第9話 聖女様は輪講に臨む

 3月のあの日、澤田教授は輪講のやり方を一方的に決めてきた。


「テキストはこれや、少なくともファインマン・ダイヤグラムまではマスターしてもらうで」

 古典である。特に文句はない。

「普通の輪講は1週間ごとに担当が持ち回りや。それだと神崎さんは1か月に1回くらいしかない。それでは神崎さんの勉強にならん」

「せやから、5人全員、毎週担当や。一人1ページずつなら時間的にも大丈夫やろ」

「うん、先鋒は、わてや。先鋒は試合の流れを決めるからな」

 澤田先生は無差別級なので、主将なのではなかろうか。でもそれを口にした瞬間、扶桑女子大のみならず物理学会からも追放されそうな気がする。

「次鋒は伊達せんせ、中堅は林せんせやな」

「副将は宮崎せんせ頼むで。実験が切り開き、理論がしめんと」

「主将はもちろん神崎さんや、あんたのための輪講や」


 杏は特に文句はなかった。なにせ、1週間に1ページだけやればいいのだから。


 3月の中旬、杏は早めではあるが輪講の準備を始めた。準備を始めたとたん、澤田教授の罠にはまっていることに気づいた。


 澤田教授が1ページ目。

 伊達教授が2ページ目。

 林准教授が3ページ目。

 宮崎准教授が4ページ目。

 杏が5ページ目。


 各人が1ページずつ、ほかの輪講参加者に解説する予定である。杏は5ページ目の予習をしようとして、いきなり困った。なぜなら4ぺージめまで理解できていなければ、5ページ目には手が出ないのである。


 やられた。


 結局杏は、1ページ目から5ページ目まで、すべて勉強するしかないのである。 


 そしてまったく来てほしくなかった4月第1週の水曜日午後6時半、杏は澤田研究室の前に立っていた。一人ではない。廊下中、人である。まあとにかくノックして、入室する。

「早いやんか」

 澤田先生は歓迎ムードである。

「後ろはなんや」

 杏は振り返った。廊下にいる多くの学生の視線が自分達に集まっている。杏はドアを閉めようとした。

 ドアは閉められなかった。

「私たちも輪講に出席したいんですけど」

「ええで、入り」


 たいへんなことになった。私学の扶桑大、学部長の部屋であっても、何十人も入れるわけがない。

「なんやなんや」

 廊下いっぱいの学生は、輪講希望者であった。澤田教授は廊下まで出て、学生の数を自身の目で見たうえで大きな声で言った。

「学部の小講堂や」

「先生、使用許可は」

 杏は思わず聞いた。

「学部長がええと言っとるんや」

「はい」

「神崎さん、伊達せんせ、林せんせ、宮崎せんせに連絡して」

 杏がスマホを取り出しあたふたしていると、澤田研究室の院生、高橋さんが教授の机の電話をとりあげた。

「私が連絡しておくから、聖女様は先に講堂へ行きな」


 杏は感謝しつつも、3つ上の博士後期課程の院生にも聖女様なるあだ名が浸透していることに当惑した。


 それでも、なぜ小講堂なのか。50人は楽に入る。講堂だけに、黒板だけでなく、小さいながらもステージがある。そう考えながら、廊下を早足で歩く。早足で歩く杏を何人かの院生が追い抜いていく。


 小講堂のドアを開けた杏は、院生たちが追い抜いて行った理由を知った。院生たちは、ステージ上に机と椅子を五つづつ並べていた。さすがは学部長直属の院生たち、「小講堂」の指示だけで、これだけ動ける。学生たちや院生たちがどんどん入ってきて、席は七割ほど埋まっただろうか。


 澤田教授が入場し、ステージへの階段を上る。上りきったところで振り返って杏にいった。

「あんたもはよあがり」

「さらしものやないか」

 声には出さねど、早くも関西弁が移る杏であった。


 輪講が始まった。澤田教授が立ち上がり、ホワイトボードの前に立つ。午後7時というのに、元気なおばちゃんである。

「えーテキスト1ページの式、1-1やけど……」

 澤田教授ははじめの式の物理的意味、仮定を述べていく。まったくもって、自然な立式である。

「そいでこの項を展開するとこうなるけど」

 式1-1を流れるように変形していく。

「この2次の項以降は十分小さいと考えられるわな。そやからゼロとみて……」

 わかりやすい。流石は澤田教授である。あっという間に1ページめの最後の式にたどり着き、伊達教授にバトンタッチする。


「澤田先生ありがとうございます。で、この式ですけど……」

 伊達教授の説明も、とてもとてもわかりやすかった。林准教授も同様である。二人とも専門外の実験家であるのに、とてもていねいでわかりやすい。なんなら杏の予習よりもていねいだ。


 そのことに気付いた途端、杏は林准教授の声が耳に入らなくなった。自身の予習不足に気付いたからである。


 別に手を抜いた気はない。よくわからない式展開があるにはあったが、物理的意味を考えれば自然な流れに思えた。

「神崎くん、神崎くん」

 宮崎准教授が呼んでいる。宮崎准教授の解説は、一言も杏の耳に入っていなかった。が、しかたがない。杏はホワイトボードの前に立った。


「えー、というわけで」

 何がというわけでなのか杏は自分でもわからなかったが、とにかく説明を始めた。宮崎准教授が最後に書いた式の第三項を変形すれば、自分の最初の式にたどり着けるはずだ。

「この項を展開すると、こうなりまして」

と、式を書き終えた途端、澤田教授が手を挙げた。

「それ、ほんまか」

「はい」

「じゃ、証明して」


 よくわからなかったところは、まさしくそこだった。でもわからないとは言えない。


「ですから……」

 とにかく説明を始めた。しかし誤魔化そうとしたところをすべて、澤田教授が突っ込んでくる。


 進退窮まった杏は、言葉を失った。式で埋まったホワイトボードを見渡しても、どこにも解決のヒントが見えなかった。


「ほやからな」

 澤田教授がホワイトボードの前に立ち、滔々と説明しながら次々と式を書き始めた。結局、杏の担当ページの最後まで、さらっと行ってしまった。


「なんか質問は」

「ありません」

 質問できるところまで、理解が追いついていない。


「じゃ、また来週」

 澤田教授はいつもの笑顔で、そう言っただけで講堂を出ていった。他の3人の先生たちも、普通の笑顔で席を立ち、澤田教授に続いて出ていく。


「ありがとうございました」

 杏はそうとしか言えず、ただただ教官たちを見送ることしかできなかった。学生たちも出ていった。杏は講堂に一人残り、ホワイトボードの式を書き写していった。気がつくと9時をまわっていた。

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