二十一

 夜十二時。青い幽霊のように廊下を渡り、突き当たりにある自販機で缶コーヒーをふたつ買った。ついでに、麦茶のペットボトルを捨てた。いったいいくら、この自販機に投入しているのか覚えていない。


「世紀末……自死……悪魔」


 そんなことを口にしながら、どこかうす暗く見える廊下をとぼとぼと歩き、何者かにおびえるようにして、おそるおそる部屋へと戻った。机の上にそっと缶コーヒーを置いた。眠りたいという気持ちが生じない。起きていたいのだ。起きているからといって、することがあるわけではないのだけれど、眠りたくないのだ。


「世紀末……自死……悪魔」


 振り払えないその連想を懐に入れながら、を抱かせる張本人の小説に目を通していく。平安朝を舞台にした物語を書いていたころの彼には、世紀末も自死も一顧だに値しないものだったであろう(悪魔はもしかしたら、彼の書斎に忍び込んできていたかもしれない)。


 いったい彼は、いつからそれらを意識下に置いたのだろうか。物語は頭に入ってこない。視線は文章の上を滑っているだけで、別のことを考えてしまっている。わたしが身を置いているのは、世紀末ではない。悪魔に取り憑かれているわけでもない。


 自死も考えていない……本当に? わたしはこの日のように心身が弱ってしまうと、死というものを意識してしまうのが常だった。医者から処方されている頓服を飲むために、コップに水をいれた。この水のペットボトルも、あの自販機で購入したものだ。


 頓服を飲むとベッドの上に仰向けに倒れた。副作用の効果のこともあって、眠気がしないこともなかった。しかしがらんどうの世界へ落ちていく気配はなかった。夢現の境界で、働かない頭が自動的になにかを考えているだけだった。


「結婚……子供……両親」


 今度は、そんな連想を展開してしまっていた。いままで、つとめて意識していなかったことをいる。その原因である円山と深野のことを、恨めしく思わないこともなかった。だけれど、そんな逆恨みはみっともないと思い直す。


「結婚……子供……両親……鹿野」


 鹿野! この数珠つなぎは、一気にわたしを不安にした。ガバッと身を起こして、コーヒーを一気に飲み干した。いま、あの夢現の境界にいるのは危険である。考えてはならぬことが、どこからか招来してくる。


 世紀末の激動(それは実際の時系列ではなく、抽象的な姿として……憧憬しょうけいのような概念として、彼の前に現れていた)と、心身の不調に懊悩おうのうし自死を選んだ、ある作家の短篇集を再びめくりはじめた。しかし目を通している作品は、未完のまま終わっていた。わたしはこの小説の続きを考えることにした。実際に文章にするつもりは毛頭ないけれど、夢想をひらいていくことにした。


 この夢想の一時は、自分が物書きであるということを強く意識することができる分、幸福な時間だった。そして、わたしが勝手に師と仰いでいるイラストレーターの方のことを想った。プロになるまでは、生きなければならぬ。わたしは夢想を止めて、実家に帰り次第、書こうと思っている小説のことを考えはじめた。


     *     *     *


「なんだ、いまごろ帰ってきたのか」

「もう、火葬は終わっていますよ」

 親戚一同が喪服を着て仏間に円座し、わたしはその中心に悄気しょげすわっていた。


「いったい、どこに行っていたの?」

「Kに……」

「こんな大変なことが起こっているのに?」

 どうやら、わたしの母が死んだことはたしかだった。


 祖母はひとり雪の降り積もる中庭を見ながら、蜜柑の皮を噛んでは飲み込んでいた。のみならず、笑っていた。それは、よろこびをたたえた「笑い」のようだった。わたしは瞬時に、わたしたち家族の間にある複雑な関係を思いだした。


 すると、親戚たちの顔は、母の顔へと変化へんげした。そして、そのうちのいくつかは、わたしを軽蔑している視線を宿していた。


「いままで通り、自分のことだけをしていればいいさ」

 どこからともなく、そんな冷評が聞こえてきた。


     *     *     *


 わたしは、「わっ!」と大声を出して眼を覚ました。いつしか眠ってしまっていたらしい。動悸を抑えようと、もう一度ベッドに横たわり、眼を開いたまま乳白色の天井をじっと見つめた。そうしているうちに、両耳の感覚は研ぎ澄まされていき、外がまだ大吹雪に見舞われていることを知った。


「世紀末……世紀末……」

 わたしは自然と、何度もこう口にしていた。

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