第7話 聖女様は帰宅する
杏はあまりのことに、そのまま研究室を出てきてしまった。昼前であったが、研究室などもうどうでも良かった。涙も止まらない。
杏にとって、人生最大の挫折である。実験家を志し、ここまでやってきた。中・高・大と楽しくやってきたが、勉学において手を抜いたことなど一度もない。やりたくない勉強もあったが、自分に必要と信じ、無理矢理にでもマスターしてきた。大学進学だって附属校からのエスカレーターであったが、高校からはむしろ国立のチャレンジを勧められたくらいだ。受験勉強はしていないが、大学のホームページからシラバスをみて、翌年学習するであろう講義の教科書をわざわざ購入し、予習をしていたのだ。
実験ができないなら、もう大学にいても意味がない。そう考えた杏は、駅に向かった。
大学キャンパスの坂道を下るとすぐ駅だが、一つだけ信号がある。その信号の赤信号が滲んで見えた。
「涙で視界が滲んでも、色でわかるものなのね」
絶望のどん底に居ながら、なぜか冷静に考えられる自分に気づいた。
風が寒い。コートは伊達先生のところにあるのだろう。スマホもその中だ。どうでもいいやと駅で切符を買い、改札を通る。
ホームは寒かった。なんで寒いのかよくわからないが、とにかく寒かった。
電車が入線してくる。吸い寄せられるように前に前にと足が出ていた。
どん、と何か冷たい物にぶつかった。転落防止のホームドアだった。ホームドアって役に立つのね、と思いつつ、電車に乗る。車内放送がいつもよりうるさいが、何を言っているのかわからない。電車を降りる頃には涙も止まっていた。すっぴんだと、泣いても化粧が流れないのは大きなメリットだと思う。
駅から自宅へと桜並木をたどる。三月はじめの桜並木は、風を遮る役には立たない。
隣家の庭には梅が咲いている。もう散りはじめだ。
母が家に居た。
「あら、はやいのね」
そう言って杏の顔を見た母は、なにかを察したのであろう。
「なにか食べる?」
「うん、なんでもいい」
「ちょっとまってて」
母の優しさはありがたいが、どんな顔をして、なにを話せばいいのかわからない。リビングのソファーに身を投げ出し、昼食ができるのを待つ。リビングでは母が視ていたテレビがつけっぱなしになっている。出演者の笑い声がリビングに流れる。しかし杏の耳には何も入ってこなかった。
台所から、何かを炒める音がする。杏は空腹を覚えたが、食欲はなかった。
「できたよー」
母の声がする。やはり食欲はなかったが、無駄な心配をかけたくないので、ダイニングで無理矢理に食べる。味は何もしなかった。
その味のない昼食を飲み込んでいると、家電が鳴った。母が出てくれた。
「杏、大学から」
大学から電話など一度もなかったので、母は驚きを隠せないようであった。とにかく出た。
「あー神崎くん、伊達だよ」
「はい」
「あのね、明日十時に研究室来てよ」
「はい、わかりました」
「十時ね、絶対だよ」
「はい、わかりました」
自分でも失礼な応対であったと思う。でも自分の物理は終わった。もうどうでもよかった。コートとスマホも取りに行かなければならないし、退学届の用紙も学生課でもらわないと。行くなら早く行ったほうがよかろう。
父の書斎のドアを開けた。父秘蔵のスコッチを手に取り、リビングに持っていった。
スコッチをテーブルに置きソファーに腰掛けると、母は無言でグラスとミネラルウォーターを持ってきた。ピーナッツの袋まで持っている。グラスにスコッチを注ぎ、ストレートであおろうとしたら、母は杏の手をつかんだ。そしてやはり無言のままミネラルウォーターで割ってくれた。
一人で飲みたかったが、母がずっとそばに居てくれた。そして何も聞かないでいてくれた。またも涙が溢れてきた。
その後のことはよく覚えていない。母が何件か電話をかけていたようである。
深夜に目が覚めると、リビングのソファーであった。なぜか父も反対側のソファーで寝ている。グラスが2つあるところを見ると、父も一緒に飲んでくれたらしい。スコッチのボトルは空になっていた。
吐き気を覚え、トイレに向かう。しばらく出るものを出して、自室のベッドにもぐりこんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます