二十二

 鹿野のように、目標へ向けて尋常ではない努力をしている親友もいれば、プロの作家を目指しているのに、遊んでばかりの知り合いもいる。友達とゲームに打ち興じて、投稿サイトに小説を載せるのもほとんど気まぐれで、まったくもって尊敬することができない。


 作業をするときに、鹿野とばかり通話をするのは、ストイックに努力をしているこの親友から刺激を受けたいからだ。わたしは、絶対に書くのを止めない。なんの断りもなく、都合のいい理由をこしらえて、連載を休むようなことはしたくない。積極的にイベントに参加したいし、文学賞にも次々に応募したい。いや、ではない、なのだ。


 しかし、がむしゃらに努力をすればいいというわけではない。夢を叶えるために、適切な努力をしなければならない。もうすぐ三十歳になる。身体もむかしのように「健康」とはいいがたい。進むべき道をしっかりと見極めなければならない。だから、ひとつ作戦を立てることにした。


 投稿サイトで開催されているコンテストに参加することをひかえて、大手出版社が主催するものだったり、地域の文学賞だったりに応募をするという戦略だ。というのも、読者選考があったり、何度も落ち続けていたりするコンテストは、肌に合わないし受賞をする可能性はかなり低いことが分かったからだ。そちらにリソースを割くのは、効率的ではない。


 身支度を済ませて、スマホで電車の運行状況を調べると、まだ運転は見合わせている状態だった。もう一泊するかどうか、びゅうびゅうと唸る大吹雪を聞きながら考える。駅まで向かうことさえも艱難かんなんではなかろうか。視界がホワイトアウトする可能性がある。それくらいの悪天候だ。


 しかし、間もなくチェックアウトの時間だし、金銭面の不安がある。あと一泊は考えられなくもないが、それ以上の連泊は痛手だ。下宿へと引き返そうにも、M行きの特急も動いていない。八方塞がりの状態だ。天気予報を信じるならば、今日の昼からは、雪が落ちつくらしい。だとするならば、吹雪の威勢が弱まったときを見計らって駅へ向かい、待合室で電車が動くのを待つというのが、おそらく最適解であろう。


 そのとき、廊下からこんな声が聞こえてきた。

「聖書を紐解ひもといていると、母の胎内たいないのぞいている気分になるね」


 聖書?――どういういきさつで、この言葉が登場したのだろう。わたしはいつしか、この会話の起源を考えることに必死になっていた。そもそも、廊下を歩いていたのはふたりだろうか。もしかしたら、ひとり言だろうか。ふたりだとしたら、どのような関係性なのだろう。家族だろうか、友人だろうか、カップルだろうか。


 カップル……わたしは即座に、鹿野を親友とは別の感情で眼差まなざしていた昨日の自分のことを思いだした。そのことは、わたしを不安にさせた。鹿野は親友であり、わたしの見本だ。それ以上の関係性を結ぼうなどと考えるのは、気の迷いだ。


 それでも、わたしの結婚を家族は望んでいる。しかし、わたしは乗り気になれない。思うに、かりに鹿野と結婚したとすれば、共同体の象徴である家のなかに、厳然とした個人主義を持ちこむことになるのではないだろうか。


 それぞれ自分の「仕事」に集中して、なんら強い絆を生じさせない。だけれど、そうした家族像を求められているわけではないのだろう。それくらいは分かっている。でもわたしは、いまはひとりでいたいのだ。自分のことで精一杯なのに、ほかのだれかの人生も背負うことなんてできない。


 そんな思案をしていると、また廊下からあの声が聞こえてきた。それはまるで、この部屋のドアへと語りかけているかのように、はっきりと耳に入ってきた。そしてその男の言葉は、たちまちわたしを不安にさせた。


「ヨセフと婚約していたマリア様はですね、ガブリエルという大天使に出会いまして告知を受けて、処女懐胎し、イエス様を産んだわけです。つまりマリア様は、イエス様の母ということです」


 この男性は、一体わたしになにを伝えたいのだろう。わたしの身の上や思考の文脈から外れたところにあるその説諭は、閑却かんきゃくしてはならない重要な意義を持っているからこそ、このような形で届けられているのだろうか。いつしか、この「福音ふくいん」のようなものの意味を探ろうと焦っている自分を見出した。


 このとき、吹雪の勢いががれて、ほんの少しのあいだ、空から光の束が差し込んできたことが、この一事になにか奇跡めいたものを与えていた。

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