第8話 聖女様は説得される

 母に叩き起こされた。頭が痛い。

「十時までに大学に行くんでしょ」

 行きたくない。時計を見やれば、八時である。 

 母は布団を引っ剥がし、杏の体をむりやり起こした。

 手も足もうごかない。それより脳が動かない。

「こりゃだめだ」

 母は一言そう言うと、力づくで杏の服を着替えさせてくれた。髪をとかし、なんと化粧までしてくれた。


「大学、俺も行こうか?」

 今日は平日ではないのだろうか。なぜ父は家にいるのか。 

「いや、いい。自分で行ける」

「わかった」


 そのまま、強制的に玄関から送り出された。


 大学最寄りの駅からの坂道。大した坂道ではない。附属中のころから、いったい何回この坂を上ったであろう。おそらく今日が最後になる。道沿いに植え込まれている背の低い木一本一本が、なんだか愛おしい。坂道を登る両足は、とてもとても重かった。


 坂道を登りきり、物理学科のある建物に入る。不思議と知り合いには会わない。会いたくもない。気まずいだけた。

 3階まで階段をあがり、伊達研究室と書かれたパネルを見上げる。これもまた最後だなと思いつつ、ドアをノックした。


 返事があったので、入室する。ドア正面のテーブルは昨日と異なり、実験道具は何もない。そのかわり、大量の紙類が並んでいた。ところどころ赤い。

 テーブルの向こうには3人の教官が並んで座っている。

 真ん中は水戸から来たおじいちゃん(伊達教授)。昨日同様、にこにこしている。両サイドには林准教授と宮崎准教授。宮崎准教授の専門は固体物性理論。当然高温超伝導も扱っている。林准教授と同じ大学の同期で仲がいいらしい。伊達教授が口を開いた。

「この中では僕が一番きみとの付き合いが短いからね、この3年間、きみの提出したレポート、テストの答案、すべて読んだよ」

 杏は意地悪く、聞いてみた。

「じゃあ、去年のフォログラフィーのレポートもご覧になりましたか」

 あれは、杏の中でも出色の出来だった自負がある。立体的に映像を映し出すフォログラフィーの理論だが、数式ばかりかいている学友たちのレポートをみて、急遽一切数式なしで書き直してみたのだ。ただし、担当は赤沢教授。今はアメリカで研究中だ。だから多分そのレポートはここにはない。

「これだね」

 レポートの山から伊達先生はそのレポートを出してきた。出してきたというのはちがう。レポートの山の一番上に重ねてあった。

「これを読んでね、僕はアンデルセンの論文を思い出したよ」

 宮崎准教授が口を開いた。アンデルセンとはデンマークの理論物理学者で、その論文は数式がほどんどない。しかし世界中の物理学者の尊敬を集めている人物だ。

 それでも杏は、つい言ってしまう。

「私が数式で説明できないから、ぜんぶ言葉で書いたんですよ」

「うそだね」

 宮崎先生は、テスト答案の中から、赤沢教授のテストの答案、そして宮崎先生自身の講義「物理数学Ⅱ」の答案を示した。やっぱり一番上にあった。細かいミスを除けばほぼ満点である。杏の言いそうなことはすべて見抜かれていた。でも杏はまだ、抗った。

「そこまでおっしゃるのなら、私の推薦入試の小論文もお読みでしょう」

「あー、小論のテーマをむりやりねじまげて、実験物理への愛をつづったやつね」

 杏は口をつぐむしかなかった。

「神崎さん、大学やめる気だろ」

 林准教授が言い出した。

「この後学生課で、用紙をもらうつもりです」

「だめだよ。君の才能は、埋もれさせるには惜しすぎる」

「だって、実験はまるっきりできないじゃないですか」

 杏の目からは、ひとりでに涙が流れ出していた。母のせっかくのメイクも台無しである。

「実験だけが物理じゃないよ。僕のところに来なさい」

 宮崎准教授が言う。

「理論屋で、実験がよくわからないくせに、いろいろ数式をこねくり回す奴がいる。だけど僕たちがやっているのは自然科学だ。実験にあわない理論は無価値だ。だけど、きみならば、絶対にそんな真似はしないと確信できる」

「でも」

「きみは自然現象を数式化することができる。その数式を正しく扱うことができる。そしてこれが一番大事なことなんだが、その数式の意味を、普通の言葉にできるんだよ」

 宮崎准教授は、フォログラフィーのレポートにペンを突き立てながら言った。

「その才能は、ほとんどの人にはないんだよ。日本人の数式だらけの論文をみて、きみは批判していただろう」


 杏の後ろのドアが開いた。優花がとびこんできた。

「あんたね、ここまで言われてまだグジグジ言ってんの。覚悟をきめなさい」

「みんなね、心配しているんだよ」

 開かれたドアの外に、のぞみがいた。同期の学生がたくさんいる。後輩たちの顔も見える。もしかして登校時はみんな気を使って隠れていてくれたのだろうか。


「宮崎先生、よろしくお願いいたします。伊達先生、林先生ありがとうございます」

 杏はそういったが、涙できちんと言えたか自信はなかった。でも3人の教官のあたたかい顔を見て、気持ちは伝わっていると感じた。


「これで一件落着かね」

とご老公よろしく伊達教授が言ったところで、

「おじゃましまっせ」

と入ってきた人物がいる。澤田克子教授、本学出身の大先輩だ。学部長でもある。


 それを見た教官三人衆は思わず立ち上がろうとする。澤田教授はそれを手で押さえ、言い始めた。

「神崎さん、あんたにほんまもんの勉強をおしえたるわ」

「先生のご専門は素粒子ですよね」

「あんた超伝導やりたいんやろ、重い電子系って知ってるか」

「名前だけは」

「高温超伝導と同じく、超伝導発現機構に磁性がからんでると考えられとる。磁性が絡んでいる限り、相対論的量子論を使わんと、根本的解決にはならんとわては睨んどる」

「ならば先生がおやりになれば」

「あほか、それができるころにはわては死んどるかもしれん。若いもんがやらんならん」

「はぁ」

「だから、勉強の仕方教えたる。四月から毎週水曜日の夕方、時間あけとき。ゼミや」

「承知しました」

 ここで宮崎准教授が口をはさむ。

「私も出席したいのですが」

「あかん、あんたはプロや。プロは自分で勉強せな。院生、学生は許す」

「いや、指導教官としてですね」

「わかった、輪講や。わてと、宮崎せんせ、ついでに伊達せんせと林せんせ、神崎さんの5人で輪講や」

 伊達教授、林准教授は強制的に出席となったのに、なぜかうれしそうである。

「ただし、欠席は許さん。4月から毎週水曜、午後7時や。欠席したら追放や」

 宮崎准教授が尋ねる。

「追放って、輪講からですか?」

「ちゃう、本学から追放や。こう見えても本学理事の一人やからな」

 三人の顔が青くなった。

「ま、病欠と冠婚葬祭だけは許したろ」

「出張は?」

「インターネットちゅうもんがあるやろが」

「…………」


「ええ時代やな」

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