十七

「ぼく、高橋さんのことが好きだったんだけど……」


 暗やみのなか、その声の主の姿を見ることはできない。それに声だけでは、それが誰なのかということも見当が付かない。高橋さんというひとのことも、思いだせない。しかしこのふたりが、高校の同級生だということは、なぜか直感的に分かった。


「思いを告げることができなくて、そのまま卒業してしまって……」


 好きなひとに思いを告げられずに卒業してしまうというストーリーは、さほど珍しいものではない。だからだろうか。これだけでは、声の主のことを思いだすための取っかかりにはならない。しかし、わたしが関係している出来事ではあるのかもしれない。


「ずっと、後悔してる。もし思いを打ち明けていたら、どうなっていただろうって……」


 一方的にこんな話を聞かされても、退屈なだけだ。こちらからなにかたずねてみようか。しかし、どうしても言葉が音にならない。だけれど、声の主は、わたしの言おうとしていることをみ取っていく。


「もし過去に戻れるとしたら、ということばかり考えてた」

(いまも?)

「いまは、それほどでもない」

(なんで?)

「新しい恋に、飛びこむことができないから。いま、好きなひとがいるんだ。だから、未練を。けれど、そう簡単には


 最後まで声の主がだれだか分からなかったし、高橋さんというひとのことも思いだせなかった。だけれど、声の主のアンビバレントな気持ちは、なんとなく理解することができる。を断ち切らないと、を生きることができない。


 しかし、本当にそうなのだろうかとも思う。過去といまを参照しあい、弁証法的に人生を捉えていく。そういうことは、できないだろうか。


 むかし、鹿野が言っていたことが思いだされる。


『一方に「過去」を、他方に「いま」を措定そていして、両者の対話を通して、現状を肯定したり否定したり分析したりするというのは、本質的に間違いではないと思うんだよね。いまの自分が成長するには、過去の自分がしたことを参照するしかないから』


 過去といまを対立軸として考えるのではなく、客観性を担保する存在として過去を措定し、いまの自分による主観的な分析を通して、成長していく。言いかえるなら、前向きに生きていく。


 と、ここまで考えて、あることに気付く。


 わたしは思っていたより、大丈夫なのかもしれない。どれくらい失敗しても、しっかりと反省してきたじゃないか。そして、鹿野はもちろん、いろいろなひとに頼りながら、成長しようともがいてきたじゃないか。


 だけれど、まだ足りないものがある。それは、解放感だ。しかしそれは、「自由」と表裏一体のものではない。「不自由」を引き受けながらも、そこに小規模な「自由」を見出すような解放感を、切に求めているのだ。


『夏目漱石の「こころ」に有名な文句があるでしょう。先生の若いときのセリフ。向上心のない者は云々うんぬんっていう。正宗白鳥の「何処へ」とか、芥川龍之介の「路上」とかの主人公に欠けていた思い切りが、彼にはあった。それは彼に不幸を呼び込んだし、一生癒えない傷と悲劇的な運命を与えたけれど』


 鹿野はよく、文学を参照して自説を補完する。


『だけどね、恋であれ勉学であれ、抽象的な夢であれ具体的な目標であれ、それらを追求するとすれば、どうしても犠牲をともなうものなんだよ。あーしは、深刻な深い傷を負う覚悟も、いつか死を引き受けなければならないということも、恐れていない。だから、がんばれる』


 むかし、鹿野がそう気焔きえんを吐いていたのを思いだす。あのときは、創作に関することで、激論を交わしていた。「楽をするな」という明快な主張を、具体的に論理的にロマンチックに、彼女は語っていた。


 鹿野の言葉を、強引にでも言いかえるなら、不自由を引き受けつつも、自由を確保しようと務める。そして、その自由の代償を払うことを恐れずに、自分のするべきことに専心する……そういうことだろう。


 身支度を整えてしまうと、チェックアウトの手続きを済ませて、二条城にお別れを告げた。K駅から特急に乗り込んで、T駅へと向かった。がらがらの車内は静かで、悲哀と憐憫れんびんを宿した咳が聞こえてくることはあっても、会話はひとつも耳に届いてこなかった。


 わたしはT駅に着くまで、世紀末の激動に絶えきれず自死を選んだ作家の初期の短篇を、打ち震えるほどの感動までは覚えないながらも、美しい寒色をまぶたの裏に彩らせながら読んでいた。

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