濡れた女

【あれは私が大学生時代に居酒屋でバイトをしていた時でした。】


「拓海!早くこれ持っていけ!冷めちまう!」

「はい店長!すぐ行きます!」


私は居酒屋でバイトをしており、ホールをやっていました。

忙しい土曜の夜。22時ごろでした。繁盛している店の扉を一人の若い女性が叩いていました。


「いらっしゃいませ!何名様ですか?」

「...」


その髪の長い女性はなにも言わずに人差し指を上に立てました。

垂れ下がった前髪で表情が見えず少し不気味でした。


「一名様ですね。カウンターでよろしければ今ご案内できます」

「...」


女性はなにも言わずに首を縦に振り私はカウンターに案内しました。


「ご注文お決まりでしたらお伺いいたします!」

「おい拓海!なにやってんだ!早く料理運べ!」

「あいよ!今行きます!」

「...。」

「おしぼりだけ置かせていただきます。お決まりでしたらお呼びください」


女性はなにも言わずずっと下を向いていました。

私はおしぼりを女性の前に置いてキッチンの方へと足早に向かいました。


「すみません!今きた女性の新規オーダー取ってました!」

「なに言ってんだ!早くはこべ!」


繁忙期の飲食店は荒い言葉がちょくちょく飛び交っていました。

私は料理を運んでいる途中であることに気づきました。先ほどの女性がずぶ濡れだったのです。水が滴るほど濡れていて、近くに行くと生臭さが漂っていました。


「あれ、さっきあんな濡れてたっけ」


私の独り言を横にいた同じ大学に通っている一つ下の香里が聞いていました。


「センパーイ。今なんか言ってました?」

「あ、いや、あそこに座ってる女性いるじゃん?タオルかなんか渡したほうがいいよね」


香里は不思議そうな顔をして笑いながら私に言いました。


「先輩。疲れすぎておかしくなりました?カウンターに女性なんかいませんよ」

「え?いやほらだって...」

「あ!レジにお客さん来ちゃったんで私会計してきます!」


香里は途中でレジに向かって行きました。当時の私は心霊や怪談などは一切信じていなかったので、香里が私のことをからかっているんだと思いタオルをずぶ濡れの女性に渡しました。


「良かったらこれ使ってください」

「...。」


返事はありませんでした。

そこから結構な時間が経ち、23時半になっていました。忙しかった私はカウンターに座っている一人の女性のことなど気に掛ける余裕は無くすっかり忘れていました。


「拓海ーそろそろ店閉めるぞ」

「あいよ!バッシングしてきます!」


私がグラスやお皿を下げようとしている時でした。

カウンターにずぶ濡れの女性がまだ座っていたのです。店内には1組のカップル以外は残っていないと思っていました。


「あざしたー!またお待ちしております!」


店長の大きな声が聞こえました。これでもう店内に女性以外は残っていませんでした。すると疲れた顔をした香里が私のところに来てこう言いました。


「やっとノーゲストだぁ。早く締め作業して帰りましょ」

「いやまだ一人残ってるよ。でもさあの人...」

「先輩。いいんです。あの人はほっといて良いんです」


香里は深刻そうな顔をしてこう言いました。


「私ね。小さい頃から見えるんです。先輩が店に入れた時からもずっと見えてるんです」

「変なこと言うなよ、俺のことからかってるんだろ」

「だって不思議じゃないですか?誰もずぶ濡れな女性に触れないの」


私はそれを聞いた時背筋が凍りました。確かに今思い返してみれば今日一日雨など降っておらず、周りのお客さんは誰一人びしょ濡れの髪や服、滴る水を気にしていませんでした。まるでなにも居ないかのように。


すると店長が私たちのところに来てこう言いました。


「あー香里ちゃんは見えるんだもんね。だけど拓海も見えてんのか」

「店長もあの人見えるんですか?」

「いや俺は見えないけど、香里ちゃんが前に相談してきてな。香里ちゃんと拓海はまだここで働いて10ヶ月くらいだから知らないと思うけど昔近くで事故があったんだよ」


店長が話し始めました。


「3年前に近くの川で洪水があってな、そこで一人の若い女性が子供助けるために飛び込んだんだ。流れが早くて近くに生えてる木に捕まるだけで精一杯だったそうだ」

「二人は大丈夫だったんですか?」


店長の声は若干震えていた。


「いや、子供の方は運良く岸に引っかかり無事だったんだが、助けに行った女性の方は流されちまった。ちょうど3年前の今日だな」

「...。」


私はなにも言えませんでした。

止まった空気を裂くように香里は浮かんだ疑問を店長に投げかけました。


「でも、なぜあの女性はこの店に来るんですか?」

「そん時流されたのは俺の娘なんだ。事故が起こる前、俺に電話で『今日ご飯食べに行くからね!』って電話があったんだ。それで毎年ずっとその約束を守ろうとここに来てんだ」


隣で香里が泣いていました。

毎年この日になるとカウンターは一つ開けておくらしい。


「さ!早く終わらせるぞ!賄いなに食いたい?」


店長は重くなった空気を軽くしようと話題を変えました。

店長は私たちの賄いとは別に料理を作り、それをカウンターに置きこう言いました。


「お父さんはもう約束のことは気にしてないんだ。だから、もう安心して行っていいよ」


店長は濡れた空間をゆっくりと撫でていました。

                                     完

                    

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