二十四

 ボックス席を占有しても背徳感を覚えないのは、この車両に乗っているのが三人だけで、彼女たちもまた、同じような席にひとりずつ、収まっているからだ。T市を見渡せる方ではなく、閑散としたホームに面した窓を隣にして、本も読まずに漫然とひとのいない駅を見つめていた。いまのわたしの心身には、興奮も冷静もなく、感傷と希望が満ち満ちていた。このプラットホームを舞台にした一篇を、ものしようという気持ちにもなっていた。


 しかし思えば、三年前、あるイベントに参加するのに合わせて作った二冊目の同人誌に、こうした風景のなかに沈んだ気持ちでいる主人公を描いた掌篇を掲載していた。なんの工夫もない、読み返すのさえ恐ろしく感じるほどの愚作だと断じて構わない。当時は、なんとかページを埋めようと必死になっており、苦肉の策として、頭にパッと浮かんだものを一気呵成いっきかせいに書き上げたのだ。かといって、その同人誌の表題作の方も、及第点を出すことのできぬもので、この一冊はまだ在庫がふんだんにあるものの、今後イベントには持っていかないことに決めていた。


 そんな恥ずかしい出来の一冊だが、もしいま手元に持っていたならば、読み耽ることができそうな気がした。こうした、ヘンに自信家な心境に陥りやすいのは、わたしの欠点のひとつだった。これは傑作に違いないと思っていた応募作が、見事に落選したときになってようやく、取るに足らない一作だと気付くということは何度もあった。


 だが、いまのような自省は、本当なら控えなければならない。なぜなら、あの一冊にお金を出してくださった方々が、少なからずいらっしゃったからだ。だから、お金をいただくに相応ふさわしいと「当時」思っていたということを、尊重しなければならない。間違えても、こんなことを公言してはいけない。もうイベントに持っていかなければ、それでいいのだ。あのころの自分を否定することは、いまの自分をも否定することだ。このことを教えてくれたのは、やはり鹿野だった。


『自分の人生のある一部を、抹消したり改変したりすると、いまの自分は一体だれなのだろうかという、深刻な問いにぶつかると思うんだよね。数ページを切り取られていたり、他の本のページがじられていたりした一冊の本を想像すれば、分かるでしょう。それは、不完全な一冊だということではなくて、意味の通じない物語ということ。酷い悪文で書いた稚拙な物語だとしても、一貫としている以上は、一冊の本として完成している。いろんな本から良いところだけを引っ張ってきてできた本なんて、筆者の存在が死んでしまうだけだよ』


 鹿野は数学科に在籍していたおりに、自分が数学や数学的なことに無頓着だったことが、いまの自分の仕事にどうきているかをたずねられることに辟易へきえきしていると言っていた。自分の経歴からその事実を抹消したり省略したりすることには、強い抵抗の意志を示していた。数学を学ぶべき環境にいたことが、いまの自分を形成していないと言い切れる根拠はないし、言い切ってしまえば、あの当時の自分はだれだったのかという問いにぶつかるからだ。


 それにしても、昨日までの強迫観念はなんだったのだろう。円山との再会がきっかけになり生じた不安は、もうすっかり霧散してしまい、ひとりの大切な親友として鹿野のことを考えることができている。あの懊悩おうのうを切り離せたことで、よりいっそう、自分の「仕事」に集中できそうな気がしてきた。


 また突然に、雪が斜めに走りはじめて、向こうのプラットホームをぼんやりとさせてしまったけれど、明るい車両のなかを染みわたるのおかげか、この自然の猛威へ不安を感じることはなかった。めっすることのない電灯と、途切れることのない暖房は、わたしの神経を図太く、震えがたいものにしてくれている。ほほ弛緩しかんしたのは、言うまでもない。


 実家に帰ったら、もちろん、執筆だけに専念できるわけではない。それでも、原稿用紙三十枚の書き下ろしの短篇小説を集めた、一冊の同人誌を、五月の同人誌即売会に持っていこう。設定した目標を放棄することは止めよう、ということは昨年に決めたことだ。そんなことをしていたら、先生と仕事をするという夢は叶わない。しかしまだ、原稿用紙につづる物語については、なにも思いついていない。それだけは、不安の種として、わたしの心中に細かくかれていた。

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