第5話 聖女様は超伝導に魅せられる
超伝導という現象がある。一部の金属を絶対零度付近(マイナス273度くらい)まで冷やすと電気抵抗がゼロになる。電気抵抗がゼロになると、一度流した電流は、弱まることなく永遠に流れ続ける。エコである。MRIなんかに利用されている。なお発見は1911年、オランダのオンネスによる。
エコとは言っても、液体ヘリウムを用いて冷却し続けなければならない。液体ヘリウムの温度はマイナス269度くらいである。液体ヘリウムは魔法瓶にいれてもどんどん蒸発してしまうため、それなりに維持費がかかる。またヘリウムは国内で生産されないため、蒸発したヘリウムを空気中に逃してしまうと、これまたお金がかかる。だからもっと安価な液体窒素(マイナス169度)の冷却で実現される超伝導のほうが望ましい。窒素は空気中にいくらでもあるので、ヘリウムとは比べ物にならないくらい安い。
そんな夢のような物質は実はある。ベドノルツとミューラーにより従来より遥かに高い温度で超伝導を示す物質が1986年に発見され、やがてその臨界温度は液体窒素温度を超えた。このような物質を高温超伝導体といい、この現象を高温超伝導という。(ハイティーシーと言っちゃう人も多い。)発見から20年を超え、材としては実用化されつつあるが、実はこの現象の根本的理解はまだされていない。もちろん「高温超伝導は理解された」と主張する学者は一人や二人ではないが、物理学の世界ではそんなコンセンサスは得られていない。
高校2年の夏、杏は扶桑女子大のキャンパス見学で、高温超伝導の実演を見た。液体窒素で冷却された高温超伝導体の上で、磁石が浮かんでいた。杏は興奮した。興奮のあまりかぶりつきで見学すること約10秒、浮かんでいた磁石は落下した。実演していた院生はなんだかあせっていたが、杏は満足した。
そしてもうすぐ杏は大学4年生になる。3年までは講義・学生実験・演習だけの日々であったが、4年生はちがう。研究室に所属し、その研究室での研究に参加するのだ。つまり、現在の物理学の最前線にやっと自分で触れることができる。高2で超伝導に魅せられていた杏は、高温超伝導体の合成を手掛ける、林研究室を希望していた。
扶桑女子大物理学科4年生の研究室割当は、3年次終了時、学生本人の希望と成績できまる。簡単にいえば、研究室の定員に対し希望者が多い場合、成績順で配属されるということだ。
3年生の2月末、希望研究室の見学会が行われた。いくつか研究室を訪れ、指導教官や院生たちと話をするのである。研究室側の立場では、優秀な学生を確保するための大事な日である。学年首席である杏は、意気揚々と林研究室を訪れた。
高温超伝導に挑戦したいと、杏は常々公言していた。だから第一希望は林研究室であると、優花やのぞみにも話していた。友人はその二人だけではないので、クラス全員、そのことを知っていただろう。それはともかく、とにかく林研究室である。
いつもの杏は、優花やのぞみと一緒に行動することが多い。しかし、今日に限って二人とも、なんだかゴニョゴニョ言って、別行動になった。他の友人たちもなんだか変で、杏は一人林研究室の前に立っていた。
午前10時。見学会開始時刻である。林研究室のドアが開いた。ドアを開けたのは、いつぞや高温超伝導の実演を行った、院生である。いや、今は助教となり、学生実験で何度か顔を合わせていた。
「い、い、いらっしゃいませー」
何を緊張しているのだろうか。知らない間柄でもないのに。杏はことさら笑顔をつくり、入室した。
「失礼しまーす」
所狭しと実験機材が並んでいる。並んでいるというよりも、狭い実験室に立体的に組み込まれている。機材と機材の間を人間がすり抜ける感じだ。
「お、おぅ、聖女様いらっしゃい」
林准教授は男である。女子大ではあるが、教員の半数は男性だ。イケメンかつアラフォーなので学生からの人気も高い。その林准教授が妙な汗を流している。
「林せんせー、その名前好きじゃないんですけど」
「あ、あ、ごめんねー。それより、他の学生はいないのかなー」
「なぜかいませんね。それより、実験機材を見せてくださいよ」
「う、うん、見るのはいいよ、見るのは。でも触らないでね」
「わかりました」
杏は一通り見学することにした。
「去年のLETTERSのサンプルを作ったのは、これですね」
杏は電気炉を指差す。
「確かにそれで作ったけど、大事なのはその電気炉じゃないんだ。秘密のレシピがあるんだよー」
急に林准教授が前のめりになった。杏はメモ帳を取り出した。
「そのレシピとは」
「うん、それはね、」
と言ったところで、林准教授の上着の裾を引っ張る人がいる。さきほどドアを開けた助教である。般若の面のようであった。怖かった。
「そういえば、伊達先生のところには行った? 強磁場に関しては権威だよ」
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