二十五

 実家の最寄り駅に着く前に、電車が止まってしまった。二つ前のU駅に停車したまま、動く気配がなくなった。四十分近くの行路の中で乗客は、増えることも減ることもなく、T駅で乗車した人々が、そのままボックス席に座り、バッグを抱えて眠ったり、スマホを操作したりしていた。プラットホームのひさしには氷柱ができており、除雪も間に合っていないようだった。待合室にいる人たちは、電車に乗るのを待っているのではなく、吹雪が収まるまで避難をしているらしい。


 わたしはというと、パニックを起こしかねないほどの緊張と不安にさいなまれていた。幸いにも、不安を緩和する頓服を飲むための水がリュックに入っていた。迷うことなく薬を胃に流し込み、吹雪いている外の景色を見ないように、うつむいて目をつむった。しかし、強風が容赦なく窓に打ちつけてくる。もしこの頓服が効かなかったらどうしよう、という恐怖が頭をもたげてきた。そうなってしまえば、もう為す術はない。大声を上げて泣き出し、そこら中を走り回ってしまうことだろう。そうした想像のせいで、呼吸が乱れていく。このままでは、過呼吸になってしまうかもしれない。


 わたしが最初にパニックを起こしたのは、小学一年生のときだった。給食の時間のとき、なんの前ぶれもなく過呼吸になってしまった。その場ですぐ収まったものの、その夜から、自分の呼吸のリズムが気になって仕方がなくなり、もしかしたら、このまま死ぬこともあるのではないかという、猛烈な不安を感じはじめた。それからというもの、ちょっとした「異変」に敏感に反応するようになった。豪雨になったり、大風が吹いたり、そうした「悪天候」はもちろん、教科書に記載されている、ちょっとした記述にも反応してしまうようになった。


 すると、泣きわめいてあちこち走り回ったり、うずくまったりするようになり、それを見た同級生たちからわらわれ、からかわれ、悪口を言われた。こうしたことが度重なると、担任の教師は、こんなわたしを憎みはじめて、屈辱的な言葉でののしり、教え子を扇動してわたしに敵意を持たせるように仕向けた。わたしの家族を侮辱することもあった。


 わたしはいままで、たくさんの私小説を書いてきた。だけど、この頃のことを一篇にしたいと思ったことはない。冷静でいられないのだ。怒りがふつふつといてくるのだ。わたしはあの教師を、いまでも一切赦すつもりはないし、わたしに暴力をふるい、勝手に家に侵入し盗みを働くなどの犯罪をおかした同級生たちのことも、永遠に憎み続けるつもりだ。


 幸いにも頓服は効きはじめて、副作用として眠気が訪れてきた。暖房のなかうつらうつらしているのは、心から安心できる一時だった。紆余曲折の果てに、この薬を処方してもらえるようになり、少なからず私生活が安定しはじめた。授業中に退室することも減ったし、修学旅行は断念せざるを得なかったが、県をまたいでの遠足には行けるようになった。


 いまは他にも、抗うつ剤、精神安定剤、漢方なども飲んでいる。一日十錠を越える薬を服用することにも、もう慣れてしまった。


 そうだ。いつか、わたしに似たような境遇の主人公が、懊悩おうのうの末に救済されるような、長い小説を書いてみよう。私小説ではなく、完全なるフィクションとして。なんなら、異世界や宇宙を舞台にしてもいい。歴史物にしてもいいだろう。それは自己満足と等式を結んでいると思われるかもしれないが、わたしと似たような境遇を歩んできたひとたちが、少なからず、温かい気持ちになれるような、そんな小説を作りたい。


 眠りに落ちそうになるなかで、どういう小説にするとよいだろうかなどと、あれこれ思索をめぐらせてみた。そうすると、不思議と、緊張や不安が解けていってしまった。外はまだ大吹雪であるということが、窓がガタガタ鳴る音で分かりきっているというのに。

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