネット会議でええで」

「私は登山中なんですが」

 宮崎准教授の趣味は登山である。

「なんとかなるやろ」


 取り付く島がなかった。


「欠席は追放や。わての目が黒いうちは二度と扶桑女子大の門をくぐらせてやらん」


 杏としては連休中も勉強する予定だったので、問題なかったが二人の先生は気の毒だった。


 そうして迎えた水曜日の午後三時、杏は澤田研究室を訪れた。講堂にPCとプロジェクタを設置しなければならない。小講堂は戦前からの建物で、歴史的建造物でもあるので建て替えできない。ネット会議の環境は常設されていないのだ。だから学科の機材が連休前に借りてあり、澤田研究室に一時保管されているはずである。設置は杏ひとりでやるつもりでいた。


 しかし、研究室のドアは開け放たれ、中はもぬけの殻である。台車に乗せてあった機材もない。


 まずい。


 杏は小講堂へ走った。


 小講堂では澤田教授みずから指揮を執って機材の設置中であった。人数を数えれば、澤田研究室総出である。澤田教授が杏をみつけた。

「あんた、今日の準備はできとるんか」

「はい、お手伝いに参上しました。遅れて申し訳ありません」

「そんなことは聞いとらん、輪講の中身は大丈夫かと聞いとるんや」

「前回よりはましだと思います」

「あかん、少なくとも六時半まではブラッシュアップせい」

「でも」

 高橋さんが怖い顔でこちらを見ている。あわてて高橋さんの近くに行き、小声で話しかけた。

「申し訳ありません、せっかくのお休みを」

「かまへんで、最初っからこうなることはわかっとった。うちらみんな三月の段階で連休の予定はキャンセルしとった」

 いつのまにか、高橋さんまで関西弁になっている。澤田研のドアの内側は大阪府なのであろう。

「それよりもあんたに手伝わせて輪講がボロボロやったら、うちらが追放や」

 もう何も言えず、杏は頭だけ下げて退散した。


 夜七時。伊達教授は普通に出席。林准教授は温泉からだろうか、どてら姿である。宮崎准教授はひげボーボーでネット参加。妙に回線が悪い。ラグもすごい。電波が一回宇宙に行っているのではなかろうか。


 輪講中、なんどか林准教授の顔の下に、お嬢さんらしき少女の顔が映る。妙になごんだところで、澤田教授が言った。


「こりゃええわ、来年度誰かがよその大学に移動しとっても、輪講は続けられるな」

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