第3話 聖女様は実験できない

 中学受験して神奈川県川崎市郊外の扶桑女子大附属中に入り、そのまま扶桑女子大に進学した。なんとなく物理学科を選んだ。高校で物理が好きだったし、将来研究者になれるのであれば学科は何でもよかった。


 物理学科では、1年次から学生実験というものがある。高校までの実験と異なり、大学での実験はきちんと数値を計測し、統計処理をする。研究者の実験と同じである。その学生実験で、杏は初回からつまずいた。


 初回の内容は、マイクロメータを用いて、物体の厚さを測定するだけのものだった。そんな簡単な実験でも、研究者への道の第一歩を踏み出す気がして、杏の心は弾んだ。

 マイクロメータは、物体の厚みを1000分の1ミリメートルまで測定できる。厚みを測定する物体をマイクロメータではさみ、ラチェットストップというネジみたいなところを回して、カチカチと2回位音が鳴れば、厚みが測定できている。

 杏は教員から渡された厚さ5ミリメートルほどの鉄板に、マイクロメータをあて、測定を始めた。気合も入った。測定誤差を減らすため、10回の測定を行う。

 カチカチ 5.209ミリメートル

 カチカチ 4.837ミリメートル

 カチカチ 4.115ミリメートル

 カチカチ 5.119ミリメートル

 カチカチ 4.995ミリメートル

 カチカチ 5.512ミリメートル

 カチカチ 4.387ミリメートル

 カチカチ 5.802ミリメートル

 カチカチ 4.466ミリメートル

 カチカチ 5.003ミリメートル

 カチカチ 4.213ミリメートル


 10回測定したところで、隣席の木本優花に声をかけた。

「優花、実際に測ると、結構誤差ってあるんだね」

「そうね、聖女様、どんな感じ?」


 聖女様とは、杏の高校時代からのあだ名である。高2の学園祭、クラスの出し物の演劇で聖女役をやってからである。優花も、同じ女子高の出身である。杏は気安く、自分の測定結果を優花に見せた。

「なにこれ、めちゃくちゃじゃん」

「真面目にやったよー。優花のも見せてよ」

 優花の結果を見て、杏は目を剥いた。

 4.932ミリメートル

 5.046ミリメートル

 5.039ミリメートル

 4.909ミリメートル

 4.985ミリメートル

 5.029ミリメートル

 4.988ミリメートル

 5.042ミリメートル

 4.986ミリメートル

 4.995ミリメートル


 結果は絶望だった。優花の測定結果のほうが、杏よりも一桁もいい。


 レポート提出は一週間後であった。嘘をついても仕方がないので、正直に書いた。レポートの評価はCだった。


 2回目からの学生実験は、二人一組となり、杏のパートナーは優花だった。この1年間は、パートナーはずっと優花になるはずだ。


 その2回目の実験は、重力加速度の測定だ。鉄線で質量1kgの錘を吊り下げ、振り子の振動周期を測ることで重力加速度を測定する。精度を上げるため、周期は振り子が10回振動する時間を測定し、それを10で割ることによって得る。杏はストップウォッチを握りしめ、実験に備えた。振り子の振動のスタートは、優花の役目だ。

「聖女様、はじめるよー」

 優花の合図で、振り子が振動を始める。杏の目前を錘が右に行ったり、左に行ったり。実験開始から少し待ち、振動が安定した頃合いを測って、杏はストップウォッチをスタートさせた。


 ゴン、ガン、ゴロロロロロ…………


 ゴンは錘が実験机に激突した音、ガンは錘が実験机から落下し床に激突した音、ゴロロロロロは錘が床を転がる音…………


 2回目のレポートも、評価はCだった。1回目がCだった杏は、気合が入っていただけに気が滅入った。


 3回目の実験では、杏が顕微鏡を覗いているとき、顕微鏡の照明が音もなく消えた。


 4回目の実験では、電源装置が火を吹いた。


 5回目の実験では、落雷により停電。その回の実験は後日やり直しとなった。


 杏の学生生活は順調そのものだった。高校までの回りくどい物理と違い、微分積分をフルに使う大学での物理は、杏の脳に自然と馴染んだ。同じ志を持つ友人たちとの付き合いも楽しい。講義でも積極的に質問し、演習でも活躍。いつの間にか大学でのあだ名も聖女様になっていた。


 物理学界隈には「パウリ効果」なる言葉がある。パウリとは、二十世紀の偉大なる理論物理学者ヴォルガング・パウリのことである。パウリは現代科学の基礎である量子力学の構築に多大な貢献をした人だ。ただし、実験は下手だった。それどころかパウリが実験機材に近づくと、実験機材が壊れてしまうという噂さえあった。これを「パウリ効果」という。


 余計なことに、木本優花はどこからか「パウリ効果」という言葉を知り、杏が実験で失敗するたび「聖女効果」を提唱した。

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